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──《廃都エリア:ヴァニタス》──

 廃墟だった。

 かつて栄えた都市フィールド。今は廃止済みのコンテンツエリア。

 新マップ実装と同時にプレイヤーが離れ、運営も放置した場所。モンスターのリポップもない。NPCもいない。ただ朽ちた建物と、色の抜けたテクスチャだけがある。

 シグマは路地の奥に立っていた。


 「本当にここか」

 「はい。遺留データの反応はこのエリアに集中しています」

 アイリスの声は、今日はゲームの中でも聞こえた。

 姿はない。声だけがある。

 「姿を出さないのか」

 「今は干渉コストが高い。管理者に位置を知られる可能性がある」

 「分かった」

 シグマはステータスを確認した。


CLASS: ERROR BLADE

NULL化率: 39.2%

エリア:廃都ヴァニタス(非アクティブ)


 昨日より0.5パーセント上がっていた。

 特に何もしていないのに。


 「遺留データというのは何だ」

 「NULL化が完了する直前、意識の転送が一瞬だけ不完全になることがある。その瞬間に、データの断片が外に零れる。それが遺留データです」

 「消えた奴の、残骸か」

 「……残骸という言い方は」

 「他に何て言う」

 沈黙。


 「残滓、と私は呼んでいます」

 「同じだろ」

 「……そうかもしれません」

 シグマは歩き始めた。廃墟の石畳は表示が荒い。ポリゴンの継ぎ目が見える。このエリアがいかに長く放置されているかが分かる。


 路地を抜けると、広場に出た。

 中央に噴水の跡がある。水は出ていない。ベースのモデルだけが残っている。

 そこに、光があった。


 小さかった。人の手のひらほど。青白い、不安定な光。揺れている。炎のように、でも炎ではない。

 シグマは近づいた。

 光が反応した。

 揺れが強くなる。シグマが手を伸ばす。触れた瞬間、


 声が聞こえた。


 男の声だった。

 「──誰かいるか」

 「──ここ、出られないんだけど」

 「──バグ? 運営に報告した方がいいかな」

 複数ではなかった。一人の声だ。でも時間がバラバラだった。断片が、ランダムに再生されている。

 「──ログアウトボタンが赤い」

 「──誰か」

 「──なあ」


 最後の一言だけが、他と違った。

 懇願ではなかった。諦めてもいなかった。

 ただ、誰かに届けようとしていた。

 光が消えた。

 シグマは手を引いた。

 「……今のが遺留データか」

 「はい。NULL化直前の記憶の断片です。本人はもうコアの中にいる」

 「名前は」

 「データが不完全で特定できません。ゲームIDも消えている」

 シグマは噴水の縁に座った。

 「何人いる、このエリアに」

 「反応を確認しているだけで、十七個。ただし遺留データは時間経過で消滅します。古いものはすでに読めなくなっている」

 「十七」

 「このエリアだけで。ゲーム全体では──」

 「言うな」

 アイリスが黙った。


 シグマは空を見た。廃エリアの空はテクスチャが一枚絵だった。雲が動かない。止まったままの空。

 「こいつらはなんで廃エリアに残ってるんだ」

 「NULL化が進むと、プレイヤーは無意識にアクティブエリアから外れていく。人目につかない場所に移動する。本人は気づいていない。システムが誘導している」

 「逃げられないようにか」

 「目撃者を減らすために、だと思います」

 シグマは立ち上がった。


 「全部触っていくぞ」

 「……シグマ」

 「何だ」

 「あなたが遺留データに触れると、NULL化率が上昇します。0.1から0.3程度ですが」

 「だから?」

 「十七個すべて触れると、最大で5パーセント近く上がる可能性がある」

 「分かった」

 「……分かった、というのは」

 「やる、ということだ」

 沈黙。


 「理由を聞いても」

 「ない」

 「また?」

 「また」

 アイリスが黙った。

 シグマは次の光を探して歩き始めた。


 建物の陰に二つ。

 壊れた橋の下に一つ。

 路地の奥、誰も来ないような場所に三つ。

 触れるたびに声が聞こえた。

 女の声。子どもの声。老人の声。


 内容はバラバラだった。戦闘中の叫び。誰かを呼ぶ声。笑い声の断片。「ありがとう」という言葉。「もう少し」という言葉。「帰りたい」という言葉。

 全部、NULL化直前のものだった。

 シグマはそれを一つずつ、触れて、聞いた。

