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──《黒霧の回廊》跡地付近──

 レインと別れた後、シグマは人の少ないフィールドに移動した。

 「嘘をつきました」

 アイリスが言った。

 「ああ」

 「《アルカナ》を知っている」

 「ああ」

 「あなたがいたギルドですか」

 シグマは岩に座った。遠くの空に、例の塔がある。今日も見える。あの塔が出てから、見えない日がない。


 「少し話す」

 「聞きます」

 シグマは少し間を置いた。

 「三年前、俺は《アルカナ》というギルドにいた。中規模だったが実力は高かった。ギルドマスターは優秀だった。戦略家で、冷静で、メンバーの信頼が厚かった」


 「あなたも信頼していた?」

 「……していた。あの頃は」

 風が吹いた。ゲームの風は温度がない。感触だけある。

 「ある日、ギルドの一人がNULL化した。初期の段階だった。ログアウトが重いと言っていた。俺は気づいた。他のメンバーにも言った」

 「ギルドマスターは」

 「知っていた。俺より先に気づいていた」

 シグマの声が、少し低くなった。


 「ギルドマスターが言った。そいつのログを消せ、と。接続履歴を全部削除して、NULL化を発症していないことにしろ。運営に報告されたら、関与したギルドごとアカウント停止になる可能性がある。連帯責任になる前に切り捨てろ、と」

 アイリスが黙っていた。


 「俺は拒否した。そいつを見捨てることはできなかった。助ける方法を探すと言った」

 「……その人は」

 「消えた」

 短い言葉だった。

 「俺が動いている間に、NULL化が完了した。ギルドマスターはそいつのログを消した。俺の知らないところで。証拠も痕跡も何もない。最初からいなかったみたいに」


 「あなたは」

 「ギルドを出た。出される前に出た。その後、ギルドはしばらく活動を続けた。普通に、何事もなかったみたいに」

 シグマは塔を見た。

 「助けようとした俺は何もできなかった。見捨てたギルドマスターは何のペナルティも受けなかった。そういうことだ」


 「だから、人を信用しない」

 「信用した結果がそれだった」

 「……でも」


 「何だ」

 「今日、レインに会いに行きました」

 シグマは何も言わなかった。

 「《アルカナ》のことを知っていても、嘘をついてでも、話を聞きに行った」

 「……それは」

 「義務ですか?」


 間があった。

 「……そうだ」


 アイリスが静かに言った。

 「そうですか」

 信じていないような、信じているような、判断のつかない声だった。

 シグマはステータスを見た。

NULL化率: 41.4%

 変わっていなかった。


 「アルカナのギルドマスター。今も《Code:Null》にいるか」

 「……調べます。少し待ってください」

 数秒の沈黙。

 「います。現在もアクティブです。ギルドは今、百人規模に拡大している」

 「そうか」

 「……何かするつもりですか」

 「ない」

 「本当に?」

 「今は、ない」

 アイリスが黙った。


 「今は、という言い方が少し気になります」

 「気にしなくていい」

 「気になります」

 シグマは立ち上がった。

 「レインの進行率を定期的に確認してくれ。変化があったらすぐ教えろ」

 「……分かりました」

 「それだけだ」

 ログアウトしようとした。


 「シグマ」

 「何だ」

 「《アルカナ》で消えた人。名前は分かりますか」

 シグマは止まった。

 「……コウ、と呼んでいた。本名は知らない」

 「探します」

 「……無駄だ。ログは全部消えてる」

 「それでも」

 シグマは答えなかった。

 ログアウトボタンを押した。

 青だった。


──現実──

 接続シートの上で、シグマは少し動けなかった。

 三年前の話をしたのは初めてだった。

 誰にも言っていなかった。言う相手がいなかったし、言う必要もないと思っていた。

 言葉にすると、妙に軽くなった。

 それが少し、不思議だった。

 それが少し、不愉快だった。

 天井を見る。

 コウという名前を、まだ覚えている。

 声も、覚えている。

 笑い方も。

 シグマは目を閉じた。


 四日後。

 アイリスから連絡が来た。

 「レインのNULL化率が、上がっています」

 「どのくらいだ」

 「4.2から──11.3パーセントに」

 シグマは止まった。

 「一週間で7パーセント上がった。加速しています」

 「大会は」

 「十日後です」

 シグマは少し考えた。

 「理由は」

 「調べました。レインが参加している大会の予選フィールドが、廃エリアに隣接している。負荷の高い戦闘が続いている。コアの引力が届く範囲内で長時間戦っている」

 「伝えれば、やめるか」

 「……妹さんの治療費の話を聞く限り、やめないと思います」

 シグマは窓の外を見た。

 「止める方法は」

 「現状では、私が直接レインのデータに干渉してNULL進行を抑制することが可能です。ただし」

 「ただし」

 「私の存在が、管理者に察知されます。位置がバレる」

 「お前が危険になる」

 「そうなります」

 シグマはしばらく黙った。

 「やれ」

 「……シグマ」

 「お前の判断に任せると言ったら、お前はどうする」

 少しの間。

 「……やります。レインさんのデータを守ります」

 「それでいい」

 「いいんですか。私が危険になっても」

 「なるべく隠れながらやれ。俺が囮になれるなら言え」

 アイリスが黙った。

 長い沈黙。

 「……なぜ、そこまでするんですか。レインは友人ですか」

 シグマは少し考えた。

 「……昔の俺には、何もできなかった」

 「コウさんのこと」

 「ああ」

 「今度は、できる」

 「……今度も、できないかもしれない」

 「それでも」

 「それでも、やる」

 アイリスが静かになった。

 今度の沈黙は、短かった。

 「分かりました」

 声に、何かが混じっていた。

 シグマはそれを聞いた。聞いて、何も言わなかった。


 レインの大会まで、十日。

 NULL化率は、まだ上がり続けていた。

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