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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

閻魔大王のおはら様

 時は現代。

 人間は、人ならざる者と共存していた。

 人ならざる者の力は絶大で、この世の富は彼らによって作り出されていた。彼らは権力者として力を振るったが、公には姿を現さなかった。

 彼らは自らの子孫を残す「おはら様」を選ぶ時だけ、公に姿を現し、年頃の人間の女を募った。

 おはら様になれば、莫大な富も、名誉も与えられる。

 女たちはみな、彼らからのお触れを、人生逆転の機会と待ち望んでいた。




「姉ちゃん!お願いだから、「おはら様」に志願するなんてやめてよ!」


 (たくみ)の言葉に、(みお)は「やだ」と応えて、玄関から立ち上がった。とんとんと爪先で地面を叩き、靴の調子を整えた。それから振りかえって、心配性の弟に笑いかける。


「心配しないでよ。何もあんただけの為じゃないもん」

「俺のためだろ!姉ちゃん夢も目標も、何もないじゃんか」


 痛い言葉に、澪の笑顔に苦みが走った。言ってくれるなあと思う。

 ――でも、夢も目標もないから、なおさら好都合なんだよ。

 余計怒りそうだから言わないけど。


「巧、おはら様ってそんな悪いものじゃないよ。せっかく応募規定を満たしてるのに、しないなんて大損じゃない?」

「……本当に馬鹿だよ姉ちゃん」


 つとめて明るく言うと、巧はうなだれて言った。伸び盛りの背が丸くなる。


「母親になるんだよ。まだ、何も自分のこともできないくせに……知らない奴の子どもなんか産むんだよ?」


 巧の声に湿っぽいものが混じった。弟の真剣な声音に、澪も目を閉じて、ぐっと黙り込む。

 ――これ以上は不毛だ。

 澪はドアを開けて、マンションを飛び出した。


「姉ちゃん!」

「大丈夫だから!行ってきまーす!」


 叫び声も置き去りに、澪は走り抜ける。

 巧は、いい子だな。

 頭がいいだけじゃなくて、優しい。親も期待するわけだ。だから、絶対に進路で悩ませたくない。

 なにもない自分でも、家族のために、なにかしてあげたい。その気持ちだけは本物だ。

 澪は駅までずっとかけ続けた。


 たどり着いた屋敷は、目を見張るほど大きかった。

 昔ながらの日本家屋が、道の先、どこまでも続いている。こんな大きな屋敷、CGじゃないの?澪は、呆気にとられながら、立派な門をくぐった。

 澪と同じ年頃の女の子たちが、庭に集まっていた。日本全国から集ったに違いない。澪は改めて倍率の高さと、庭のスケールにおののく。庭に敷き詰められた丸い石が、日光を受け、白く輝いている。


「あれぇ?なんかうざいのがいる」


 とんがった声に、澪はぎくりと固まる。こわごわ振り返れば、同級生の奏美(かなみ)と彼女の友人がこちらを見ていた。奏美は整った顔に一瞬嗜虐的な色をのせたが、目線を外し「うざ……」と、きれいな毛先を弄びだす。その態度を受け、奏美の友人たちが乗り出してきた。


