【第二十六話】
「ホテルの前で待ってます、ですか」
「高校生にはあるまじき待ち合わせ場所だ。行っても良いがすぐに引き返すように。くれぐれも……」
「分かってます。それでは行ってきます」
職員室を出ると涼香が待っていたけども、内容が内容だけに一緒に行くわけにはいかない。また写真を撮影されたら面倒な事になる。涼香には内容を簡単に説明して先に帰っていて欲しいと伝えた。
「にしても春日部さんはなにをしたいんだ。なんでこんな写真を造ったんだ」
可能性として挙げられるのは、僕と付き合うために事務所をクビになるため。にしてもこんなものを作らなくても退所手続きを取れば良いだけのはずだ。なんにしても春日部さんに事情を聞かないと分からない。
「あら。木下君、早いのね」
「こんな場所に長く立たせるわけにはいきませんので」
ホテルの前に行くと、そこには約束通り春日部さんが待っていた。僕は一刻も早くこの場所を離れようとしたのだけれど、春日部さんは僕の腕を掴んでホテルの中に引きずるように連れて行こうとしてくる。流石に女の子の力だから、そのまま連れ込まれることは無かったけども、意図が分からない。
「春日部さん!なんでこんなことをするの?」
「私には実績がないの」
「実績って……。こんなこと、もっと仲良くなってからの事じゃないんですか?」
「それはそうなんだけど、今回は緊急事態なのよ。ほら、早く」
そう言って腕を更に引っ張ってくる。
「ちょっと落ち着いて話しましょうよ。だからこの場所からは離れましょう」
「私じゃだめ?」
「そんな上目遣いしてもダメです。ってか春日部さん、そういう柄じゃないでしょう……」
「あら。私は演技をするのが仕事よ?」
「やっぱり演技なんじゃないですか……。分かりましたので、早く別の場所に行きましょう」
何度もそう言って春日部さんをやっとのことでいつものコーヒーショップまで連れて行った。
「いらっしゃいませー……」
ドアを開けると碧ちゃんが出迎えてくれて、なんだか気不味い。何があったわけでもないのに気不味い。
「や。別に何もないから」
「何も言ってないじゃないですか。なんかあったんですか?」
僕と春日部さんの噂を流したのは碧ちゃんではなさそうだ。そんなことを思いながら、ちょっとな、と反応だけしてカウンター席に春日部さんを連れて行った。
「さて。一体に何があったのか話してもらえますか?」
「梓川社長に話したのよ」
「僕と交際するって事をですか?」
「それもあるけれど、挑戦したい役柄についても」
「挑戦、ですか?」
「そう。でも未成年がやる役柄じゃない、事務所のイメージが落ちるので、どうしてもやりたいのなら独立して欲しいって」
「一体なんの役柄なんですか……。まさかそっち方面の作品とかですか?」
アダルトな作品。確かに役の幅を広げるのは良いかも知れないけれど、梓川社長の言うように未成年がやるようなものではない。というよりも未成年購入禁止の作品に未成年が出演なんて出来るのか?
「そっち方面がなにか分からないけれど、やりたい役はこれ」
「なんです?これ」
見せられたのは一枚の書類。契約書のようだ。僕は内容を確認したけども、素人目に見てもこれは受けるべきじゃないものに思えた。
「春日部さん、これおかしいですよ。なんで仕事を貰う方がお金を支払うんですか。これ、梓川社長にも見せたんですか?」
「見せてないわ。やりたい役なの」
「僕は反対ですね。いくらやりたい役だとしても、この契約書はおかしいです。一度梓川社長に見せた方が良いです。それにこの役の内容ならクビになるまで反対されないと思うんです。僕も一緒に掛け合いますので、一緒に行きましょう」
春日部さんはなぜか梓川社長の判断を仰ぐことに拒否感を示していたが、僕が頑なにその方針を変えないと見たのか、最終的には同意して事務所に向かう事になった。
「梓川社長、居ますか?」
受付で社長の所在を確認したのだけれど、ノーアポの訪問は困ると言われてしまった。僕は昨日付でクビを言い渡されてるから良いけども、春日部さんはまだその様な事にはなっていないはずだ。なんで受付で断られるのか。軽く押し問答をしていたら樫野宮が入って来たので、話を通すように頼んでみた。
「そんな事になってたのか。春日部さん、なんでそんなことをしたの?」
「私はもっと実績が欲しいの」
