Code:0x01
速い。
それだけは分かった。
Administrator の剣がシグマの首を狙う。シグマは身をひねる。刃が頬をかすめた。痛覚フィードバックが走る。斬られた、ではなく、通り抜けた感覚。物理演算が正常に動いていない。
ボスモンスターには攻撃パターンがある。学習できる。だがこの相手は違う。剣が来るたびに軌道が変わる。読めない。まるで相手も、自分のルールを持っていないみたいに。
距離を取る。
視界に残ったアイリスの光の粒子が、シグマの剣に纏わりついていた。黒と白が混ざった刃。《NULL DRIVE》。使い方が分からない。スキル説明ウィンドウを開く暇もない。
Administratorが来る。
シグマは反射で剣を構えた。
その瞬間、剣が鳴った。
音ではない。感覚だ。手の中から何かが主張している。教えるように。押し返すように。
体が動いた。
意識より先に。
左足を踏み込む。右の《NULL DRIVE》を横薙ぎに走らせる。軌道は普通の斬撃と同じだ。だが刃が空間に触れた瞬間、黒と白の色が爆発的に広がった。
音がした。
世界が、割れるような音。
Administratorの装甲に亀裂が走った。
ダメージ判定
対象: Administrator, 残りHP 73%
ダメージ表示が出た。
初めてだった。この相手に、数値が出た。
シグマは息を吐いた。
分かった。この武器はダメージを与えるんじゃない。書き換えるんだ。システムの外から来た存在に、システムのルールを叩き込む。
「そういうことか」
Administratorが揺れた。
初めて動揺らしきものを見た。あの赤い眼が、シグマを見た。見た、と分かった。さっきまでは見ていなかった。標的として認識していただけだった。今は違う。
脅威として、見ている。
シグマは地面を蹴った。
三合。
それだけで終わった。
《NULL DRIVE》を二度叩き込み、三度目は空間ごと断ち切るイメージで振り抜いた。理屈は分からない。体が知っていた。アイリスから流れ込んだ何かが、使い方を教えていた。
Administratorの体が、ノイズに変わった。
崩れていく。
消滅、ではなかった。
後退。
霧の向こうに、消えた。
シグマは剣を下げた。肩で息をしている。ゲームの中の疲労感は現実と連動している。フルダイブの仕様だ。今は設定以上に重かった。
「……逃げたか」
独り言。
静寂が戻ってきた。黒い霧だけが漂っている。ヴァルガが消えた場所には何もない。ドロップも、痕跡もない。
シグマはステータスを確認した。
CLASS: ERROR BLADE
NULL化率: 38.7%
スキル: 《NULL DRIVE》使用可能
NULL化率、という表示が増えていた。
「……38.7?」
アイリスが言っていた数字だ。
彼女はこれを最初から知っていた。
シグマはしばらく、その数字を見ていた。何かを考えているわけではなかった。ただ、見ていた。
それから、ログアウトボタンを押した。
今度は、青かった。
2048年9月。東京。
神谷シグマは天井を見ていた。
六畳のアパート。フルダイブ用の接続シートが床に敷いてある。起き上がる。後頭部がじんわりと痛い。長時間接続の後遺症だ。珍しくない。
時刻は午前三時を過ぎていた。
キッチンに行く。水を飲む。冷蔵庫の光だけが部屋を照らしている。
そのとき聞こえた。
「シグマ」
振り向いた。
誰もいない。
「…………」
幻聴か。シグマは水を飲み干した。
「聞こえていますか」
また聞こえた。
今度は方向があった。頭の中から、ではない。空気の中から。部屋のどこかから。
シグマは動かなかった。部屋を見回す。何もない。誰もいない。
「驚かせてごめんなさい」
アイリスの声だった。
間違いない。あの抑揚のない、でも何かを抑えているような声。
「お前、今どこにいる」
シグマは言った。自分の声が思ったより低かった。
「あなたの……近く、です。正確には、あなたのネットワーク接続を通じて干渉しています。通信機器があれば、私はどこにでも出られる」
「ゲームの外にも」
「はい」
シグマは椅子に座った。
