第9話 解き放つ
友哉の家も、あの滝への入り口も、春樹は知っていた。
触れた一瞬でその人の記憶が全て入ってくるわけではない。情報が圧縮されて流れ込んでくるのとも違う。
表層部分。その人がいつも思いめぐらせている、目にしている部分を一瞬共有する。
一瞬、その人物の心を「体感」する。溶けだし、混ざり合い、一つになるのだ。
肌が離れ、融合が解けたとき、特に強い記憶と想いだけが春樹に残される。
春樹は何回かの接触で、友哉のギリギリの所で均衡を保たれていた感情に触れた。
誰のせいでもない悲劇。ただ、それぞれが幼すぎた。
あの滝まで友哉を誘い、向かい合うと、友哉は怯えた目をして春樹を見た。
死んだはずの同級生によく似た人間が、訳知り顔でその事故現場に誘ったのだ。何かの制裁が待っていると思ったのかもしれない。
春樹にはもちろん、怯えさせようなどという気持ちは少しもなかった。
手を出して『腕相撲しよう』と言ったのは、純粋にもう少し友哉の記憶に触れてみたかったからだ。
そうすれば、彼を縛っている鎖を外す鍵が見つかるかも知れない。
『勝ったら全部教えてあげるよ』
そう言ったのに、友哉は春樹の手を岩の上に押しつける直前に力を抜いた。
肌を合わせている春樹は、その瞬間心臓を掴まれたような痛みを感じた。
由宇への、信じられないほどの想い。優しさ。呵責、そして・・・。
これは何? これは・・・知らない。
僕の知らない感情だ。
勝負を決めて手を放した春樹は、動揺を読みとられないように震える唇を噛んだ。
覗き見てはいけない感情だったのかもしれない。
友哉が由宇を死へ導いたという自責。
由宇に抱いていた、友情を超えた感情への嫌悪。
自分自身への嫌悪。
大好きだった。
それなのに、優しくできなかった。
守りたいのに傷つけてしまう。
わからない。
苦しかった。
どうして?
由宇がいない。
どうして?
『友達だから』 君は言った。
それは俺の事じゃないよね。
『一緒じゃないと、可愛そうだよね』
それは、蝶のことだろ?
どうして?
あの洞穴に君は居なかった。
あったのは抜け殻だけだった。
ちいさく干からびた抜け殻だけだった。
蝶はいない。
君が逃がしてあげたんだ。かごの扉を開けて。
誰にだって渡る勇気の起きない、早い水の中を渡って。
俺が行けと言ったんだ。
君は泣いていたのに。
俺が由宇を死なせたんだね。
そうだろ?
でも俺は狡いから。
まだ何の罪も償っていない。
狡くて、汚くて、なんの価値もないのに。
優しい君はもういなくて、
俺なんかが生きている。
おかしいんだ。
間違ってるよね。
あの時、なにかが間違ったんだ。
でも、戻らないんだ。
時間が少しも戻らないんだ。
止まったまま、進まないのに、戻ることはしないんだ。
由宇が消えたあの日から
俺の時間は進まないんだ。
11歳のままで。
狡くて汚いままで。
逃げてばかりなんだ。
ねえ由宇。
おかしいだろ?
わからない。
どうしたらいいかわからない。
助けて。お願い、許して。
触れて開いた本心の泉が、傷口からあふれて春樹の胸を赤く染めた。
春樹は大きく息を吸い、激しく打つ鼓動を鎮めようとした。
自分に何が出来るのだろう。
気が遠くなるほど深い苦しみに触れて、春樹は自分の甘さに気付いた。
自分なんかに何が出来るだろう。
『あんたのしょぼい能力なんか、役になんか立たないわよ』
仕事をするうえで、いつも美沙はそう言う。
『ほら、ね。私だけで上手くいったでしょ?』
美沙は笑う。
『本当だ。やっぱり美沙にはかなわないよ』
春樹はいつもガッカリしたように言う。
美沙はそうやって春樹の能力を使う機会を無くしてくれているのだ。
全部分かっている。
ありがたいと思う。
そして同時に自分は、役に立たない、ただのバケモノなんだと、改めて思う。
美沙には気づかれてはいけない。
今でも、眠れぬ夜を過ごしていることを。
この先すべてが崩壊して、いつか美沙まで自分の前から消えてしまうんだと恐れていることを。
『わからない。
どうしたらいいかわからない。
助けて。お願い、許して』
これは友哉の声。
いや違う。・・・僕の声だ。
「おまえ、誰なんだ?」
友哉が掠れた声で訊いた。
春樹は友哉から視線を外し、流れる水面を見つめた。
「そうだな・・・。じゃあね、今から僕が独り言を言うから、君はそれを聞いていてくれる? いい?」
春樹は静かに話し始めた。
たぶん大丈夫だと春樹は思った。いや、出来ると思いたかった。
友哉から取り入れた情報を、春樹の口から友哉に返す。客観的なその作業がきっと友哉に何かを教える。
そこに何かの開放があることを春樹は信じた。
答えは友哉の中にちゃんとあった。
自分を守るために、堅く閉ざしてしまった心のブースに、ちゃんとあった。
“扉を開くだけなんだ、友哉。君は優しいから。自分の弱さと脆さに気づけば、きっと救われる。”
水面に戯れる二匹の蝶が目の端に映った。春樹は話を続けながら二匹を見ていた。
由宇が僕のしようとしていることを認め、許してくれている。
春樹はなぜかそう感じ、心が安らいだ。
「9年前のあの日、由宇という少年は、まだ明け切らない早朝、この滝壺を渡って向こう側の洞穴に行ったんだ」
“大丈夫。君だけは救ってあげる”
そう、心の中で唱えながら、春樹は静かに語り始めた。




