Code:0x02
──《廃都エリア:ヴァニタス》──
廃墟だった。
かつて栄えた都市フィールド。今は廃止済みのコンテンツエリア。
新マップ実装と同時にプレイヤーが離れ、運営も放置した場所。モンスターのリポップもない。NPCもいない。ただ朽ちた建物と、色の抜けたテクスチャだけがある。
シグマは路地の奥に立っていた。
「本当にここか」
「はい。遺留データの反応はこのエリアに集中しています」
アイリスの声は、今日はゲームの中でも聞こえた。
姿はない。声だけがある。
「姿を出さないのか」
「今は干渉コストが高い。管理者に位置を知られる可能性がある」
「分かった」
シグマはステータスを確認した。
CLASS: ERROR BLADE
NULL化率: 39.2%
エリア:廃都ヴァニタス(非アクティブ)
昨日より0.5パーセント上がっていた。
特に何もしていないのに。
「遺留データというのは何だ」
「NULL化が完了する直前、意識の転送が一瞬だけ不完全になることがある。その瞬間に、データの断片が外に零れる。それが遺留データです」
「消えた奴の、残骸か」
「……残骸という言い方は」
「他に何て言う」
沈黙。
「残滓、と私は呼んでいます」
「同じだろ」
「……そうかもしれません」
シグマは歩き始めた。廃墟の石畳は表示が荒い。ポリゴンの継ぎ目が見える。このエリアがいかに長く放置されているかが分かる。
路地を抜けると、広場に出た。
中央に噴水の跡がある。水は出ていない。ベースのモデルだけが残っている。
そこに、光があった。
小さかった。人の手のひらほど。青白い、不安定な光。揺れている。炎のように、でも炎ではない。
シグマは近づいた。
光が反応した。
揺れが強くなる。シグマが手を伸ばす。触れた瞬間、
声が聞こえた。
男の声だった。
「──誰かいるか」
「──ここ、出られないんだけど」
「──バグ? 運営に報告した方がいいかな」
複数ではなかった。一人の声だ。でも時間がバラバラだった。断片が、ランダムに再生されている。
「──ログアウトボタンが赤い」
「──誰か」
「──なあ」
最後の一言だけが、他と違った。
懇願ではなかった。諦めてもいなかった。
ただ、誰かに届けようとしていた。
光が消えた。
シグマは手を引いた。
「……今のが遺留データか」
「はい。NULL化直前の記憶の断片です。本人はもうコアの中にいる」
「名前は」
「データが不完全で特定できません。ゲームIDも消えている」
シグマは噴水の縁に座った。
「何人いる、このエリアに」
「反応を確認しているだけで、十七個。ただし遺留データは時間経過で消滅します。古いものはすでに読めなくなっている」
「十七」
「このエリアだけで。ゲーム全体では──」
「言うな」
アイリスが黙った。
シグマは空を見た。廃エリアの空はテクスチャが一枚絵だった。雲が動かない。止まったままの空。
「こいつらはなんで廃エリアに残ってるんだ」
「NULL化が進むと、プレイヤーは無意識にアクティブエリアから外れていく。人目につかない場所に移動する。本人は気づいていない。システムが誘導している」
「逃げられないようにか」
「目撃者を減らすために、だと思います」
シグマは立ち上がった。
「全部触っていくぞ」
「……シグマ」
「何だ」
「あなたが遺留データに触れると、NULL化率が上昇します。0.1から0.3程度ですが」
「だから?」
「十七個すべて触れると、最大で5パーセント近く上がる可能性がある」
「分かった」
「……分かった、というのは」
「やる、ということだ」
沈黙。
「理由を聞いても」
「ない」
「また?」
「また」
アイリスが黙った。
シグマは次の光を探して歩き始めた。
建物の陰に二つ。
壊れた橋の下に一つ。
路地の奥、誰も来ないような場所に三つ。
触れるたびに声が聞こえた。
女の声。子どもの声。老人の声。
内容はバラバラだった。戦闘中の叫び。誰かを呼ぶ声。笑い声の断片。「ありがとう」という言葉。「もう少し」という言葉。「帰りたい」という言葉。
