最終話 苦しみを抱いて
まばゆいばかりの緑の中を、年期の入ったローカル列車はカタカタと気だるい振動を保ちながら走ってゆく。
東海道本線に乗り換えるまで小一時間の在来線の旅だ。
シートは古くて堅く、景色も変わり映えのしない田園風景ばかりが続くが、意外にも美沙はこの時間を楽しんでいた。
二人掛けシートが進行方向に向いて並ぶタイプなので、最低限のプライバシーは守られ、リラックス出来る。
そして何よりも隣に、小学生のように目を輝かせて窓に貼り付いている、春樹がいる。
そういえば、こんなふうに二人で列車に揺られることは、あまりなかった。
今日事務所に帰れば、慌ただしい雑多な仕事が待っている。
こんなふうに春樹と泊りがけでのんびり出張なんて時間はもう取れないだろう、と美沙は思った。
「結局、春樹はそいつを助けてあげられたの?」
これと言って話すことも無かったので、あまり首を突っ込まないでおこうと思っていた話題に、美沙はなんとなく触れてみた。
「え?」
春樹は美沙の唐突な質問に、驚いたように振り向いた。
窓から入る陽射しで、その質の良いやわらかな髪が金色に光っている。美沙がいつも羨ましく思う髪質だ。
少し日焼けしたのか、頬が少し赤い。
長いまつげの涼しげな目を何度か瞬いて、じっと自分を見つめてくる。
乗車直前、この少年に「バケモノ」と言った事を思い出し、滑稽で笑えた。
バケモノ? 冗談じゃない。この子がバケモノならこの世は魑魅魍魎の掃き溜まりだ。
春樹はやんわり笑って美沙の質問に答えた。
「助けてあげたかったんだけどね。結局友哉は自分で自分を解放したんだ」
「解放?」
「うん。閉じこめてた想いをさ、バーーっと解き放ったんだ。自分がその子のことを大好きだったこと。その子が居なくなってとても悲しくて、寂しかったこと。全部今まで閉じこめてたんだ。自分のせいじゃない。悪くない、って、その事ばかりでいっぱいになって。全てを閉じこめて忘れようとしてた。だから苦しかったんだ」
まるで昨日見たドラマのワンシーンを説明するように、春樹は言った。
「心の解放・・・ねえ。ガキのくせに、哲学的なこと言うじゃない」
「哲学ってよく分からない。でもさ、人間は素直じゃなきゃいけないってことだよ。人にも、自分にも」
「けっ。生意気な。ガキのくせに」
「僕はオープン過ぎるほどオープンな美沙をすごいと思うよ。美沙はぜったいウソがつけないもんね。自分にも人にも。そんなところ好きだよ」
「それは褒めてるようで、思いっきり馬鹿にしてるでしょ?」
「まさか」
春樹はイタズラっぽくニヤッと笑った。
美沙は、その首ねっこをぐっと羽交い締めにしてやりたい衝動に駆られた。
戯れたい気持ち半分。そして腹立たしさが半分。
“冗談じゃない”
まだ楽しそうに山や畑ばかりの田舎の風景に見入っている少年を、美沙は横目でチラリと見た。
もしかしたら、その視線は怒りのほうを、多く含んでいたかも知れない。
本当に心のすべてを晒した人間が、お前に触れるとき革の手袋をはめると思うの?
薄い夏服の上からだって、触るのを躊躇っているのを、お前は知ってるじゃないか。
私が拒み、中身を見せたがらない事を知っている癖に、一度だってそれに不満を言ったことも、傷つくからやめて欲しいと言ったことも無いじゃないか!
更なる、行き先を間違えた理不尽な怒りが込み上げて来そうで、美沙は目を逸らした。
この心優しい8歳も年下の少年に、自分が抱く感情が怖くて堪らなかった。
愛しさが、そのまま憎しみに変わりそうで怖かった。
自分の中に、死守しなければならない秘密があるのが疎ましくて堪らなかった。
この茶番はいつまで続くのだろう。
美沙はふと、その柔らかな頬に触れて、全てを終わらせてしまいたい衝動にかられた。
家族を亡くし、傷を負った少年を、さらに悲しみの底に落としてしまうのだ。
・・・そして、そのあとどうする?・・・
ギュッと唇を噛む。
“そしてそのあと、少年を抱くのか。すべて脱ぎ捨てて抱いて、思い知らせるのか? お前が信頼して頼ってきた女こそが、自分の欲望に勝てない、薄汚いバケモノだったんだと”
目が眩しさに疲れてきたのか春樹はゆっくり窓から離れ、体を美沙の横に戻した。
そして美沙の目を覗き込むと、まるでその心を感じ取ったかのように、ほんの少し悲しく微笑んだ。
(END)
ここでいったん終わりますが、
物語はさらに、「KEEP OUT3」に続きます。