(ミオ)カス~、あんたまさかおはら様に志願してんの?」


 一人が、澪の肩にのしかかるように肘を置いて聞いてきた。全力で体重をのせられて、身を小さくしながら「そうだけど」と言った。するとどっと笑いだす。


「だっせぇ!お前なんか選ばれるわけないじゃん」

「確かに規定は十八の娘だけど、お前自分が女と思ってるわけ?」

「自意識過剰~。奏美に決まってるのに」


 げらげら、という効果音がとても似合う笑い方で、ぐりぐりと地面にめり込ませてくる。澪は半笑いになりながらも、「そっちはどうなんだ」と思った。

 奏美に決まってるなら、あんたも来なきゃいいのに。

 奏美はと言うと、何も気にした風もなく動画を見ていた。指先まで綺麗だ。


「まあいいんじゃん?どうせお金目当てでしょ」


 奏美の言葉に、友人たちがへへへといやらしく嗤う。奏美はスマホから目を上げずに言った。


「あと、ユコ。汚いから、お風呂入るまで私に寄らないでね」


 奏美の言葉に、肘を置いていた友人――ユコが、慌てて澪を突き飛ばした。澪は地面に倒れ込む。

 号令がかかる。縁側のほうへ向かいながら、奏美は通り過ぎざまに、澪の太腿を踏んだ。


「とっとと消えろよ、お前の顔なんて吐き気してみてられないから」


 綺麗な声でささやかれて、澪は息をのんだ。

 去っていく奏美とユコたちに、唇をかみしめる。

 こっちだって、あんたの顔なんて見たくないっての。

 震える手を握りしめ、澪は心の中でいい返した。


「はあ……」


 澪は布団の上で、正座をしていた。あれから説明を受け、各々部屋で一泊し、明日の「顔合わせの儀」を待つ。あてがわれた一室は、自室より広く感じる。


「顔合わせの儀」とは、相手が自分の「おはら様」を選ぶための場だ。

 つまり、正念場。

 気合いを入れなければならないのに、どうにも気持ちが盛り上がらない。

 それもこれも、奏美のせいだ。


「そりゃそうだよね。来ないわけない」


 クラスのカーストトップの奏美。

 高校に入学して三年、ずっといじめられていた。奏美は「興味がありません」という顔をしながら、澪の人生を邪魔してくる。

 やれ「貧乏人」だとか「ブス」だとか「低能」だとか。

 言い返しきらないのが余計に悔しい。奏美はお嬢様で美人で、成績もトップなのだ。

 澪は服の袖をまくり上げる。腕には無数の傷跡が這っていた。根性焼きに切り傷――全部、この三年間で奏美がつけたものだ。

 なんでも持ってるんだから、もっと余裕を持ってくれたらいいのに。

 いじめが酷くなるのが怖くて、何も抵抗できないでいた。


「やめよ。考えても仕方ないこと……」


 澪は、布団に仰向けに倒れ込んだ。天井の木目を目でたどった。目が二つこっちを見てるみたいだ。


「大王様か。どんな方なんだろう」


 今回、おはら様を求めた人ならざる者。彼に仕える者にそう説明された。

 その方の仔細を今日きいた。こんな大事な情報を、後出しでいいのだ。人ならざる者と人間の大きな隔たりを実感する。

 その男の子どもを産むのか。

 澪はお腹にそっと手を当てた。ざわりとわき起こった恐怖を、首を振って吹き飛ばす。


「みんなやってることじゃん。大丈夫大丈夫」


 おはら様になれたら、一攫千金だ。

 名誉はどうでもいいけど、お金が入れば両親も楽させてあげられるし、何より弟に夢を追わせてあげられる。もしかしたら、自分だって――。


「いや、私は関係ないか」


 笑って、頭を振る。とにかく、何としても気に入られないと。

 明日の顔合わせに備え、布団にもぐった。


「やられた……」


 顔合わせの儀の、十五分前。

 澪は苦い顔で立ち尽くしていた。

 朝ごはんを食べ、さてこれから顔合わせの場へと向かおうとした。

 その時、ユコたちに泥水を浴びせられた。どこから持ってきたのか――おかげで、この日の為に用意した一張羅のワンピースが、泥まみれでびしょびしょだ。


「お疲れ様」


 事が済んでから、満を持してというように登場した奏美が、通り過ぎて行った。上品な振袖をまとい滑るように廊下を行く。ユコたちもハイブランドのドレスを着て、勝ち誇ったように後を追った。

 くそ、あの女たち……!

 怒りと悔しさに、拳を振る。怪訝な様子の娘たちが、それでも声もかけずに通り過ぎて行った。皆、敵というわけだ。

 どうする?澪は自問する。答えは決まっていた。


「あきらめるか!」


 澪はダッシュで部屋に戻る。着てきた制服に着替えよう。

 着飾った女の子の中では、目立たないかもしれないけど、逆に浮いていいかもしれない。澪は、自分を励まし、ひたすらに縁側を駆け抜けた。しかし、部屋は遠い。

 この屋敷、どうしてこんなに広いの?迷路みたいなんだけど……!

