【第十二話】
「おはよう。春日部さん」
「おはよう。小泉さんはいいの?」
さっきの事を見ていたんだろうなぁ。いや、見てるよなぁ。それを聞いて僕は一瞬の間を置いてから返事をした。
「大丈夫です」
「そう?そうだ。木下君にちょっとお話しがあるんだけど、廊下に出てもいい?」
「はい」
恐らくは事務所の話だろう。秘密で付き合うのか、はたまた……。いや、僕のために仕事を棒に振るのは考えられないだろう。付き合うと言っても昨日の今日だし。僕たちは廊下に出て屋上に続く階段の前までやってきた。廊下の端っこだから用事がない生徒はここまで来ない。
「それで、話っていうのは……」
「木下君は私とお付き合いしたいって言ってくれたけども、私、ちょっと複雑なところがあって……」
気持ちが複雑なのか、立場が複雑なのか。樫野宮から事情は聞いていたけども、こっちから切り出すのは何か違うと思うし。
「複雑、ですか?」
「そう。その……なんていうか表立ってお付き合いっていうのが家庭の事情で難しくて……」
家庭の事情か。隠しておきたい、という事なのだろうか。
「そんなので大丈夫なんですか?」
大丈夫。隠して付き合うことが大丈夫なのか聞いたつもりなんだけど、春日部さんは別の意味で取ったみたいで慌てた様子で返事をして来た。
「大丈夫だから!私が木下君のことが好きっていうのは本当だから」
「あ、いや、その……。ありがとうございます」
憧れの人から好きと言われて少々舞い上がるような気分だ。しかし、事務所のことは隠しておきたいという事もあって、自分の全てを僕に見せている、というわけではないとも分かって少々微妙な気分だ。しかし、この件は春日部さんから話があるまで待っていようと思う。
「木下君は私と付き合ってるって他の人にはもう言った?」
「言ってないですよ。知ってるのは昨日集まったメンツだけだと思います。でもこうして二人でこんなところにいたら何か勘違いするやつも出るかも知れませんし、早めに教室に戻りましょうか」
正直、もう手遅れな気がしないではない。春日部さんはクラスではあまり誰かと親密に話をしたりしていない。それなのに一緒に教室を出て行ったとなると、誰かが勘繰る可能性も無しではない。クラスの中に春日部さんに告白したやつが居たら尚更だ。
「そうね。戻りましょう」
「あ、別々に戻った方がいいと思うので、僕は一階の自販機で飲み物買ってから教室に戻ります」
「分かったわ。それじゃ、申し訳ないのだけれど……」
僕はその言葉には返事をせずに表情だけで大丈夫だと返事をして一階に降りて行った。そして自販機に到着したところで思いもよらない話を耳にした。
「樫野宮くんと春日部さんって付き合ってるらしいよ」
なんなんだ。どこから出てきたんだ?樫野宮と春日部さんが付き合ってる?思わずその話をしている女の子三人組に話しかけようと思ったけども、チャイムが鳴ってしまったのでタイムアップ。三人組も急いで階段を上がって行ってしまった。
その日の放課後は樫野宮は仕事ということで六限を出ずに下校、春日部さんも家の用事があるとかで僕たちよりも先に下校。恐らくは仕事が入っているのだろう。その辺の詮索もしない方がいいのかなぁ。
「きーちゃん、なにか考え事?」
「ん?まぁな。ちょっとあってな」
「ふーん。話だけなら聞くけども」
「うーん。ちょっと涼香には話せないかな」
春日部さんの事情を話すわけにはいかないし。でも幼馴染を欺くことなんてできるはずもなく。
「朝、佳奈と廊下に出ていったことと何か関係あるの?」
「あー……まぁ、そんなところ。ところでさ。なんで涼香は春日部さんのことを佳奈って名前で呼んでるんだ?みんな春日部さんって言ってると思うけど。ってか、そもそも涼香は春日部さんと接点あるのか?」
「接点。なるほど。そうきたか」
「どう来たんだよ」
「同じクラスメイトなんだから名前で呼んでもいいでしょ?きーちゃんも春日部さんなんて堅っ苦しい呼び方じゃなくて佳奈って呼べばいいのに」
「それができないんだよねぇ」
それこそ教室で佳奈なんて呼んだら周りからどう思われることか。僕たちは図書室で返却のあった本を書架に戻しながら会話をしていた。
