沢蟹と井守
何処か山の奥、人間が滅多に踏み入らぬ渓流を煌めかす物は暮春の陽光。澄んだ水の中で更に輝く物は小魚の鱗。凝と水面に突き出て苔を装う石の上に沢蟹と井守が居た。二匹は隣り合い、渓流の水が流れたり跳ねたり為る様を見詰めて居る。
「ナア、俺は學が無いから分からないのだが、水は何を思って彼方へ行くのだね。」
井守が言った。
「サア、儂も學が無いから分からないが、屹度深い理由が有るのだろうさ。」
沢蟹が言った。二匹は其の儘、尾や鋏を揺り動かして居たが今度は沢蟹から切り出した。
「今度、何処かへ遊びに行こうか。」
井守は空を見上げて目を細めた。
「俺は少し上流へ行きたいな。」
「良いじゃないか、上流へ行こう。綺麗な滝を知って居るんだ。品性の無い瀑布とは違って、彼方は良い。」
沢蟹が嬉々と鋏を振り上げて答える。井守は視線を移して其の様を見て居た。
「君は瀑布を知って居るのかい。」
井守が平坦な声で尋ねる。
「厭、知らないな。オヤ、本当に瀑布とは何であろう。」
二匹の間に春風の音が割り込んだ。
「其の様な事も稀に有ろうさ。瀑布。」
井守が顔を撫で乍ら言う。
「此の様な事も有ろうか。瀑布。」
二匹は其れから暫く笑って居たが、其処へ小さな地震が起きた。二匹は笑いを潜め、顔を見合わせた。
「揺れたね。」
沢蟹が言う。井守は深く頷いて、揺れた揺れたと言った。
「揺れて思い出した。昨晩、深刻に考えた事が有ってね。儂は君にも聞いて貰いたいんだ。」
沢蟹が井守に寄って言う。井守も少し沢蟹へ寄って行く。
「アショキって何だと思う。」
「アショキ。」井守が繰り返す。
「然う、分かるかな。」
井守は辺りを眺め回して暫く黙って居たが「俺には分からない。何だいアショキとは。」と呟いた。沢蟹は困った様な唸りを上げた切り黙り込んだ。
「ネエ、君、何だいアショキとは。」
井守が再び尋ねた。漸く沢蟹がアショキに付いて説明為る。
「実は儂が考えた言葉なのだ。昨晩、判然と脳裏に浮かび上がって……、意味が気に掛かって致し方無い。」
井守は呆れた様子乍らも興味を惹かれ、思わず少し身を乗り出して言う。
「其れは甚だ難儀だな。アショキは難儀だ。」
「アショキは難儀と云う意味であろうか。」
「厭、恐らく違うだろう。俺は地名だと思うね。」
「地名か。」
「然う、イーハトーヴとかシャングリラとか……、其処へアショキだよ、君。」
「儂は心理に関する響きだと思うが如何だろう。」
「心理か……、中々鋭いと思うね。然うか、地名に非ずか。」
「ウン、加えて言語と心理だよ。」
「言語と心理と云うと識字障害や吃音症かね。」
「厭、隔絶為れた意味を持つと予想為るね。」
「ハハ、楽しく成る。詳しく伺おう。」
「言葉の意味が入れ替わって終う心理状態がアショキだよ。」
沢蟹の其の言葉に井守は感嘆為た。両目を輝かせて、微かに得意な沢蟹を見詰める。
「例えば水を見て空と言う、儂を見て俺と言う。」
「良く分かった。然し乍らアショキは難しいよ。俺には分からないが、先人が何か名付けて終って然うだ。」
「然うだね。何、儂の閃きであるから此処から発展は為ないさ。」
「アア、今日も楽しかったよ。明日もアショキに付いて話そう。」
井守は沢蟹の甲殻を撫でると滑る様に姿を消した。沢蟹は暫く泡を吹いて居たが軈て水中へ姿を消した。
明日も二匹はアショキを語り合う。