第4話 特異体質
人の肌に直接触れると、その相手の心の断片を一瞬にして感じ取ってしまう。
その能力がいつから春樹に備わったのか、春樹自身にも分からないと言う。
実際それがどういう感覚なのか、美沙には想像もできなかった。
「自分の意識の中に、別の人の見た映像と感情が流れ込んで来るんだ。でも、自分の意識とごっちゃにはならない。異物感があるんだ」
と、春樹に丁寧に説明してもらっても、犬からしっぽを振る感覚を教わる様なもので、理解できるはずも無かった。
春樹がその特殊な能力を美沙にカミングアウトしてきたのは今から3年前。
春樹が中3、美沙は23歳の大学院生の時だった。
当時、春樹の8歳年上の兄と仲良くしていた美沙に、春樹は打ち明けた。
両親にも兄にも友人にも、拒絶されそうで怖くて言えなかった胸の内を、姉御肌の美沙だけに語った。
自分の意志とは関係なく、どんなに拒絶しても、肌に触れると相手の心が流れ込んでくるのだと春樹は言った。
声を詰まらせ目を赤くしながらも、必死に冷静さを保とうとして話す春樹の言葉を、美沙は黙って受け止めた。
およそ理解しがたい話だったが、あの時の春樹の目を見て『嘘をついている』と思う人間がいたら、そいつには人間の血が通っていないのだとさえ美沙は思う。
たぶん、あの時だろう。
美沙の中に、春樹に対しての特別な説明しがたい感情が生まれたのは。
その能力の感覚はわからないが、どんなに辛いかは美沙にも理解できた。人のむき出しの感情は、見たくなどない。
たとえ恋をしたとして、その子の思うこと全てを知りたいと思うだろうか。
友人だって同じ事。次第に春樹は親しい人間に触れるのを避けるようになる。
多感な少年時代、春樹は孤独に押しつぶされそうになっていた。だれにも相談出来はしない。
相談した時点で、その人間からは確実に拒絶される。
親、兄弟さえも、心穏やかではいられないだろう。
けれど、春樹は美沙に打ち明けたのだ。
もう、その心が限界にきていたのだろう。壊れる寸前だった。
あるいは誰かのナイフのような心を読み取り、一部が壊れてしまっていたのかもしれない。
すがる思いで選んだのが、美沙だった。
春樹は美沙が自分の兄の恋人だと思いこんでいた。
肌を合わすことは、決して無い人間だと思っていた。
・・・そうなんでしょ? 春樹。・・・
美沙は民宿の小さな障子窓を開けて、ガラス越しに穏やかな田園風景を眺めていた。
月明かりは街灯など必要無いほどに、辺りをうっすらと浮き出している。
しみ出すように聞こえてくる虫の声が、寂しいまでの郷愁を沸き立たせる。
「あんたは酷いよ、春樹」
美沙は自嘲気味の笑いを浮かべてつぶやいた。
薄い壁一枚隔てた隣の部屋で静かな寝息を立てているだろう少年を思うと、胸の痛みに比例して体が疼き、熱を帯びてくる。
「あんたは私にずっと道化を演じさせるのね」
聞こえればいいとさえ思いながら、美沙は語気を強めた。
「酷いよ」
声は次第に怒りを帯びてくる。
春樹のせいではない。そんなことは充分わかっているのに。
許されるなら、あの屈託なく笑う幼い頬を、素手で思い切りひっぱたいてやりたいとさえ、時々思う。
殺意さえ湧くほどの狂った愛情を、美沙は震えながら堪えるしかなかった。
「今日はどうかしてる。自分もそろそろ限界かな」
一時期は、自分の心の中など全て覗かれたってかまわない、抱きしめてやって少年を安心させてやりたいと思ったこともあった。
まだそれは、今ほどの愛情を抱く前だ。
親しく友達づきあいをしている級友の、かわいい弟。その域を超えていなかった。
けれど、あの惨事が起こった。
あの事故を境に、その思いは断ち切られた。
春樹を残して、春樹の両親、そして兄の全員が死んでしまったあの事故を境に。
いや、事故ではない。事件だ。
美沙は、唯一その全貌を知ってしまった。
警察もマスコミも、もちろん春樹も、だれ一人として知らない真実を。
『大丈夫。美沙には死んだって触らないから』
冗談半分に言った春樹の声が蘇る。
“ああ、そう願うわ。たとえ私があんたの前で倒れたって、この息が途絶えるまで私に触れないでちょうだい。絶対に!”
美沙はその26歳という年齢に似つかわしくないシワを眉間に寄せて、疲れたように目を閉じた。