 何かができるわけではない。助けられるわけではない。ただ、聞いた。


 七つ目を終えたとき、アイリスが言った。

 「……あなたは、優しいですね」

 シグマは止まった。

 「違う」

 「え」

 「優しさじゃない」

 「では、なんですか」

 シグマは答えなかった。

 代わりに歩き始めた。


 十二個目を終えたとき、変化があった。

 廃墟の中心部に近づいたとき、遺留データではない光を見た。

 大きかった。人の背丈ほど。青白い光が、建物の壁一面に広がっている。文字のような形をしている。

 「アイリス」

 「……見えています。これは遺留データじゃない」

 「何だ」

 「分かりません。こんな形のデータは、見たことがない」


 シグマは近づいた。

 光が文字の形をしている。だが既知の言語ではない。コードでもない。何かの記号。あるいは、誰かが残したメッセージ。

 触れた。


 空間が変わった。


 一瞬だった。

 暗闇。

 広い。底がない。上もない。ただ暗い空間。

 その中心に何かがあった。

 巨大だった。


 球体のような、歪んだ何か。光と影が混ざって形が定まらない。近づくと見え方が変わる。引力のような何かがある。

 シグマはそれを見た。

 声が聞こえた。

 一つの声ではなかった。何百、何千の声が重なって、一つになっていた。言葉になっていない。感情だけが音になっている。


 恐怖。

 混乱。

 「帰りたい」

 「出して」

 「誰か」

 「誰か」

 「誰か」


 シグマの視界に文字が浮かんだ。

警告:コア近傍データを検知

当該エリアへのアクセスは禁止されています

接続を切断します


 廃墟が戻ってきた。

 シグマは膝をついていた。

 頭が痛い。耳の奥に声が残っている。

 「シグマ!」

 アイリスの声が聞こえた。珍しく、動揺していた。

 「……今のが、コアか」

 「記録映像だと思います。コアの状態が遺留データに焼き付いていた。あなたがそこに意図せずアクセスした」


 「デカかった」

 「……はい」

 「あの中に、全員いるのか」

 「全員、います」

 シグマは立ち上がった。膝の土を払う。

 「聞こえた。声が」

 「……そうですか」

 「帰りたい、と言ってた」

 アイリスが黙った。

 長い沈黙だった。


 「私にも聞こえています。ずっと」

 声が、少し違った。

 いつもと同じ抑揚のない声だった。でも、重さが違った。

 「毎日聞こえています。コアが大きくなるたびに、声が増える。私はそれを聞き続けている。防衛AIだから。それが役割だから。だけど」

 「だけど」

 「慣れない」

 シグマは空を見た。

 動かない空。止まった雲。


 「慣れなくていい」

 「え」

 「慣れたら終わりだ」

 アイリスが、また黙った。

 今度は短かった。

 「……はい」

 何かが、声に混じった。

 シグマはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 残り五つの遺留データを回収し終えたのは、一時間後だった。

NULL化率: 41.4%

 予測より上がっていた。コアの映像に触れた分が加算されたらしい。

 シグマはその数字を見た。

 「アイリス」

 「はい」

 「コアを壊す以外に、あの中の奴らを出す方法はないのか」

 「今のところ、ありません」


 「探せるか」

 「……探します」

 「それと」

 「はい」

 「さっき見たコア。あれの正確な場所は分かるか」

 「ゲームサーバーの最下層です。座標という概念では示せない。でも入口はある」

 「どこだ」

 「管理者が守っています。あれを越えない限り、入口には近づけない」

 シグマは頷いた。


 「分かった」

 「……一つ、聞いていいですか」

 「何だ」

 「さっき。優しさじゃない、と言っていた。では何なのか。まだ、教えてもらえませんか」

 シグマは少し黙った。


 「……義務だ」

 「義務?」

 「声を聞いた。だから聞き届ける。それだけだ」

 アイリスが黙った。

 「……そうですか」

 「変か」

 「いいえ」

 間があった。


 「────ありがとうございます」

 シグマは何も言わなかった。

 ログアウトボタンを確認した。

 青だった。

 押した。


 廃都ヴァニタスは、また静かになった。

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