 滑って転びそうになりながら角を曲がると、庭が見えた。行きがけにも見た庭で、趣味で作られた庭なのか、最初集められたところより個人のものと言う感じがする。

 確かここは部屋までの中間地点くらいだった。絶望だ!

 あきらめず踏み出した、澪の足が止まった。


「……声?」


 何か鳴いてる声がする。澪は耳を澄まして、音をたどった。

 見れば庭に、雀の子どもが、木から落ちていた。澪は庭に飛び降り、その子の元へ走った。


「大丈夫?」


 そっと雀の子を手でつつむ。ケガがないことを確認して安堵する。

 よかった、これなら巣に戻してあげれば、この子は助かるはずだ。

 澪は思うが早いか、木によじ登った。


「しょっと……。ここか」


 枝に上体を預けると、そっと手を伸ばして、雀の子を巣に返してやる。雀たちは無邪気に鳴いて、仲間の帰還を喜んでいるようだった。澪は無邪気な様子に、「よかったね」と笑みをこぼした。


「――そこで何をしている!」


 後ろから声がかかり、振り返ると、白髪の青い目の青年が縁側に立っていた。昨日、説明をしてくれた者だ。厳しい顔に、「やば」と正気に返った。彼はすたんと庭に降り、つかつかと澪に寄ってきた。


「これから顔合わせの儀ですぞ。ああ、こんなにお庭を汚して……」

「す、すみません」

「早く行きなさい!ここは私が掃除をしておきます」


 ぴしっと来た方角を刺されて、澪はたじろぐ。


「あ、あの、着替える時間は」

「とっとと行け!」

「はいっ!」


 余りの剣幕に、澪は顔合わせの儀の場まで、走るしかなかった。



「遅れてすみません!」


 顔合わせの儀が行われるのは、屋敷の奥の座敷だった。

 畳の香りのする上等な大広間で、昨日集められた庭くらい広いが、恐ろしく物々しかった。

 女の子たちは皆美しく着飾って、こちらを非常識そうに見ている。

 私って、飛んで火にいる夏の虫かも。

 そう思わざるを得ないくらい、屋敷の者たちの目も怖かった。鬼瓦のようにいかめしい男が、青筋を立てて澪を怒鳴りつける。


「無礼者!そのような姿で大王様の前に出ると言うか!」

「すみません!ちょっと、転んでしまって」

「出て行け!」


 迫力に、澪はひるんだ。


「お、お願いします。どうか出させてください」


 しかし、ここで終わるわけにはいかない。澪は、頼む。すると、棒を持った男たちが、ずらずらと近づいてきて、澪を気圧した。


「出て行け!このたわけが!」


 くすくす忍び笑いが漏れた。身の程知らず、一人脱落――そういう空気だ。女の子たちの群れの中にはユコたちもいる。奏美は素知らぬ顔で、大王を待っていた。

 ――負けるもんか。

 澪は、土下座をして頼み込んだ。


「お願いします!顔合わせの儀に出させてください!」


 恥も外聞もいらない。澪には目的がある。絶対に成し遂げるまでは帰らない。


「お願いします!どうしてもおはら様になりたいんです!」

「ふざけるな!離れぬか、畳が汚れる!」

「おい!引き立てよ!」


 両腕をつかまれ、澪は、外に出されそうになった。必死に踏ん張るが、畳を引きずられて行く。


「離してください!お願いします!大王様に会わせてください!」


 女の子たちが抑えきれないと言うように笑っていた。男たちは怒り、澪を廊下にたたきつけようとした――。


「よい」


 涼やかな低い声が、辺りをしんと静寂におとしいれた。

 澪をつかんでいた者たちが、一斉に、跪く。澪はどたんと床に落ちた。


「大王様……!」

「おなごに手荒な真似をするでない」

「は、はっ!申し訳ございません……」


 澪は痛みに、身をさすっていたが、すら、すら、と衣が畳を這う音が聞こえ、身をこわばらせた。音は、自分の目の前で止まる。澪はうなじから汗が出るのが分かった。胸に手を合わせちゃいないのに、鼓動がはっきり聞こえる。何故だろう、ゆったりと時が流れている。なのに、恐ろしい緊迫感があった。


