第2話 悪い癖
二人が飛び込んだ店の女主人はとても愛想良く、酔っぱらった美沙に丸イスをすすめてくれた。
ジュースやアイス、タバコや少しばかりのスナック菓子しか置いていない小さな店だったが、唯一引き戸を開けていて、入りやすい店だった。
春樹はすぐにタクシーを呼んで、予約を入れておいた民宿に行く予定だったが、その予定も美沙が狂わせた。
丸イスに座るなり後ろの壁にもたれながら、美沙は速効で眠りに落ちたのだ。
上を向いて薄く口を開け、気持ちよさそうに眠っている美沙を見て、
「美人さんじゃのに、おかしい(面白い)人じゃね」
と、女主人はけらけらと笑った。
「ええよ、客も来んし、ここで寝さしちゃげ。少しは気分も良うなるじゃろうし」
そう付け加えてくれた女主人に、春樹は申し訳なさそうに御礼を言うと、その好意に甘えさせてもらった。
すぐにタクシーに乗せても、吐いてしまうかも知れない。
問題は、自分がどれくらいここで待たねばならないかと言うことだった。
薄暗く、狭い店内に自分の居場所は無さそうだ。
春樹は迷わず炎天下の、眩しい屋外に飛び出した。
一番の繁華街であるはずの駅前だが、歩いて居る人はまばらだった。
看板を下ろした店の並ぶ、寂しい商店街を眺めながら歩いた。
春樹が歩いている道の横には、併走して細い川が流れている。商店街を抜けると、春樹はまっすぐその川の土手を歩き始めた。
『せっかく泊まるんなら、こんな寂れた田舎じゃなくて、きれいでお洒落な避暑地が良かったなあ』と、美沙は来る間中ぼやいていたが、仕事があるだけ幸せだし、春樹自身は、美沙となら何処へ行くのも苦にならなかった。
それに、田舎を持たない春樹には、こんな場所がとても新鮮だ。
土手を降り、川のほとりまで行ってみた。
4メートルほどの幅の川は、深さはあったが水底まで見えるほど透き通っている。
水面はキラキラと光を反射し、暑さを忘れさせた。
ふいに春樹の鼻先50センチほど先を、大きなトンボが横切り、そして春樹を誘うように中空で止まった。
黒と黄色の巨大なトンボだ。
「オニヤンマ・・・」
まるで小学生の子のようにつぶやくと、春樹はスイと軽やかに土手を上っていくトンボを夢中で追いかけた。
「あっ!」
勢いよく歩いてきた人物とぶつかりかけたのは、春樹が土手を上りきった時だった。
「あぶなっ!」
と叫んで睨みつけてきた青年の声に驚き、とっさに春樹は「ごめんなさい」と謝った。
こんな所から飛び出してきたのだ。明らかに自分に非がある。
再び謝ろうと青年の目を見た春樹は、奇妙な感覚に捕らわれた。
大学生くらいと思われるその青年の目は、あきらかに何かにショックを受けている。
驚きと畏怖が感じられる。
その青年は蒼白な表情のままゆっくりしゃがみ、落としたボストンバッグを拾うために手を伸ばした。
春樹の悪い癖が出た。
頭の片隅では黄色の信号が点滅しているというのに、好奇心はその信号を度々無視する。
春樹は至って自然にそのバッグを拾い上げ、青年の手に触れるようにして、手渡した。
バッグを受け取った後も、青年は無言で春樹を見つめてくる。
春樹もじっと見つめ帰す。
けれど胸が痛かった。
好奇心故に犯してしまった領域の真実が、その心臓にトンと突き刺さった。
二人が見つめ合い、無言で別れるまでほんの一瞬だったはずだ。
だが、二人にはとてつもなく長く思われた。
それは「9年間」の苦しみを確認するには充分な一瞬だった。
その青年にとっても。
そして、その青年の記憶の断片を読みこんでしまった、春樹にとっても。




