母への詫び言
ようやく覚悟をきめた。
母に会って謝るため、ロープウェイに乗り込む。
晴れわたった空も紺碧の海も、ひねくれていじけ切った私をあざ笑うかのように美しく澄んで、まるで外国の景色のようだった。
切符が値上がりしていたものだから、売り場で挫けそうになった心が、余計に重圧を感じる。
遠くの松原がゆらいだ……。
と思った次の瞬間、自分の入っている鉄の箱も風にふわりと揺さぶられた。空っぽの胃が気色悪く震える。赤い椿の花束を、危うく取り落としそうになった。
ぽってりした深紅の椿。
これは母への贈り物だ。何を持って行っても正解はないが、かといって手ぶらではまずい。にぎやかしになる花、季節の花、できれば母の好みに近いものを選べば合格となるだろう。
一緒に乗っている初老の女性観光客たちに聞こえないよう、私はひそかにため息をつく。揺れたわね! 大丈夫よお、……楽しそうな声が私の脇をきゃっきゃと流れてゆく。私は足元だけを見つめていた。空と自分とを隔てている鉄の板は、けして抜けないのだと自分に言い聞かせながら。
こんな旅程を経ないとたどり着けない山の斜面に、母はひとりで移り住んだ。
私が遠方の大学に進学した後の事だから、そのへんの経緯はよく知らない。父は広い家をさっさとたたみ、都心の仕事場近くに小ぎれいな部屋を見つけた。私には学生寮から帰る家がなくなったわけだけれど、そのことにどこかで安堵してもいた。
ひたすら叱られるため帰る家には、惹かれてもいなかったことに、そこで初めて気が付いたから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ええ、今日は大切なお話があって来たんです。突然、連絡もなしに来てしまってすみません。
……けさ思いたったんです、今日行くしかないって……。今日がだめなら次にいつ来られるかわからない、そんな気がしたものですから。
言いにくいんですけどね。お母さんに。……お母さんに、お詫びをしようと思って。
え?
いいえ、そんな、いたずらや事件を起こしたりしたんじゃありませんよ。先生の呼び出しだなんて、そんな小学生じゃあるまいし。
……でもやっぱり、お母さんは私の事、そういう風にしか見られないんですね。
別にいいんです、それは。お母さんは私の事、思いたいように思ってくれて構わないんです。
お母さんが親として私を生んだという事、それはもう、変えようのない過去の事実なんですから。
・・・・・・
・・・・・・
今、私がまた、学生に戻った……という事は知っていますよね?
一度社会に出た後に、また大学に戻るというのは、まあそんなに多数派でもないけれど、割とよくある事なんですよ、今は。
それでも同じ大学で、別の学部でやり直しというのは、珍しいかもしれませんけど。でも私は本当に今の学問に興味があるのだし、実際まじめに取り組んでいるんですから、それはそれでいいとしておいてください。
……会社組織で成功できなかったから学生に逆戻りした、ってわけじゃないんです。あ、疑ってるでしょう? でも、そういうものなんです。お母さん。
・・・・・・
それでね、話したいことって言うのが。
先日、大学の図書館で調べものをしていたんです。わき目もふらずに勉強していて、集中力がふうっと途切れた瞬間に、何気なく目をあげて、ちょっとぎょっとしました。
同じ長テーブルのずっと向こう側なんですけど、女の子がいたんです。三つか四つか、幼稚園に行ってるような感じの子が。
その子は絵がいっぱいの本を大きく開いて、そのページの上に覆いかぶさるようになって読んでいました。一瞬おくれて、そのすぐ隣に若い女性が座っているのに私は気づきました。
自分が積み上げた本の山に隠れるようにして、私はそのふたりの様子をうかがったんです。普通の市立図書館ならよくある風景ですけど、ここは大学図書館ですから。子どもがいるなんて、どう考えたって変でしょう?
