第6話 呼吸
『大学には行かない。僕を美沙の事務所で雇ってよ』
高校3年の進学時期に、春樹はそう言った。
大学を出るくらいの資金は、彼の親が残してくれたもので何とかなるはずだったにも関わらず。
成績も優秀で、決して勉強嫌いな方ではなかった春樹の言葉とも思えなかった。
『はあ? 高卒でどうすんのよ。こんな事務所じゃバイト並にしか稼げないし、潰しも効かないわよ?』
そう美沙が強く言っても、春樹は頑として譲らなかった。
柔和そうに見えて、言い出したら聞かないところが春樹にはある。
本当のところ、美沙はこの機を境に春樹が自分の元から離れて行くのではないかと思っていた。
あんな風に春樹に触れるのを避け、いたわりの言葉も掛けない美沙を、春樹がこれ以上慕うはずは無いと。
サヨナラして、この青年と遠く離れてしまった方が、美沙自身、楽になれる。
そうに違いない。それが正解なのだ、と。
ところが春樹は、まるでヒナが親鳥を求めるような純粋さで、美沙を慕った。
それはある意味、『そんな仕打ちに慣れてほしい』と願っていた美沙の思惑通りだったのだが。
正直、美沙の方が戸惑った。
けれど、まだ誰かを頼りたくて甘えたくて、しかしそれを懸命に堪え、一人前の顔をしようとしている少年を突き放す事が、美沙にはできなかった。
唯一自分の秘密を知っている人間がそばにいる事がこの少年の安らぎならば、それくらいの願いは聞き入れてやっても罰は当たらないのではないか、と。
適正審査に難なく合格した春樹は、3か月間訓練校に通った後、美沙の下に配属された。
「富田健吾って人、本当にここに帰って来てるんだよね」
春樹は美沙の分のシャケに手を伸ばしながら訊いた。
「それは間違いないわ。同窓会幹事に出席予定者を聞き出すの、苦労したんだから。すっぽかされたらたまんないわよ。同窓会に出る出ないは関係ないけど、とにかくこの町に帰って来てくれないとね」
「実家はもう無いんでしょ?」
「腐れ縁の友達の家はちゃんと調べてあるわ。きっとそこに転がり込むはず」
「でもなんで同窓会なんかに出るんだろう。共同経営者を借金の保証人にして逃げてる人間にしては、お気楽だよね」
「その友人に金を借りるのが帰省の本当の目的なのかもしれないわよ。それにさ、罪の意識ないんだと思うわよ? 富田は。きっとその共同経営者が、探偵を雇って自分を追ってるってことも知らないわよ」
「そんなもんなのかな。そもそも、そんないい加減な富田を信じて共同経営者になった依頼人も、マヌケだよね」
人の分まで平らげておいて、まだ物足りなさそうな顔をしながら、春樹は言った。
「なかなか厳しいご意見ですね、大食漢さん。でも依頼人は神様なのよ。悪口は禁物」
春樹はやっと箸を置き、目を輝かせて美沙に微笑んだ。
「じゃあ、その神様のために、早いとこ富田を捜しに行こう。ピクニックの時間が無くなるよ」
できればピクニックは冗談であって欲しいと思いながら、美沙は苦笑した。
このガキんちょは時々、冗談と思う事を現実にやってのける。
『ねえ、探偵の仕事なら、僕の力が役に立つと思わない?』
入社した当初、春樹は信じられない事を美沙に言った。
本気でそう思っているのか、自虐的な質の悪い冗談なのか、最初美沙には分からなかった。
ただ、その言葉に猛烈に腹が立ち、『馬鹿にすんじゃないよ!』と大声で怒鳴った。
『犯人探ししたいなら刑事にでもなりなさいよ。片っ端から人に触って、凶悪犯探して、ヒーローになりなさいよ。ついでに、善良な人たちの、人に知られたくない秘密も全部盗み見たらいいんだわ! 馬鹿にすんじゃないわよ! 人の仕事をなんだと思ってんの? あんたは、人に触らなきゃ、人の気持ちが読めないわけ?』
言うそばから感情が高ぶった。
それはもう、春樹を想っての言葉ではなく、ただプライドを傷つけられた事への怒りでしかなかった。
その言葉が春樹を傷つけると分かっても、止められなかった。
ショックを受け、怯えたような薄い琥珀色の少年の目を見ていると、もっと傷つけてやりたい気持ちにさえなってくる。
こんなにも自分はお前を想い、苦しんでいるのに。お前はそんなことも知らずに、ただ無垢な目で私を見つめ、傷つけられたと悲しんでいればいいだけなのだ。
けれど、少年の次の言葉が、美沙を冷静にさせた。
『ごめんなさい。でも僕には・・・それは呼吸をするように自然な事だったんだ』
美沙はごくりと息を呑んだ。
『それがいけないことだと知るまで、僕はそうやって世界を理解してた。特別な能力だって気付くまでは、とても自然な行為だったんだ。でも、・・・今では苦しくて、好きこのんで人に触れたりはしない。美沙、ごめんね。美沙の仕事を舐めてる訳じゃないんだ。ただ、何か、ぼくにしか出来ない事がないかと思って』
忘れられない。
自分は、ハッキリと春樹の能力が「罪」だと言ってしまった。
お前は息を詰めていろと。誰にも触れるな、と。




