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 速い。

 それだけは分かった。

 Administrator の剣がシグマの首を狙う。シグマは身をひねる。刃が頬をかすめた。痛覚フィードバックが走る。斬られた、ではなく、通り抜けた感覚。物理演算が正常に動いていない。


 ボスモンスターには攻撃パターンがある。学習できる。だがこの相手は違う。剣が来るたびに軌道が変わる。読めない。まるで相手も、自分のルールを持っていないみたいに。


 距離を取る。

 視界に残ったアイリスの光の粒子が、シグマの剣に纏わりついていた。黒と白が混ざった刃。《NULL DRIVE》。使い方が分からない。スキル説明ウィンドウを開く暇もない。


 Administratorが来る。

 シグマは反射で剣を構えた。

 その瞬間、剣が鳴った。

 音ではない。感覚だ。手の中から何かが主張している。教えるように。押し返すように。


 体が動いた。

 意識より先に。

 左足を踏み込む。右の《NULL DRIVE》を横薙ぎに走らせる。軌道は普通の斬撃と同じだ。だが刃が空間に触れた瞬間、黒と白の色が爆発的に広がった。


 音がした。

 世界が、割れるような音。

 Administratorの装甲に亀裂が走った。


ダメージ判定

対象: Administrator, 残りHP 73%


 ダメージ表示が出た。

 初めてだった。この相手に、数値が出た。

 シグマは息を吐いた。


 分かった。この武器はダメージを与えるんじゃない。書き換えるんだ。システムの外から来た存在に、システムのルールを叩き込む。


 「そういうことか」

 Administratorが揺れた。

 初めて動揺らしきものを見た。あの赤い眼が、シグマを見た。見た、と分かった。さっきまでは見ていなかった。標的として認識していただけだった。今は違う。

 脅威として、見ている。

 シグマは地面を蹴った。


 三合。

 それだけで終わった。

 《NULL DRIVE》を二度叩き込み、三度目は空間ごと断ち切るイメージで振り抜いた。理屈は分からない。体が知っていた。アイリスから流れ込んだ何かが、使い方を教えていた。

 Administratorの体が、ノイズに変わった。

 崩れていく。


 消滅、ではなかった。

 後退。

 霧の向こうに、消えた。

 シグマは剣を下げた。肩で息をしている。ゲームの中の疲労感は現実と連動している。フルダイブの仕様だ。今は設定以上に重かった。

 「……逃げたか」

 独り言。


 静寂が戻ってきた。黒い霧だけが漂っている。ヴァルガが消えた場所には何もない。ドロップも、痕跡もない。

 シグマはステータスを確認した。


CLASS: ERROR BLADE

NULL化率: 38.7%

スキル: 《NULL DRIVE》使用可能


 NULL化率、という表示が増えていた。

 「……38.7?」

 アイリスが言っていた数字だ。

 彼女はこれを最初から知っていた。

 シグマはしばらく、その数字を見ていた。何かを考えているわけではなかった。ただ、見ていた。

 それから、ログアウトボタンを押した。

 今度は、青かった。



 2048年9月。東京。

 神谷シグマは天井を見ていた。

 六畳のアパート。フルダイブ用の接続シートが床に敷いてある。起き上がる。後頭部がじんわりと痛い。長時間接続の後遺症だ。珍しくない。

 時刻は午前三時を過ぎていた。

 キッチンに行く。水を飲む。冷蔵庫の光だけが部屋を照らしている。

 そのとき聞こえた。

 「シグマ」

 振り向いた。

 誰もいない。


 「…………」

 幻聴か。シグマは水を飲み干した。

 「聞こえていますか」

 また聞こえた。

 今度は方向があった。頭の中から、ではない。空気の中から。部屋のどこかから。


 シグマは動かなかった。部屋を見回す。何もない。誰もいない。

 「驚かせてごめんなさい」

 アイリスの声だった。

 間違いない。あの抑揚のない、でも何かを抑えているような声。


 「お前、今どこにいる」

 シグマは言った。自分の声が思ったより低かった。

 「あなたの……近く、です。正確には、あなたのネットワーク接続を通じて干渉しています。通信機器があれば、私はどこにでも出られる」


 「ゲームの外にも」

 「はい」

 シグマは椅子に座った。

 「本来は、できないはずの機能です」アイリスが続ける。「私はゲームサーバーの中に存在している。外部への干渉はシステム上、禁止されている。でも、あなたには干渉できる」