「梓川社長にきちんと相談したら、こんな怪しい契約書にサインしなくても大丈夫なんじゃないの?」
樫野宮も僕と同じことを言っている。まぁ、妥当な判断だ。僕たちは受付のロビーで春日部さんを説得する事にしたが、なぜかこの契約書にやたらと拘る。
「この契約ってなんかメリットあるんですか?」
この点が分からない。押し問答をしていたらそこに梓川社長がやってきた。
「あ。梓川社長。春日部さんって解雇なんですか?僕は分かりますけども、なんで春日部さんまで解雇になるんですか?」
「ふむ。写真、見てないのかね?」
「見ました。偽造されたものですよね?あれは例の涼香と樫野宮の写真を加工したものです」
「あくまで君には覚えがないと言うわけだね?」
「そうです」
「ではこれはどう判断する?」
見せられたのはさっきホテルの前で春日部さんを説得している時の写真。まさに春日部さんが僕のことをホテルに連れ込もうと腕を引いている写真だった。
「これは……」
「これは?」
「春日部さんを説得しようとして……ええっと。なんて言えばいいのか……。そうだ。梓川社長はこの契約書、目を通したんですか?」
僕はそう言って、件の契約書を手渡した。
「これは口実だね?佳奈ちゃん」
「口実?ですか?」
僕は予想外な言葉を耳にして春日部さんの方を見た。
「……」
返事がないと言うことは肯定、なのだろうか。そこまでして事務所を退所したかったのか。
「僕はね、佳奈ちゃんが退所することを望んでいないのだよ」
「じゃあ、なんで木下君は退所なんですか?私は残って木下君は退所なのはおかしいです」
「木下君から聞いたのかね?」
梓川社長は僕を見た。そうだ。昨日、確かに梓川社長から僕と春日部さんはクビだと聞いたけども、僕は春日部さんのそのことを伝えていない。なんで春日部さんはこのことを知っているのか。
「いいえ。別の方から伺いました」
「理由も聞いたのかね?」
「私にとって都合が良いので聞きませんでした」
「そうか。それじゃ、前言撤回だ。木下君も佳奈ちゃんも退所扱いにはしない。それと。役者希望の佳奈ちゃん。一応のところ合格だ」
「え?え?」
樫野宮も春日部さんも満足げな顔をしているのけども、僕だけが置いてけぼりになっている。何が起きたのか。
「木下君。今回も悪いね。ちょっと付き合ってもらった」
「あ!まさか!」
僕はそう言って周囲を見回してカレンさんを探した。そしたら案の定というかなんというか……。通路の影に隠れていたカレンさんが出て来た。
「これも仕組まれたことだったんですか……。またリアリティを追求した作品か何かなんですか?」
「いいえ。これは違います。社長からのリクエストで佳奈ちゃんが役者として成功する器かどうかを試すシナリオを書いて欲しいって言われたのよ。結構追い込んだ感じでしょ?」
「追い込んだって……。にしてもこの契約書は趣味悪いですよ」
「あら。その契約書は本物よ。そういう業者っているのよ。写真を偽造したのもその業者だし。クビにしないと自分たちのことを頼らないだろうからって」
「そういうことですか……。でもその流れですと、僕がクビになるって話だけは本当のような気が……」
「その方が良いかな?」
梓川社長は僕を試すように視線を向けてくる。正直、演技を続ける自信は無かったので、次の役が万が一にもあったら声をかけて欲しい、と伝えたら梓川社長は了承した、と返事をしてきたので、僕は晴れて自由の身になったわけで。
「あー。マジでなんだったんだ」
「木下君もいい感じだったわよ」
「母さん、今回の件は少しやりすぎだよ」
「あら、そうかしら?不正事業者も炙り出せたし成功じゃないの?」
コーヒーショップで樫野宮、カレンさんと会話をしていたら碧ちゃんがコーヒーを持って来て尋ねてくる。
「またなんかあったんですか?」
察しの良い碧ちゃんは今回の件について何か勘付いたのか聞いてきた。
「いや、今回のはかなり心臓に悪かったよ。碧ちゃんは依子ちゃんから何か聞いてた?」
「ちょこっとだけ。でも木下先輩に話すわけには行きませんでしたし」
「なんだよ……。踊らされていたのは僕だけか……」
「でも木下先輩が誠実に対応すると言うことが前提のシナリオでしたから上出来だったんだと思いますよ?」
