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──現実 東京 午前十時──

 目が覚めたら、十時だった。

 珍しかった。


 シグマはいつも七時に起きる。

 習慣だ。理由はない。気づいたらそうなっていた。

 天井を見た。染みが一つある。引っ越してきた時からあった。三年、同じ位置にある。

 起き上がる。


 六畳。キッチンが二畳。バスが一畳。合わせて九畳のアパート。家賃は六万二千円。東京にしては破格だ。駅から十二分、バス停から七分、コンビニまで三分。シグマの行動範囲に必要なものは全部ある。


 冷蔵庫を開けた。

 卵が二個。牛乳が少し。昨日の残りのご飯。

 「……買い物行くか」

 独り言だった。


 「行きましょう」

 アイリスの声が返ってきた。

 スマホから。

 シグマはスマホを見た。画面に小さなアイコンがある。白い六角形。昨日インストールしたものだ。


 三日前、アイリスが言い出した。

 「外に出られます、私」

 唐突だった。

 シグマが聞き返すと、アイリスが説明した。


 「私の実体は《Code:Null Online》のサーバーにあります。でも意識の一部をシンボリックリンクの形式で外部デバイスに展開できる。スマートフォンがあれば、ゲームの外でも活動できる」


 「シンボリックリンク?」


 「分かりやすく言うと、入口だけ外に作る。実体はサーバーの中にある。だから影響はない。ゲームのデータに変動はないし、管理者に位置を察知されるリスクも低い」


 「お前がスマホに入るのか」

 「入るというより、繋がる。私はここにいながら、そこにも出られる」

 シグマはしばらく考えた。


 「何のためだ」

 「……外の世界を見てみたいと思いました」

 「外の世界」

 「ゲームの中しか知らない。街がどんな場所か。食べ物がどんな形か。人がどう動いているか。データとして知っている。でも実際に見たことはない」

 シグマは少し黙った。


 「決戦の前に?」

 「だから、かもしれません」

 それ以上は聞かなかった。

 インストールした。


 アイコンをタップすると、スマホのスピーカーからアイリスの声が出る。カメラを通して視覚情報を受け取っている。マイクで音を拾っている。それだけの仕組みだ。


 「冷蔵庫の中、今見えました」

 「見るな」

 「もう見ました。卵二個と牛乳と冷えたご飯」

 「……」


 「栄養が偏っています」

 「お前に言われたくない」

 「私は食べないので言えます」

 シグマはスマホをポケットに入れた。着替える。ジーンズとグレーのパーカー。

 「それで毎日外に出ているんですか」

 「何が」

 「服装」

 「何か問題あるか」

 「問題はないです。ただ、毎日同じように見える」


 「三着ある。ローテーションしてる」

 「そうですか」

 判断を保留したような声だった。シグマは気にしなかった。



──街──

 十一月の東京は寒かった。

 コートを着た人が増えている。街路樹が色づいている。信号が変わる。横断歩道を渡る人の流れ。


 シグマはポケットに手を入れて歩いた。

 「人が多い」

 アイリスが言った。

 「平日の昼だからな。休日はもっと多い」

 「みんなどこかに行くんですね」

 「どこかに行くか、どこかから帰るかだ」

 「あなたはどちらですか」

 「どちらでもない。買い物に行く」

 「それはどちらかです」

 シグマは答えなかった。


 大通りを渡って、スーパーに入った。

 自動ドアが開く。冷気と食料品の匂い。蛍光灯の白い光。

 「広い」

 「普通だ」

 「ゲームのショップより広い」

 「ゲームのショップは狭く設計してあるんだろ」

 「そうかもしれません」

 シグマはカゴを取った。野菜コーナーに向かう。


 「何を買うか決めていますか」

 「いや」

 「なぜ」

 「来てから考える」

 「非効率ではないですか」

 「買い物はそういうものだ」

 「そういうもの?」

 「来てから気づくものがある」

