仮面を剥がされた人間たちへ 〜窓際おじさんの静かなる査察〜
午前九時を告げる電子音が響くよりも早く、足音がオフィスの冷たい空気を切り裂いた。
「おい、波多野。お前、いったいどうやってこの会社に潜り込めたんだ?」
窓際の、誰からも話しかけられない陽だまり。背を丸めた男――波多野の背後に、仕立ての良いスーツの裾が鋭く翻る。声の主は、半年前に対外的な期待を背負って波多野と同時期に中途採用され、実力をもとに営業二課の課長へとスピード昇進した神崎。整えられた髪の隙間から、冷ややかな視線が突き刺さる。片や雑用、方や課長職――その歴然とした格差が、彼の傲慢さをさらに煽っていた。朝礼の最中だというのに、神崎はわざわざ周囲の背筋を凍らせる大声で言い放つ。
「今期の我が課の成績を見ろ。若手たちがどれだけ身を削って数字を作っているか、お前には理解できるか?お荷物が給料泥棒をしているせいで、他の連中の負担がどれだけ増えていると思っているんだ」
(……また始まった)
波多野は喉の奥で小さく息を呑み、湯気の立つ安物のマグカップに視線を落としたままでいる。反論の気配すらない。
「すんませんなぁ」
唇から漏れた曖昧な言葉。
「すんませんなぁで済むなら警察はいらんよ。窓際で茶を濁すだけの存在が、会社に寄生して恥ずかしくないのかね。……まあ、お前のような無能にプライドなんてないか」
神崎の侮辱の言葉が、周囲のディスプレイの群れに吸い込まれていく。社員たちはキーボードから指を離さず、息を殺すようにして視線を机上に固定していた。誰も波多野を庇わない。下手に同情して神崎の機嫌を損ねれば、次は自分がどんな標的にされるか分からなかったからだ。
神崎は満足げに鼻を鳴らす。
「さっさとその茶を飲み干して、溜まっているシュレッダーでも片付けろ」
吐き捨てて自分の席へと戻っていった。
ぴりついた空気が少しずつ日常の重さに溶けていく頃。給湯室の隅で、波多野はポットのお湯をマグカップに注いでいた。その背後に、古株の佐々木が足音を忍ばせてやってくる。佐々木は眉間を深く寄せ、先ほどの光景への怒りを噛みしめるように唇を震わせていた。
「波多野さん」
佐々木は低く声をひそめた。
「あんな若い奴に毎日ネチネチやられて、よく我慢できますね。見ていてこっちの胃が痛くなりますよ。……いっそ一言、オーナー権限でクビにしちゃえばいいのに」
波多野は苦笑いしながら、マグカップの表面に浮かぶ細かな湯気をフーフーと息で吹き飛ばす。
(あの子も必死なんだろうな)
「いやぁ、あの子さ、数字を出すセンス自体は悪くないんだよ。若い頃の勢いだけで突っ走ってるけど、案件をまとめる勘所は嫌いじゃない」
「センスが良い?あれのどこがですか。ただの傲慢な勘違い野郎じゃないですか」
佐々木が呆れたように鼻白むが、波多野はどこか穏やかな目を向けていた。
「ただ、視野が狭くてマウント取りたがり屋でさ。どうにか頭を冷やして、まっとうに矯正できないのかなぁって思ってねぇ。若い芽を最初から摘むのも味気ないだろ」
佐々木はれっきとした上の立場の人間だ。しかし波多野のその言葉を聞いて、小さく深い溜息をついた。
「……甘いですねぇ、波多野さんは。あいつはもう、自分の実力だと勘違いして手遅れ気味ですよ。でも、波多野さんがそこまで言うなら、僕からちょっと釘を刺してみましょうか。もちろん望み薄だけど、上の人間の立場から、これでも一度だけ動いてみますよ」
波多野はカップを口に運び、熱いお茶を一口すすってから、ふっと目を細めた。
「お、悪いねぇ佐々木くん。無理はしないでね。駄目ならもうしょうがない。縁がなかったってことでさ」
数日後。オフィスには相変わらず、胃の腑に重くのしかかるような殺伐とした空気が流れていた。神崎は今、全社の注目を一身に集める新規プロジェクトに心血を注いでいる。海外の巨大企業を相手取ったその契約さえ決まれば、彼のエリート街道は盤石のものとなるはずだ。
「波多野、少しは自分の無能さを恥じたらどうだ」
神崎はデスクに山積みになった契約書の束を、波多野の足元へと無造作に放り投げた。乾いた紙が床を滑り、波多野の爪先にぶつかって止まる。
「お前のような無能には関係ないがな。俺の大事なプロジェクトだ。この書類の整理と雑用はすべてお前がやれ。他の連中は忙しいんだ。老人は暇潰しに丁度いいだろ」
周囲から、くすくすと湿った失笑が漏れる。波多野はゆっくりと腰を浮かせ、床に散らばった紙の束を穏やかな手つきで拾い集めた。指先に残る紙の質感が、妙に生々しい。
「はいはい、やっときますよ。若い人が集中できる環境を作るのも、私の仕事ですからね」
