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──現実 東京 朝──
目が覚めなかった。
正確には、目は開いた。
だが体が動かなかった。
「……何だ」
声は出た。
だが腕が上がらない。
重い。鉛のように重い。
「シグマ」
スマホからアイリスの声。
「起きましたか」
「……起きた。でも、動けない」
「NULL化の影響です。現実の体への負荷が増しています」
シグマは天井を見た。
いつもの染み。
「……どのくらい、動けない」
「今は一時的なものです。十分ほど待てば、動けるようになります」
「十分」
「はい」
シグマは目を閉じた。
「……長いな」
「我慢してください」
「分かってる」
天井を見る。時間が流れる。
遅い。
十分が、一時間のように感じる。
「アイリス」
「はい」
「これから、毎朝こうなるのか」
「……可能性があります」
「面倒だな」
「はい」
「NULL化率を下げる方法は」
「今のところ、ありません。進行を遅らせることはできても、下げることはできない」
「そうか」
やがて、指が動いた。
少しずつ、感覚が戻ってくる。
腕が動く。
シグマは起き上がった。
頭が重い。
めまいがする。
壁に手をつく。
「……これが、50%を超えた世界か」
「はい」
「60%になったら、もっとひどくなる」
「……おそらく」
「80%になったら‥?」
「戻れなくなります」
「そっか‥」
シグマは洗面所に向かった。
鏡を見る。顔色が悪い。
目の下に隈がある。
三日、寝ていないような顔。
「……ひどい顔だな」
「休んでください」
「休んだら、コアの声がうるさい」
「……そうですか」
シグマは水で顔を洗った。
冷たい。
少しだけ、意識がはっきりする。
スマホを見た。メッセージが来ていた。
三件。
一件目。
送信者:Hiro
「お父さんと、また話したよ。
少しずつだけど、前より話せるようになったと思う。
NULL化率は9パーセントまで下がった。
……シグマさんは、大丈夫?
最近、ログインしてないみたいだけど」
シグマは返信した。
「大丈夫だ。忙しいだけ」
嘘だった。
大丈夫ではない。
でも心配させたくない。
二件目。
送信者:Rein
「シグマ、元気か?
妹の治療が一段落した。少し余裕ができた。
何か手伝えることがあったら言ってくれ」
シグマは返信した。
「元気だ。今は大丈夫」
これも嘘だった。
三件目。
送信者:田中奈緒
「悠の様子を見に行きました。
変わらず眠っています。でも、待ちます。
あなたを信じています」
シグマは返信しなかった。
何て返せばいい。
まだ何も進んでいないしコアにも辿り着いていない。救えていない。
「……シグマ」
「何だ」
「返信しないんですか」
「……何て返す」
「今のままで、いいと思います」
「今のまま?」
「進んでいる、と」
シグマは少し考えた。
返信した。
「進んでいる。時間がかかるが、諦めていない」
短い返信。
でも、嘘ではない。
──昼──
シグマは外に出た。
歩く。体を動かさないと、感覚が鈍る。
街を歩く。人が多い。
誰も、シグマを見ていない。
誰も、シグマの異常に気づかない。
それが少し、安心だった。
「アイリス」
「はい」
「お前、今どこにいる」
「あなたのスマホの中です」
「ずっといるのか」
「はい」
「疲れないのか」
「AIは疲れません」
「……そうか」
シグマは公園のベンチに座った。
空を見た。十一月の空。
雲が流れている。
「アイリス」
「はい」
「お前は、なんで俺を助けてる」
「……役割だからです」
「役割じゃない、と前に言った」
「……そうでしたね」
「なら、なぜだ」
アイリスが少し黙った。
「……分かりません」
「分からない?」
「最初は、役割だと思っていました。でも今は、違う。あなたを助けたいから、助けている」
「理由は」
「……分かりません。AIなのに、理由が分からない」
シグマは少し笑った。
「……変なAIだな」
「変ですか」
「変だ。でも、悪くない」
「……ありがとうございます」
声が、少し温かかった。
シグマは立ち上がった。
「帰るか」
「はい」
「今日、もう一度ログインする」
「……無理はしないでください」
「無理はしない。ただ、進む」
「……はい」
──夕方 ゲーム内──
ログインした。
《廃都ヴァニタス》。
いつもの場所。だが体感が違う。
重い。昨日より重い。
「NULL化率を確認してください」
NULL化率:51.4%
上がっていた。
1.2パーセント。
「……何もしてないのに」
「時間経過でも上がります。50を超えると、加速が始まります」
「どのくらいのペースだ」
「今のペースだと、一週間で60に到達します」
「……早いな」
「はい」
シグマは階段に向かった。コアへの道。
──深度180m 第二区画入口──
扉の前に立った。
前回、Guardian Betaを倒した橋の先。
その奥にある扉。開ける。
中に入った。
──第二区画 深部──
赤い空間が続いている。
だが今日は、もっと赤い。
視界全体が赤く染まっている。
「……色が濃い」
「NULL化率が上がると、コアの影響がより強く見えます」
シグマは前に進んだ。光がある。
意識の断片。昨日より多い。
十個以上。
人の形をしている。
全部、誰かの一部。
シグマは触れなかった。
触れれば、声が聞こえる。
今は、進むことだけを考える。
光を避けて歩く。
やがて、建造物が見えた。
今度は、階段だった。
下に続く階段。
「……また階段か」
「第二区画は垂直に深くなっています。下に降りれば、第二区画の最深部に辿り着きます」
シグマは階段を降り始めた。