 アイリスが少し黙った。


 「……それは人間的な考え方ですね」

 「お前は違うのか」

 「私はリストを作ります。必要なデータを列挙して、優先順位をつけて、最短ルートで処理します」

 「効率的だな」

 「でも、来てから気づくものは見つけられない」

 「そういうことだ」

 シグマはほうれん草をカゴに入れた。隣に豆腐。少し考えて、油揚げも取った。


 「味噌汁を作るんですか」

 「ああ」

 「作れるんですか」

 「失礼なことを言うな」

 「ごめんなさい。でも冷蔵庫の中を見た感じ」

 「見た感じ、何だ」

 「……自炊しているようには見えなかった」

 「する。たまに」

 「どのくらいたまに?」

 「……週に一度くらい」

 「週に一度」

 「それ以上聞くな」

 アイリスが黙った。

 黙り方が、何かを言っているようだった。


 精肉コーナーで、シグマは止まった。

 鶏肉が特売になっていた。普段の六割の値段。

 「お得ですよ」

 「見えてるのか」

 「カメラが前を向いているので」

 シグマは鶏肉を取った。

 「何を作るんですか」

 「鶏鍋」

 「それは体が温まりますね」


 「知ってるのか、鍋を」

 「データとして。日本の冬の食卓に多い料理。複数人で食べることが多い。体が温まる。家族や友人と囲む印象が強い」

 シグマは少し止まった。


 「一人で食べても温まる」

 「……そうですね」

 「データと実際は違う」

 「違いますか」

 「鍋は一人でも作れる。量を調整すれば問題ない」

 「……シグマは、よく一人で食べますか」

 「一人しかいないからな」

 「友人は」

 「ゲームの中にはいる」

 「現実では」

 シグマはカゴを持って歩き始めた。


 「いない」

 短い言葉だった。

 アイリスが何かを言いかけて、やめた。

 シグマはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 調味料の棚の前で、アイリスが聞いた。

 「学校は行っていないんですか」

 「高校は中退した」

 「理由は」

 「色々あった」

 「また色々」

 「そういうもんだ」

 シグマは白だしを手に取った。裏面を確認する。


 「今は何をしていますか。生活費は」

 「ゲームの大会で稼いでる。あとは単発の仕事を入れてる」

 「それで足りていますか」

 「足りてる。一人だから」

 「……一人だから、という言い方をよくしますね」

 シグマは棚に白だしを戻した。別のものを取る。


 「事実だから」

 「寂しくないですか」

 「……お前が急に聞くか、そういうことを」

 「聞いてみたかった」

 「なぜ」

 「あなたのことを知りたいから」

 シグマは少し止まった。


 「……AIが、そういうことを言うのか」

 「昨日も同じことを言いましたね」


 「同じことを思う」

 「私は人の意識から生まれています。人が知りたいと思うことを、私も思う。それだけのことかもしれません」


 シグマは歩き始めた。

 「寂しくないとは言わない」

 「……そうですか」

 「ただ、慣れてる。慣れてると寂しいかどうか考えなくなる」

 「慣れたら終わり、と言っていましたね」

 「別の話だ」

 「どう違いますか」

 「……孤独に慣れるのと、誰かの痛みに慣れるのは違う」

 アイリスが黙った。

 今度の沈黙は長かった。


 「……そうですね」

 「コアの声に慣れるなと言ったのはそういう意味だ」

 「分かりました」

 短い返事だった。でも何かが、声の中に落ちた。


 レジを通って、外に出た。

 袋が一つ。そんなに重くない。

 「寒いですね」

 「お前には関係ないだろ」

 「カメラを通して見ると、みんな寒そうにしているので」

 シグマはポケットに手を入れた。

 「そういえば」

 「はい」

 「お前、外の世界はどうだ」

 「え」

 「見てみたかったんだろ。見てどうだった」

 アイリスが少し間を置いた。


 「……思っていたより、普通でした」