波多野は表情一つ変えず、シュレッダーへと足を向ける。何事もなかったかのようにシュレッダーのスイッチを入れた。紙が断裁されるけたたましい音が、神崎のデスクの方まで響く。
その様子を、数席離れた場所から佐々木が凝視していた。彼は指先を小刻みに震わせ、意を決したように神崎のデスクへと歩み寄る。
「神崎課長、少しよろしいか」
「何です、佐々木さん。忙しいんですけど」
神崎は画面から目を離さず、あからさまに不快な息を吐き出す。
「部下への当たりが強すぎやしないか。特に波多野さんに対する態度は度を越している。チームで動いた方が、プロジェクトも円滑に進むはずだ」
佐々木は努めて冷静に、大人の助言として言葉を紡ぐ。しかし、神崎は喉の奥で鼻を鳴らした。
「笑わせないでくださいよ。古い世代の老害が、俺の足を引っ張るために嫉妬しているだけでしょう?」
神崎は椅子を勢いよく回転させ、佐々木を値踏みするように見下ろす。
「これだから成果を出せない上役は気楽でいい。数字を稼いでいるのは俺だ。俺のやり方に口を出す暇があるなら、自分の今の順位を棚卸ししたらどうですか?……あ、これからはあなたも、波多野同様に雑務をなさったらいかがです」
佐々木の善意は、神崎の剥き出しの傲慢さによって無惨に踏みにじられた。そのやり取りを、給湯室の入り口から波多野が静かに眺めていた。首を振り佐々木が席を外したちょうどその時、波多野の手の中でスマホが短く震える。佐々木から届いたメッセージだ。
『ダメでした。救いようがないバカです。せっかくの温情を……。これ以上、波多野さんに対するパワハラを見ていられません』
波多野は画面を読み終えると、小さく、喉の奥から絞り出すようなため息をついた。その穏やかだった瞳から、温もりがすうっと引いていく。代わってそこに宿ったのは、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、鋭いオーナーの目だった。
(……そうか。じゃあ、仕方ないね)
波多野は誰にも聞こえない声で独りごちる。神崎が信じ込んでいる自分の手柄というハリボテが、いままさに音を立てて剥がれ落ちようとしていた。
週初めの全体会議。張り詰めた会議室の空気は、神崎の昂揚感によって皮膚を刺すように尖っていた。
神崎はプロジェクターの前に立ち、豊かに胸を反らせる。
「我が部の売上を倍増させる一大プロジェクト、海外企業との契約を合意に至らせました!」
発表の余韻にまぎれて拍手が広がる。神崎の頬は成功に酔いしれ、周囲を値踏みするような視線が這う。彼はそのまま社長席の方向へとあごをしゃくり、微かに口の端を持ち上げた。
「つきましては、我が部の無駄なコストカットのため……この波多野を本日付で解雇します」
端の席。波多野は背筋を丸めたまま、静かに座っている。周囲の同僚たち。
(いよいよ切られたか)
安堵の息を漏らし、誰一人としてその決定に異を唱えようとはしない。
その時だった。
「解雇だと?誰が許可したのかね、神崎くん。一課長のましてや人事でもない君に、そんな権限があるのかね」
会議室の扉が重い音を立てて開き、乾いた足音が響く。そこに現れたのは、表舞台に姿を現すことの稀な創業者会長だった。その背後には険しい表情を張り詰めた顧問弁護士と、先ほど神崎が契約を勝ち取ったと豪語していた海外企業のCEOが続いている。
室内の空気が急速に凍りつく。神崎の顔から血の気がすうっと引いていくのが分かった。
「か、会長……?なぜ、ここに……」
だが、彼らが向かった先は社長でも神崎でもなかった。三人は波多野の元へ一直線に歩み寄ると、まるで古の儀式のように、その前で深々と頭を垂れたのである。
「波多野オーナー、査察、お疲れ様です」
CEOの声が、沈黙の支配する空間に落ちる。
「我が社を救ってくださった大恩人に、どうしてもご挨拶をと思いまして。今回の契約も、オーナーの多大なるご尽力あってのものです」
その一言が、会議室の土台を内側から崩し去る。波多野こそが、この会社のすべての株式と実質的な人事権を握る絶対的なオーナーだった。波多野は現場の空気と人間の生々しい実情を知るため、あえて平社員として一般フロアに潜り込んでいたのである。
波多野がゆっくりと立ち上がる。そこには、先ほどまでのへこへことした窓際おじさんの面影はもはやない。靴底が床を捉える音だけで、室内の空気が重く沈む。
波多野は崩れ落ちた神崎には目もくれず、冷ややかな視線を周囲へと巡らせた。会議室の隅で、生唾を飲み込んで事の成り行きを見守るかつての同僚たち。神崎の横暴を黙認し、自分を守るために波多野を差し出そうとした彼らの顔を、一人ずつ丁寧に舐めるように見渡していく。