「あー。また二人でなんか話してる」
「なんだ碧ちゃんか」
「なんだってなんですか。朝からイチャイチャしてたと思ったら、放課後もですか」
「これのどこがイチャイチャなんだよ……。図書委員の普通の仕事でしょうが……」
「だって、本を書架に戻すのなんて一人で出来るじゃないですか。カウンターを空けてる方がアレじゃないですか?」
ふむ。言われてみればそうか。なんの気も無しにいつもの様に振舞ってしまったけども、確かにそうだ。
「というわけで、僕はカウンターに戻るよ。あとは涼香頼んだ」
「なんでよ。高いところもあるんだから私がカウンターに戻る」
「そうか?それじゃ頼んだ」
そう言って本を積んだワゴンを引き受けて涼香が僕の隣をすれ違えるように身体を引いて待っていたら、涼香はその場から動かずにこう言ってきた。
「これ持ってて」
「ん?」
手渡して来たのはヒヨコのマスコット人形。なんでカバンにいつもぶら下げているものを持っているのか疑問を感じたが半ば押し付けられるように手渡されたのでそれも聞けず。
「なんです?それ」
「これか?ヒヨコのマスコット人形。名前なんて言ったけか」
涼香が以前なにか名前を言っていたが忘れてしまった。ひよ……なんとかだっけか。なんにしても大事にしているものを僕に渡すのは何か意味があってのことだろう。
「ほんと、なんだろうな」
「ヒヨコのマスコットの名前ですか?」
「いや、なんでもない。碧ちゃんは何か本を借りに来たの?」
「まぁ、それもあるんですけど、やっぱり木下先輩に話があったので」
僕は本を書架に戻しながら話を聞くことにした。
「木下先輩は噂知ってますか?」
思わずドキリとした。今朝聞いた樫野宮と春日部さんが付き合ってるという話。もう噂になっているのかと。
「なんの噂だ?」
「本当に鈍いですね。木下先輩がついに小泉先輩と付き合い始めた、ってやつです」
「はぁ?なんでそうなるんだ?」
「だって今朝も一緒に登校してましたし、放課後も一緒に教室を出てますし。やっぱりそうなのかーって思われても仕方ないと思いますよ。あと。これは私の推測なんですが、樫野宮先輩と小泉先輩が付き合い始めたっていうのに勘付いて、噂を流すことで破局させようとしている勢力がですね」
「なんだその悪の組織みたいな話は。その事は昨日集まった人間しか知らない事だろ?」
「まぁ、そうなんですけどぉ。というより別の噂もあってですね。実は春日部先輩と樫野宮先輩の関係が気になるって言ってる人が居ましてね……」
碧ちゃんは口に手を当ててヒソヒソ声で言ってくる。その話は今朝自分も耳にした。そもそも樫野宮と春日部さんが一緒にいるような場面なんて学校ではないだろうに。
「あ……」
そうだ。学校では、だ。同じ事務所って言ってたし、何かの建物に二人で一緒に入って行ったのを目撃された、というのは捨て切れない事柄だ。
「木下先輩は何か思い当たる節でもあるんですか?」
「や、直接的には分からないんだけど、今朝その噂をしている三人組なら自販機の前で見かけてな。話しかけようと思ったんだけどチャイムが鳴っちゃってさ。顔もよく見えなかったから」
「うーん。予想よりも広まっている可能性がありますね。でも考え方によっては木下先輩と小泉先輩が付き合ってて、樫野宮先輩と春日部先輩が付き合ってるという設定が学校内で確定すれば内緒で付き合うって事になるんじゃないですか?」
「何言ってるんだ。浮気とか噂された方が厄介だろ。それに……」
「それに?」
自分でそこまで言って嫌な悪寒が背中を走った。樫野宮と春日部さんが付き合っている。この組み合わせは考えていなかった。でも十分にあり得る。だとしたらなんで春日部さんは僕のことを好きとか言うのか。樫野宮は涼香の告白を受け入れるのか。
「おーい。木下せんぱーい」
目の前を碧ちゃんの手が行ったり来たりしている。
「ああ。ちゃんと聞いてる」
「聞いてるって。先輩の話を私が聞いてる番ですよ?」
「ん?ああ、そうだっけ?なんにしてもその噂の出所を確認したいものだな」
「どっちの噂です?」
「両方、だな」