碧ちゃんはそう言ってカレンさんの方を見た。確かに僕が今回のような対応をしなかったらどうなっていたことやら……。って、待てよ?今回の件が全部仕組まれたものだったのなら、春日部さんと僕が付き合うと言うのも……。
「そうね」
「なんですか……」
カレンさんに確認したら、その件もシナリオに含まれているとのことで身体中の力が抜けてしまった。
「この件って樫野宮も……。知ってたか。だから声をかけてくるのが遅いなんて言ってたのか……」
「そうだね」
そんな返事を聞いて更に力が抜けていった。結局のところ、春日部さんは僕と付き合うつもりはなかったということになる。碧ちゃんにもフラれたわけで散々な結果である。
「それで、樫野宮はどうするんだ?」
「何が?」
「春日部さんのこと」
「そこに拘るのか。そうだな……」
樫野宮はひと思案といった感じで顎に手を当てながら何かを考えている。まぁ、今までの流れからして、あまり良いものではない様な気がしたのだけれど、結果は違った。
「仮に僕が小泉さんのことを気にしていたらどうする?」
「随分と話が飛躍したな。春日部さんの話はどこに行ったんだ?」
「木下君は僕と春日部さんの関係について知りたいのだろう?だったら僕は木下君と小泉さんの関係について知りたいかな」
そう言われて僕の中に一つの心が浮かんできてしまった。
ここで否定しなければ涼香は僕のものになるかも知れない。
立て続けにフラれてしまっているので、確実な方法を考えてしまっているのかも知れない。
「今、小泉さんなら絶対にフラれないって考えたね?」
樫野宮にそう言われて即答出来なかったので、その考えは勘破されてしまった。
「別に確実とかそういうのはないけど……」
「ないけど?」
「正直なところ、断られると思う」
これは本心。確実な方法と考えつつも、今のタイミングで言っても断られるのが目に見えている。
「そうか。じゃあ、仮に僕が小泉さんに言い寄ったらどうする?」
「事務所は?」
「そんなの後から考えればいい。正直なところ僕には勝算があるとみている」
「健吾。その考えは少し浅いわよ。女の子の心はそんなに簡単じゃないの。出来るなら……そうね。木下君が小泉さんにフラれた後がいいと思うわ」
傷心を狙って、ということなのだろうか。でも断られるのは僕の方だし、傷心とは違うか。仮にそうなら、涼香は僕からの申し出を断るということに心を痛めるという事になる。あの涼香がそんな風に感じるものだろうか。
「話が逸れたけど、樫野宮は春日部さんとどうしたいんだ?」
「それはもう答えが出ているよ。僕は春日部さんに言い寄ることも、春日部さんから何か言われることもないよ」
ここまでハッキリ言われるとは思ってなかったけども、今回の件で事前に話をしていてもおかしくはないだろう。今回の言葉は茶番劇とは違うだろう。
「それじゃあ、涼香に何かするというのは?」
「正直なところ考え中だ。仮に僕が行動を起こしたとしたら。事務所の問題は避けて通れない。それなりの覚悟は必要だ」
樫野宮の中ではまだ涼香は仕事と天秤をかけられる存在までには至っていないということか。それならまだ間に合うのかも知れない。
「木下君。小泉さんのお母様とはお会いしたことはあるの?」
そう言われてどきりとしたけども、表情には出さずに会ったことはある、とだけ答えた。
「それじゃあ、鏑木先生についてもご存知、ということでいいのかしら?」
「鏑木先生ですか?」
「あら。この件は聞いていないのかしら?小泉さんのお母さんが鏑木先生なのよ?」
「え」
「本当に何も聞いていないの?」
「というより、その件は涼香も知らない可能性が……」
「あら、ごめんなさい。それじゃ、今の話は聞かなかったことにしてもらえる?」
そんなヒョイヒョイと記憶を書き換えることは出来ないけれど、涼香のお父さんの話もあるし、話さないほうが良いということだけは分かる。
「その件、何があっても涼香には話さないで貰えますか?」
「わかりました。でもそんなに大きなことかしら?」
涼香の事だ。そんな話を聞いたら自分の母親について調べ始めるだろう。そうしたら本当の母親は別にいると知ってしまうかも知れない。僕との関係も知る事になる。そうしたら涼香はどんな判断をするのか。いや、僕との関係をどうこうしない限りその辺の話にはならないだろう。なんにしても自分の母親が漫画家の鏑木であることは内緒にしておいた方が良さそうだ。




