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──《廃都ヴァニタス》地下──
階段があった。
三話で見た壁の奥。アイリスが教えた場所を掘ると、黒い階段が現れた。
下に続いている。
どこまで続いているか、見えない。
「ここか」
「はい」アイリスの声。今日は最初から一緒だった。姿はない。「この先に、中層への入口があります」
「引き返せない、と言っていたな」
「降りると、物理的な転移が不可能になります。システム上のセーフティが働かない。ログアウトも制限される可能性がある」
「可能性」
「やってみないと分からない、です」
シグマは階段を見下ろした。
黒い。照明がない。廃エリアのテクスチャが途切れて、その先は純粋な暗闇だった。ゲームの背景ではない。コードの最下層。データが途切れた先。
「NULL化率は」
「43.1パーセント。安定しています」
「持つか」
「……分かりません。コアに近づくほど、引力が強まる。進行が加速する可能性がある」
「分かった」
シグマは一歩、階段に足を置いた。
何も起きなかった。
もう一歩。
視界の端に表示が出た。
警告:システム境界を越えます
通常エリアへの帰還が制限されます
続行しますか?
[YES] / [NO]
シグマは[YES]を選んだ。
警告が消えた。
代わりに、別の表示が出た。
降下モード:起動
深度計測:開始
現在深度:0m
「……降下モード?」
「コアは階層構造です。深さの概念があります。深く潜るほど、核心に近づく」
シグマは歩き始めた。
階段は狭い。一人分の幅しかない。壁に手をつくと、冷たい感触があった。痛覚フィードバックではない。データの境界に触れている感覚。
「シグマ」
「何だ」
「……怖いですか」
「お前は」
「私は、少し怖い」
「正直だな」
「正直に──」
「学習した。分かった」
アイリスが少し黙った。
「あなたは怖くないんですか」
「……怖い」
「そうですか」
「ああ」
「それでも行く」
「行く」
「なぜ」
「怖いからやめる理由にはならない」
アイリスがまた黙った。
「……そういうものですか」
「そういうものだ」
──深度50m──
階段を降りて十分が経った。
暗闇は変わらない。照明がないのに、視界がある。不思議な感覚だった。ゲームの視覚処理が自動補正しているのか、それともコア側が何かしているのか。
現在深度:52m
NULL化率:43.3%
少し上がっていた。
「加速してる」
「予測より緩やかです。このペースなら、まだ余裕がある」
「余裕、か」
「……言い方が悪かったかもしれません」
シグマは階段を降り続けた。
足音がない。
踏んでいるはずなのに、音が消えている。空間が音を吸収している。
「アイリス」
「はい」
「コアに吸収された奴ら。意識はあるのか」
「……部分的に」
「部分的?」
「完全な意識ではない。断片です。記憶の一部、感情の一部、思考の一部。それが混ざり合って、一つの集合体になっている」
「苦しいか」
「分かりません。でも」
「でも」
「彼らの声を聞く限り、帰りたがっている。それだけは確かです」
シグマは頷いた。
誰も見ていない頷きだった。
──深度120m──
階段が終わった。
廊下が現れた。
黒い壁。床も黒い。天井はない。上を見ると、無限に続く暗闇がある。
現在深度:121m
NULL化率:44.1%
1パーセント近く上がっていた。
「引力が強まっています」
「感じる」
実際、体が重かった。歩くたびに引っ張られる感覚がある。下に、前に、奥に。
廊下の先に、扉があった。
巨大だった。シグマの背丈の三倍はある。黒い金属のような材質。表面に文字が刻まれている。見たことのない言語。コードでもない。何かの記号。
「これは」
「外層と中層の境界です」
「開くのか」
「あなたなら開けられる。ERROR BLADEのデータは、この扉を認識する権限を持っている」
シグマは扉に手を置いた。
冷たい。
データの境界より冷たい。何か別の質感。生きているような、死んでいるような。
扉が光った。
シグマの手の位置から、光が走る。亀裂のように。文字の刻印に沿って。
認証:ERROR BLADE
アクセス:許可
外層終了
中層へ移行
扉が開いた。
音がした。
重い、金属が擦れる音。現実にある音だった。ゲームの効果音ではない。
奥に、空間が広がっていた。
──中層 第一区画──
空間に境界がなかった。
廊下を抜けると、そこは広い。どれだけ広いか測れない。壁がない。天井がない。床だけがある。黒い床が、遠くまで続いている。
空には、光があった。
無数の光。
青白い、小さな光が浮いている。蛍のように。でも蛍ではない。それは──
「遺留データ……?」
「いいえ」アイリスの声が少し震えていた。「あれは、意識の断片です。コアに吸収された人たちの、一部」
シグマは光を見た。
数百。いや、数千。もっとあるかもしれない。
一つ一つが、誰かの一部だ。
「……全員、まだここにいるのか」
「はい」
声が聞こえた。
遠くから。近くから。いろんな方向から。
誰かの声。男の声、女の声、子どもの声、老人の声。
言葉になっていない。でも意味がある。
「出して」
「帰りたい」
「誰か」
「痛い」
「寒い」
「怖い」
シグマは立ち止まった。
「……聞こえる」
「いつも聞こえています。私は」
アイリスの声が、初めて崩れた。
ほんの少しだけ。
「毎日、聞いています。この声を。止められない。助けられない。ただ、聞いている」
シグマは何も言わなかった。
言葉が出なかった。
光が揺れている。
遠くで、近くで。
床の先に、何かが見えた。
構造物。
黒い、巨大な何か。形が定まらない。近づくと見え方が変わる。
「あれは」
「中層の第一区画です。ここから先、区画がいくつもある。管理者がいる最下層までは、まだ遠い」
「どのくらい」
「正確には分かりません。でも……少なくとも、今日では辿り着けない」
シグマは頷いた。
「分かった。行けるところまで行く」
「はい」
歩き始めた。
光の間を抜けて。
誰かの声を聞きながら。