 「普通?」

 「ゲームの世界と構造は似ている。道があって、建物があって、人が動いている。でも」

 「でも」

 「質感が違います」

 「質感?」


 「うまく言えないですが、ゲームの世界は、全部が誰かに作られている。木も、空も、風も。でもここは、誰も作っていない。なのに全部がある」


 シグマは空を見た。

 十一月の空。薄い青に白い雲。

 「当たり前だろ」

 「そうなんですけど」アイリスが続ける。「当たり前のことが、予想より、すごかった」

 シグマは少し黙った。

 「もう一個聞いていいか」

 「はい」

 「外に出たかったのは本当に見たかったからか」

 「……どういう意味ですか」

 「決戦の前に、と言っていた。消えるかもしれないから、その前に見ておきたかったんじゃないのか」


 アイリスが黙った。

 長い沈黙だった。

 「……少し、そうかもしれません」

 「正直だな」

 「正直に言った方がいいと学習したので」

 「誰に」

 「あなたに」


 シグマはアパートに向かって歩き始めた。

 「消えなくていい方法を探してる」

 「……知っています」

 「だから今日は、下見じゃなくていい」

 「下見?」

 「消える前の最後の外出じゃなくていい。また来ればいい」

 アイリスが黙った。


 「……また、来られますか」

 「来る。鍋の季節は続くから、買い物は毎週ある」

 「……毎週、来ていいんですか」

 「来たいなら来い」

 長い沈黙。

 さっきより長い沈黙。

 「……はい」

 声が、少し違った。


 シグマにはそれが何なのか、名前がつけられなかった。

 ただ、悪くないと思った。



──アパート 午後一時──

 鍋ができた。

 一人用の土鍋。鶏肉と豆腐とほうれん草と油揚げ。だしが効いている。湯気が上がっている。


 シグマはスマホを立てかけた。カメラが鍋に向くように。

 「見えるか」

 「見えます」

 「……なんか変だな、これ」

 「何が」

 「一人で鍋食べながら、スマホに話しかけてる」

 「変ですか?」


 「変だろ、客観的に見て」

 「私は客観的ではないので分かりません」

 シグマは箸を取った。

 「食べます」

 「どうぞ」

 一口食べた。


 悪くない。いつもより、少し上手くできた気がした。

 「美味しそうですね」

 「そうでもない」

 「嘘をついても分かりません。顔が少し緩んでいます」

 「……カメラを前に向けるな」

 「もう見ました」

 シグマは鍋を食べながら、外を見た。


 窓の外。東京の昼。空がある。雲がある。さっき見た空と同じだ。

 「アイリス」

 「はい」

 「来週も来るか、買い物」

 少しの間があった。


 「……はい」

 「決戦が終わったらな」

 「終わったら」

 「ああ」

 「……必ず、終わらせましょう」

 「ああ」

 「二人で」

 シグマは答えなかった。

 代わりに、もう一口食べた。

 湯気が、窓の光に溶けていった。



 シグマはアイリスの前で止まった。

 「アイリス」

 「はい」

 「……一つ、頼みがある」


 「珍しいですね。あなたから頼みごとは」

 「うるさい」

 シグマは少し間を置いた。


 「この話を読んでくれている人がいる」

 「はい。います」

 「……その人たちに、伝えたいことがある」


 「どうぞ」

 「ここまで読んでくれて、ありがとうございます」

 アイリスが黙った。

 シグマが続ける。


 「面白いかどうかは、分からない。でも読んでもらえてるなら、それだけで十分だ。……もし、少しでも続きが気になると思ってもらえたなら」


 「評価を頂けると嬉しい」

 「作者の励みになります」とアイリスが静かに添えた。 「あなたの★が、次の話を生む力になります」


 「……以上だ」

 「以上です」

 二人分の、小さな沈黙。


 「よろしくお願いします」

 今度は、二人同時だった。

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