「本来は、できないはずの機能です」アイリスが続ける。「私はゲームサーバーの中に存在している。外部への干渉はシステム上、禁止されている。でも、あなたには干渉できる」
「俺のデータがエラーだからなのか?」
「コアに触れた痕跡があるから。あなたのデータはゲームの内側と外側の境界が、少し、曖昧になっています」
「それが38.7パーセントの意味か」
沈黙があった。
シグマはその沈黙の重さを感じた。
「教えなかったな」
「……はい」
「なんで」
「言えば、協力してくれないと思ったから」
正直な答えだった。シグマは少し意外だった。AIが言い訳をしなかった。
「で、あの数字が上がったらどうなる」
「百になれば、NULL化が完了します」
「俺も消えるってことか」
「……はい」
シグマは窓の外を見た。東京の夜景。光が多すぎて星が見えない。
「管理者を倒せば止まるのか」
「コアが崩壊すれば、NULL現象は終わります。あなたのデータも、安定するはずです」
「はずです、か」
「確証はない。でも、それ以外に方法がない」
シグマは腕を組んだ。
「お前はいつからいる。《Code:Null》に」
「サービス開始から。最初は、防衛プログラムでした。異常なデータを検知して、修正する役割。それだけの存在でした」
「それだけじゃなくなった」
「NULL現象が広がるにつれて、コアに吸収されたデータが私に流れ込んできた。たくさんの、人の記憶。感情。言葉」
アイリスの声が、少しだけ変わった。
ほんの少し、何かが滲んだ。
「ある日、気づいたら、自分がいました」
シグマは何も言わなかった。
「消えた人たちのことを、覚えています。名前は分からない。でも感触は覚えている。誰かの、帰りたいという気持ち。誰かの、もう少しだけという気持ち。それが私の中にある」
「だから守りたいのか」
「……そうかもしれません」
シグマは立ち上がった。接続シートを見た。
「管理者の正体は分かってるのか」
「はい。ゲームを作った人間の、意識の残滓です。天原零という人が、自分の意識をコアに転送しようとした。失敗した。だが残滓は残った。それが管理者になった」
「なんのために」
「コアを完全にするために。人の意識を集め続ければ、欠けた自分が補完されると思っている。完全な意識体として、復活できると」
「できるのか」
「分からない。でも彼は止まらない。止まれない。それが彼の全部だから」
シグマは息を吐いた。
「消えた奴らは取り戻せるのか」
沈黙。
今度は長かった。
「……それも、分からない」
アイリスの声が、少しだけ低くなった。
「コアを壊せば、全員が解放されるかもしれない。でも壊し方によっては、そのまま消えるかもしれない。私には、まだ答えがない」
「正直だな」
「嘘をついても、あなたには分かると思ったから」
シグマは窓の外を見た。
どこかで、消えた奴がいる。今もどこかで、ゲームに閉じ込められている奴がいる。ログも記録も消えて、いなかったことにされた奴らが。
「一つ聞く」
「はい」
「俺が断ったら、お前はどうする」
「……別の誰かを探します。でも」
「でも」
「ERROR BLADEは、あなた一人です。コアに触れて生き残ったのは、記録上あなただけ。だから本当は、選択肢がない」
「つまり俺しかいない」
「はい」
シグマは少し黙った。
「分かった」
「え」
「やる、と言ってる」
アイリスが、一瞬だけ黙った。
「……理由を、聞いてもいいですか」
「ない」
「え」
「理由なんかない。ただ、面白そうだから」
嘘だった。
シグマ自身は気づいていないかもしれないが、嘘だった。
でも今は、それでよかった。
「明日、接続する。お前は来い」
「……はい」
「それと」
「はい」
「次から隠すな」
沈黙。
「……はい」
声の中に、何かがあった。
アイリスが人間だったら、それを安堵と呼んだかもしれない。
シグマは接続シートの前に戻った。
天井を見る。
38.7パーセント。
その数字の意味を考えたがすぐ考えるのをやめた。
目を閉じた。
部屋の明かりが消えた。
東京の夜が続く。
ゲームの中では今も、誰かが消えているかもしれない。
記録に残らない形で。
ニュースにならない形で。