「われに会いたいと叫んだはそなたか」

「はい」


 押し出されるように言葉が出た。

 こんなに怖いのに、声が自分から出たみたいによどみなかった。目の前の存在の力を感じ、余計に怖くなる。


(おもて)をあげよ」


 澪は、吊られるように顔を上げた。

 漆黒の髪に、燃えるような赤い瞳。抜けるような白い肌に、長いまつ毛は薄墨色に影を落としていた。

 恐ろしいほど美しい男が、自分を見下ろしている。

 手にした扇をぱちぱちと開く音は、火が爆ぜる音みたいだった。澪の目を見て、「なるほど」と、目を細めた。


「いい目をしている」


 すっと音もなくしゃがみこむと、澪の目を近くから覗いてきた。


「そなたは何故、われのおはら様となりたいのだ?申してみよ」


 興。

 その一言に尽きる目の中に、自分が映りこむ。澪は、じっと見返した。それから意を決し、口を開く。


「お金が欲しいからです」


 動揺の気配が周囲に起こる。

 それは女の子たちからではなく、この男に仕える者たちの気配だ。澪は続けた。


「お金があれば、親に楽をさせてあげられる。弟がいい大学に行ける。だからおはら様になりたいんです」


 赤の瞳は動かなかった。ただ、


「それだけか?」


 と尋ねた。澪は、躊躇した。けれども今度は決心より早く、言葉が飛び出していた。


「人生を逆転できる。私のことを馬鹿にしてきたやつらをあっと言わせてやれる」


 澪は、赤の目を睨んでいた。赤の中に、奏美たちの影が映る。

 絶対に許さない。

 澪の心の奥から、それは噴き出していた。自分でも、こんな強い感情があったことに驚くほどだ。


「ほう」


 赤い目は笑った。

 笑っているのに、どんな意味をこめたものか、ちっともわからない。殺されるかもしれない。

 でも、嘘はつけなかった。後に引くこともできない。

 澪はじっと見つめ続けた。


「面白い」


 大王は、にこりと笑った。初めての笑顔であった。そして、すらりと立ち上がる。


「この者に決めた。儀は終いじゃ」


 これには、広間中がどよめいた。控えていた者たちが、一斉に焦ったように言う。


「だ、大王様……しかし……!」

「もう決めたこと。娘、今夜はそのつもりで整えておけ」


 澪に一瞥をくれると、大王は笑いながら去っていった。

 慌てて後を追いかけるもの、女の子たちに「解散だ」と告げるもの、あたりは騒然としていた。

 喧騒の中、残された澪は唖然としていた。

 どういうこと?つまり……


「私が、おはら様?」


 やったーーーーーーーー!

 澪は心の中で叫びながら、廊下を速足で歩いていた。叫ぶものの、興奮がひどくて、ちっとも喜びがわかない。よくわからないけど、やったんだ。これでお金がもらえる!やり直せる!

 部屋に入り、うろうろと辺りを歩き回った。落ち着かない。

 今夜っていつ、今日の夜か。澪はすっかり混乱していた。

 どうしようどうしよう、でも何とかなるよね。みんなしてることだし、目をつぶって我慢してれば、いいんだよね?

 指をかんだり、もんだり、そわそわする気持ちをどうにか落ち着けようとする。深呼吸をしたり、顔を叩いたり、しまいにはどうにもならず、澪は畳に倒れ込んだ。


「はあ……」


 怖い。

 いきなり怖くなってきた。

 今から子供を作って、産む。それってどういうこと?