「君たちは、本当に見事だったよ」
波多野の吐き捨てるような声に、社員たちが小刻みに肩を震わせる。
「毎日、誰かが理不尽に踏みつけられるのを見ていたはずだ。正義感や良心は、とっくに摩耗していたのかな。正直、残念だよ。私は、誰かが勇気を出してコンプライアンス室へ駆け込んでくれると、どこかで信じていたんだけどね」
波多野は鼻を鳴らし、失望の色を隠そうともせずに冷たく切り捨てる。
「誰も動かなかった。保身と、空気を読むことだけが、今の我が社の最優先事項だったみたいだね。本当に、期待外れだよ」
反論の言葉など誰も持ち合わせていない。自分たちの卑怯さが、誰よりも会社を愛していたオーナーの瞳にどう映っているのかが、残酷なまでに突き刺さっていた。
「さて、神崎くん。私の解雇については、法務部から詳細を報告させる。だが、その前に君が自慢していた成果について少し話をしようか」
顧問弁護士が分厚いファイルをテーブルに叩きつける。中から引き出されたのは、神崎のパワハラの音声データ、不正な経費計上の証拠、そして神崎が自分の力と信じて疑わなかった契約が、波多野の個人的なコネによって全てもたらされていたという動かぬ証明書類だった。
「佐々木くんが何度もチャンスを与えたはずだがね。君はそれを、自分の傲慢さでことごとく踏み潰した」
神崎の膝がガクガクと音を立て、そのまま床に崩れ落ちる。栄光の幻想は、最初から波多野の手のひらの上で踊らされていたピエロの劇にすぎなかった。
「馬鹿だなぁ勘違いも甚だしい。お前が、君が切り捨てようとしたのは、唯一君という人間を救おうとしていた一番の温情だったのに……」
佐々木が引き継ぐようにした宣告が、ただ静かな余韻だけを残して会議室の隅に消えていった。
翌日のオフィス。朝の電子音が鳴り響く中、窓際のいつもの席には、変わらず背を丸めた波多野の姿があった。
しかし、前日までのフロアとは空気がまったく違う。社員たちは誰一人として私語を交わさず、強烈なプレッシャーに喉を鳴らしながらディスプレイを凝視している。誰もが、昨日の会議室で突きつけられた失望の視線を反芻し、身を縮こまらせていた。保身のために見て見ぬふりをした自分たちの卑怯さが、逃れようのない十字架となって全員の肩に重くのしかかっている。
当の波多野は、そんな周囲の凍りついた気配などどこ吹く風とばかりに、安物のマグカップから立ち上る湯気をフーフーと唇で吹きながら、のんびりと熱いお茶をすすっていた。
(人間の皮を一枚剥ぐと、こんなにも面白いものが見えてくるんだな)
「いやぁ、人間は肩書を剥がさないと本性が見えんから面白いねぇ。……それと同時に、組織の空気っていうのは恐ろしいもんだね」
波多野がしみじみと呟くと、佐々木が苦笑いしながらコーヒーの入ったマグカップを片手に近寄ってきた。
「皆、昨日の今日で生きた心地がしないんでしょう。自業自得ですがね」
「まぁ、いい薬さ。これを機に、少しは風通しのいい会社に戻ってくれるといいんだがねぇ」
波多野はカップを置き、どこか遠くを見るように細めた目を緩める。
「甘い顔をするからですよ、波多野さん。あんな救いようのない男に、わざわざ矯正のチャンスなんて与えなければよかったんです」
「はっはっは。そうかい?」
波多野は静かに首を横に振る。
「いやぁ、人間は高い高い授業料を払わないと目を覚まさないってことさ。……頭を冷やすには、ちょうどいい場所を用意してやったよ」
そのちょうどいい場所――神崎の行く末は、言うまでもない。彼は即日クビこそ免れたものの、グループ会社の最果てにある、誰とも関わらない地下資料室の部署へと左遷させられていた。エリート街道を誇っていたプライドはズタズタに引き裂かれ、いまは薄暗いコンクリートの片隅で、ただ一人ひたすら段ボールと書類の山と向き合う日々を送ることになっている。高すぎる授業料を払わされた神崎の断末魔など、もはや誰も気にとめない。
「さて、これで持ち直してくれるといいけど、次の会社に移ろうかなぁ」
波多野は小さく息をつき、手元のマグカップの底に目を落とした。
「お茶が冷めちゃうね」
佐々木はふっと肩の力を抜き。
「まったくですね」
コーヒーに口をつけた。
波多野はどこか寂しそうに、けれど心の底からはっきりと晴れ渡った微苦笑を浮かべると、再びゆっくりとお茶を啜った。窓際の柔らかな朝日のなかで、会社の本当の主の穏やかな日常が、再び静かに動き出していた。