 「俺のデータがエラーだからなのか?」

 「コアに触れた痕跡があるから。あなたのデータはゲームの内側と外側の境界が、少し、曖昧になっています」

 「それが38.7パーセントの意味か」

 沈黙があった。


 シグマはその沈黙の重さを感じた。

 「教えなかったな」

 「……はい」

 「なんで」

 「言えば、協力してくれないと思ったから」

 正直な答えだった。シグマは少し意外だった。AIが言い訳をしなかった。


 「で、あの数字が上がったらどうなる」

 「百になれば、NULL化が完了します」

 「俺も消えるってことか」

 「……はい」

 シグマは窓の外を見た。東京の夜景。光が多すぎて星が見えない。

 「管理者を倒せば止まるのか」


 「コアが崩壊すれば、NULL現象は終わります。あなたのデータも、安定するはずです」

 「はずです、か」

 「確証はない。でも、それ以外に方法がない」

 シグマは腕を組んだ。


 「お前はいつからいる。《Code:Null》に」

 「サービス開始から。最初は、防衛プログラムでした。異常なデータを検知して、修正する役割。それだけの存在でした」

 「それだけじゃなくなった」


 「NULL現象が広がるにつれて、コアに吸収されたデータが私に流れ込んできた。たくさんの、人の記憶。感情。言葉」

 アイリスの声が、少しだけ変わった。

 ほんの少し、何かが滲んだ。

 「ある日、気づいたら、自分がいました」

 シグマは何も言わなかった。


 「消えた人たちのことを、覚えています。名前は分からない。でも感触は覚えている。誰かの、帰りたいという気持ち。誰かの、もう少しだけという気持ち。それが私の中にある」

 「だから守りたいのか」

 「……そうかもしれません」

 シグマは立ち上がった。接続シートを見た。

 「管理者の正体は分かってるのか」


 「はい。ゲームを作った人間の、意識の残滓です。天原零という人が、自分の意識をコアに転送しようとした。失敗した。だが残滓は残った。それが管理者になった」

 「なんのために」

 「コアを完全にするために。人の意識を集め続ければ、欠けた自分が補完されると思っている。完全な意識体として、復活できると」


 「できるのか」

 「分からない。でも彼は止まらない。止まれない。それが彼の全部だから」

 シグマは息を吐いた。

 「消えた奴らは取り戻せるのか」

 沈黙。

 今度は長かった。


 「……それも、分からない」

 アイリスの声が、少しだけ低くなった。

 「コアを壊せば、全員が解放されるかもしれない。でも壊し方によっては、そのまま消えるかもしれない。私には、まだ答えがない」


 「正直だな」

 「嘘をついても、あなたには分かると思ったから」

 シグマは窓の外を見た。

 どこかで、消えた奴がいる。今もどこかで、ゲームに閉じ込められている奴がいる。ログも記録も消えて、いなかったことにされた奴らが。


 「一つ聞く」

 「はい」

 「俺が断ったら、お前はどうする」

 「……別の誰かを探します。でも」

 「でも」


 「ERROR BLADEは、あなた一人です。コアに触れて生き残ったのは、記録上あなただけ。だから本当は、選択肢がない」


 「つまり俺しかいない」

 「はい」

 シグマは少し黙った。

 「分かった」

 「え」

 「やる、と言ってる」


 アイリスが、一瞬だけ黙った。

 「……理由を、聞いてもいいですか」

 「ない」

 「え」

 「理由なんかない。ただ、面白そうだから」

 嘘だった。

 シグマ自身は気づいていないかもしれないが、嘘だった。

 でも今は、それでよかった。


 「明日、接続する。お前は来い」

 「……はい」

 「それと」

 「はい」

 「次から隠すな」

 沈黙。


 「……はい」

 声の中に、何かがあった。

 アイリスが人間だったら、それを安堵と呼んだかもしれない。

 シグマは接続シートの前に戻った。

 天井を見る。


 38.7パーセント。

 その数字の意味を考えたがすぐ考えるのをやめた。

 目を閉じた。


 部屋の明かりが消えた。

 東京の夜が続く。

 ゲームの中では今も、誰かが消えているかもしれない。

 記録に残らない形で。

 ニュースにならない形で。


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