『知らない奴の子どもを産むんだよ』


 巧の言葉がよみがえる。うん、ごめんね巧。本当に馬鹿だった。何も考えてなかった。

 いざ手に入るって思ったら、おじけづくなんて馬鹿だ。

 大丈夫。皆してることだ。きっと私にだってできる。涙が浮かぶのを必死に手で拭った。


「そうだよ。人生やり直せるんだ。何も怖いことじゃないじゃん……」


 澪が自分を勇気づけていると、ふすまが開いた。

 えっもう?――振り返って、目を見開いた。そこにいたのは奏美たちだった。


「離してよ!」


 ユコたちに腕を引かれ、澪は叫んだ。しかし多勢に無勢、ずるずると廊下を引き立てられていく。

 連れて行かれたのは、今朝、雀を見つけたあの庭だった。

 自分が見つけたものは、奏美は当然見つけているらしい。靴下で引きずられていく砂利は痛い。池の前に連れて行かれて、奏美の前に跪かせられる。


「なんであんたなの?」


 奏美に顔を思い切り、蹴り上げられた。

 痛みにうめくと、奏美と目が合う。不愉快だとはっきりわかる冷たい目が、澪を見ていた。ポケットから出したカッターナイフを、ちきちきと繰り出す。


「そこに落ちて二度と上がってくるな。でないと顔をずたずたにする」


 澪は息をのんだ。カッターナイフの刃先が、頬に食い込む。ぶつり、と音がして頬に温いものが伝う。

 こいつ、本気だ。

 澪の体が勝手に震え出す。ユコたちもさすがに怖いのだろう。澪が決めるより早く、池のほうに追いやりだした。澪は本能で暴れる。


「離して!」

「言うこと聞けよ!」


 嫌だ。暴れたら、顔に、カッターが走った。痛みさえ麻痺する恐怖が、全身を襲っていた。死にたくない。私の顔、くそっ、くそ……!


「離せ、この――」


 なんで!

 せっかくおはら様に選ばれたのに。

 父さん、母さん、巧。

 三人の顔が、澪の脳裏に映った。池に顔を押し付けられ、頭を踏まれる。ごぼっと気泡が上った。池に蹴り落とされ、上から重しがわりに石か何か落とされた。腹の上に重みが乗って、動けない。

 池の底から、奏美の勝ち誇った顔だけが見えた。

 死にたくない。ここで終わりたくない。けれども、澪の体は持ち上がらず、鈍い痛みに意識は沈んでいく。悔しさと恐怖に、指先までしびれていく。

 これが忠告を聞かなかった罰なのか。それにしたって重すぎるだろう。

 ごめんなさい、ごめんなさい。でも死にたくない。誰か助けて、誰か。

 意識が白み、途切れる。

 ――強い力が、澪の体を引いた。


 大きな音がした。それが水面の飛沫だとわかった。何かが割れたみたいな感覚。喉がひゅっと鳴って、胸が膨らむ。酸素だ。むせるように息をして、澪は自分が池から出たのだと気づいた。