全部、NULL化直前のものだった。
シグマはそれを一つずつ、触れて、聞いた。
何かができるわけではない。助けられるわけではない。ただ、聞いた。
七つ目を終えたとき、アイリスが言った。
「……あなたは、優しいですね」
シグマは止まった。
「違う」
「え」
「優しさじゃない」
「では、なんですか」
シグマは答えなかった。
代わりに歩き始めた。
十二個目を終えたとき、変化があった。
廃墟の中心部に近づいたとき、遺留データではない光を見た。
大きかった。人の背丈ほど。青白い光が、建物の壁一面に広がっている。文字のような形をしている。
「アイリス」
「……見えています。これは遺留データじゃない」
「何だ」
「分かりません。こんな形のデータは、見たことがない」
シグマは近づいた。
光が文字の形をしている。だが既知の言語ではない。コードでもない。何かの記号。あるいは、誰かが残したメッセージ。
触れた。
空間が変わった。
一瞬だった。
暗闇。
広い。底がない。上もない。ただ暗い空間。
その中心に何かがあった。
巨大だった。
球体のような、歪んだ何か。光と影が混ざって形が定まらない。近づくと見え方が変わる。引力のような何かがある。
シグマはそれを見た。
声が聞こえた。
一つの声ではなかった。何百、何千の声が重なって、一つになっていた。言葉になっていない。感情だけが音になっている。
恐怖。
混乱。
「帰りたい」
「出して」
「誰か」
「誰か」
「誰か」
シグマの視界に文字が浮かんだ。
警告:コア近傍データを検知
当該エリアへのアクセスは禁止されています
接続を切断します
廃墟が戻ってきた。
シグマは膝をついていた。
頭が痛い。耳の奥に声が残っている。
「シグマ!」
アイリスの声が聞こえた。珍しく、動揺していた。
「……今のが、コアか」
「記録映像だと思います。コアの状態が遺留データに焼き付いていた。あなたがそこに意図せずアクセスした」
「デカかった」
「……はい」
「あの中に、全員いるのか」
「全員、います」
シグマは立ち上がった。膝の土を払う。
「聞こえた。声が」
「……そうですか」
「帰りたい、と言ってた」
アイリスが黙った。
長い沈黙だった。
「私にも聞こえています。ずっと」
声が、少し違った。
いつもと同じ抑揚のない声だった。でも、重さが違った。
「毎日聞こえています。コアが大きくなるたびに、声が増える。私はそれを聞き続けている。防衛AIだから。それが役割だから。だけど」
「だけど」
「慣れない」
シグマは空を見た。
動かない空。止まった雲。
「慣れなくていい」
「え」
「慣れたら終わりだ」
アイリスが、また黙った。
今度は短かった。
「……はい」
何かが、声に混じった。
シグマはそれに気づいたが、何も言わなかった。
残り五つの遺留データを回収し終えたのは、一時間後だった。
NULL化率: 41.4%
予測より上がっていた。コアの映像に触れた分が加算されたらしい。
シグマはその数字を見た。
「アイリス」
「はい」
「コアを壊す以外に、あの中の奴らを出す方法はないのか」
「今のところ、ありません」
「探せるか」
「……探します」
「それと」
「はい」
「さっき見たコア。あれの正確な場所は分かるか」
「ゲームサーバーの最下層です。座標という概念では示せない。でも入口はある」
「どこだ」
「管理者が守っています。あれを越えない限り、入口には近づけない」
シグマは頷いた。
「分かった」
「……一つ、聞いていいですか」
「何だ」
「さっき。優しさじゃない、と言っていた。では何なのか。まだ、教えてもらえませんか」
シグマは少し黙った。
「……義務だ」
「義務?」
「声を聞いた。だから聞き届ける。それだけだ」
アイリスが黙った。
「……そうですか」
「変か」
「いいえ」
間があった。
「────ありがとうございます」
シグマは何も言わなかった。
ログアウトボタンを確認した。
青だった。
押した。
廃都ヴァニタスは、また静かになった。