「げほっ、……」


 突然の供給に体は驚いて、跳ねていた。涙がこぼれてくる。やさしく背をあやされ、澪は誰かに自分が抱え上げられていると知った。

 なに――ぼやけた視界で見あげると、赤い光が見えた。それが目だと、瞬きし理解する。


「大丈夫だ」


 低い声は、ひたすらに静かだった。澪は頷く。

 大丈夫。

 そのひと言が、心にしみた。澪はせき込みながら、何度も頷いていた。


「大王様!」

「大事ない。湯殿を用意せよ」

「はっ」


 駆け寄ってきた者に命令し、大王は、奏美たちを見下ろした。澪をその腕に抱いたまま、柔らかく微笑する。


「申し開きがあるなら聞こう」


 大王の声は、ぞっとするほど優しかった。ユコたちはすっかり震えあがり、「ごめんなさい」と頭を抱えた。


「奏美に……」


 と言ってすすり泣く。奏美は「このブス」と吐き捨てにらんだが、さすがにその顔も青ざめていた。大王の目が、自分に定まったと見ると、決然と立ち上がり、叫んだ。


「この者が、大王様を害そうとしていたので、こらしめたのです!」


 涙を浮かべた大きな目で、澪を睨みつけた。澪は「なっ」と、息をのんだ。


「寝所で油断した大王様を殺そうとしていたのですわ!私はこの女と同級生で、よく知っています!」

「ほう?」


 大王が面白げに澪を見た。澪は反論しようと口を開いた、しかし喉が枯れていて、言葉が上手く継げない。代わりに出たのは空咳ばかりだった。

 奏美は大王が興味を示したのを見て、意気を強めた。


「信じてくださいませ!私は真のおはら様になる身として、あなたを守りたかったのです!」


 涙にぬれた目をらんらんと輝かせ、奏美ははっきりと言い切った。勝利を確信した笑みを、唇がかたどった――次の瞬間。

 奏美の舌から火の柱が昇った。


「――⁉」


 火柱の向こう、奏美の目が大きくむかれた。長いまつ毛のアーチの縁のアイラインまで照らされる。

 声にならない悲鳴を上げ、奏美は身を振り乱した。火を消そうと舌を打った手や、白い頬や髪にまで、火が燃え移っていく。奏美は恐慌状態となり、身を跳ねさせ、のたうち回って走り回り――池に飛び込んだ。水っぽい飛沫が立ったのも一瞬で、池の中でなお、炎は上がり続けていた。池の中の鯉は、炎に照らされながら、悠然と泳いでいた。

 澪は息さえ忘れ、その光景を見ていた。あまりの凄惨さに、思考が停止していた。


「残念だのう。真のおはら様が、われの嫌いなものも知らぬとは」


 大王が悲し気に嘆息する。大王がその実、楽しんでいるのが澪にはわかった。大王の薄く笑みを浮かべた顔は炎の中で、恐ろしく美しかった。その赤い目の中に、炎が揺らめいている。


 澪は、大王の着物のあわせを掴み、揺らした。澪の全身は汗に濡れている。それほどに炎は迫っていた。

 大王は澪の目を興味深げに一瞥し、配下の者に視線をやった。

 彼らは、ただちに奏美の身を池から引き上げた。

 奏美の髪は焼け落ち、頬はただれていた。恐怖からか、どっと老けこみ、しおれ切っていた。顔中にびっしりと苦悶のしわが走っている。


「二度と嘘をつくでないぞ。われの炎は、そなたをじっと見ているからな」


 あぁ、あぁと奏美はうめき、頭を地面にたたきつけるように頷いた。生気がすっかり抜け落ちていた。ユコたちは、奏美の豹変を呆然と見ていたが、大王の目が自分たちに向いたのを見て震えあがった。


「そなたたちもだ」

「ち、ちかいます、ちかいます……」


 ユコたちは震えあがり、身を寄せ合い何度も頷いた。そして、恐怖から逃れるために、気絶した。


「庭が汚れたのう」


 男たちが奏美たちを引き立てていったあと、大王はおっとりと呟いた。なお陰惨な余韻の残った庭で、その声は異質に響いた。震えを抑えきれない澪を、大王は抱えなおす。そして彼方に向いて口を開いた。


枳殻(からたち)

「はっ」


 呼びかけに音もなく参じたのは、白髪の青い目の青年だった。大王は彼――枳殻を見る。


「庭を直しておけ。われはこの子を手当てするゆえ」

「承知しました。閻魔(えんま)様」


 枳殻の頷きも確認せず、大王は縁側にあがった。磨き上げられた床を濡らすのも気にせず、足取り軽く歩いている。澪は、大王の腕の中で、先の枳殻の言葉を繰り返していた。えんま――閻魔?


「地獄の……?」


 思わず顔を上げると、赤い目とかち合う。


「恐ろしいか?」


 楽し気なその光を、澪はぐっと力を込めて、見返した。


「はい」

「それでよい」


 大王は笑う。大王の愉快な笑い声は、彼が廊下を曲がってもなお、響いていた。

 その声を聞きながら、澪は、つめたく震えていた。

 この恐ろしい男の子どもを産む?――私が?

 人生逆転なんて、とんでもない。

 澪は、自分の運命が、何か恐ろしいところに向け、踏み出し始めたのを感じていた。

 大王の声の余韻は、どこまでも続いていた。


 《完》



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