母親は、私のように何冊かの専門書を積んで、熱心にノートを取っているようすでした。さりげなく観察を続けていると、その女性の顔に段々見覚えがあるように思えて来たんです。
そうして、はっと気が付きました。
私が一度目に入学した時、同じ学部・学科で同級生だったはずの、Kさんという人だったんです。ほとんど話したこともなかったのですが、いつも女の子グループの中心にいて、華やかな格好が目立っていたから記憶に残っていました。でも三年次に上がる時、ふいと姿を見なくなったので他の人に聞いてみたら、「おめでた婚の寿中退らしいよ」という風に答えが返ってきたことも思い出しました。
そのKさんが復学したんだ、と直感したんです。
私があわてて顔を伏せると、女の子の声が聞こえました。
「ママ、おなかすいたの。おやつ食べたいなあ」
子どもなりに遠慮のある声でした。
図書館に人の姿はまばらでしたが、おとなしくしなければいけないという言い付けを守れる、よいお子さんなんだと思います。
Kさんも、低い声で答えました。
「そうだね、じゃあママ続きはお家でやるから、そろそろ帰ろうか。パパは今日早いかな」
そうして二人はさっさと本と荷物とをまとめ、出て行ってしまいました。
その後しばらく、私はぼんやりとしていました。
そうして思ったんです、Kさんどうして学生に戻ったんだろう、って。
母親なんだから、小さな子どもがいるんだから、『母親』だけやっていればいいのに……と。勝手な感想ですけど、私は確かにそう思いました。
この考えが、もう頭から離れなくなってしまって。その日は帰宅することにしたんです。
電車は混んでいました。部活帰りの高校生や、塾通いらしい小中学生がたくさん乗っていました。その中でごとごと揺られて、色んな人たちとごった煮になるような変な感覚に身を任せているうちに、私の中に疑問がわいてきたんです。
人間、いったい幾つの役割を、同時並行で演じられるものなんでしょう?
すぐ近くにいた、いがぐり頭の高校生二人の話が耳に入ってきました。
「……で、ハラダ先輩はー、どっちの方が最強だと思います?」
「難しいよねえ……。でもやっぱ、俺はプチストップのカレーまんが一番いいかなあ~」
このハラダ先輩だって、後輩がいなければただのハラダですけど、彼女がいるなら彼氏であり、親御さんにとってみれば息子なわけです。学級委員なんかしているかもしれないし、そうすると一人で四役も五役もしているんです。
そして、私が図書館で見かけたKさんは奥さんで、お母さんで、それに学生でもある。
想像するだけで、私はげっそりしてしまいました。
どれ一つとっても、『役』は大変そうなのに。どうしてみんな、そんなにいくつもの役を引き受けられるんだろう。そして実際、その役をどうやってこなしていられるんだろう? ……って。
・・・・・・
おかしいですか? こんな風に考えるのは。
でも私にとっては、少しも不自然じゃないんです。
私は、学生に戻るために社会人をやめました。社会人学生の枠もあるにはあったけど、とても自分の裁量じゃ二役なんてこなせない、とわかっていたからです。
こういうの、世間的には「両立」って言うんでしょうね。
でもこの事に気が付いてから、自分の役割について少し、考え始めたんです。
・・・・・・
そして、ようやく気が付きました。
自覚がないまま、私、ずううううっと「子」の役をしていたんですよね。
でも、その「子役」を続けるのに、疲れてしまったんです。
と言うよりお母さん、私はもう「子」を続けられない。だめなんです。
たぶん私は人一倍不器用で、本当にいちどに一つきりの役しかこなせないのかもしれない。だから「私」と、「子」は一緒に立ち回れないんです。
さっきも言いましたけど、お母さんが私の親である事、これはもう変えようがない。
けれど、お母さん、私は。
……私は、「子」であり続ける事を、やめようと思うんです。
その事をお詫びしたくて、今日は来たんです。
……そんな顔をしないで下さい。訣別とか断絶とか、そういう意味ではありません。
ただ、私の人生の色々色々を、お母さんを通して選んだり決めたりするのを、それをやめようと思うんです。
お母さんは、私を育ててくれた。おかげさまで、私はこんなに大きくなれたし、人なみの事は何とかこなせるようになりました。まあ料理は苦手だしよく風邪はひくし、口下手でずいぶん損な性質とも言えますけど。
でもね、……お母さん。
私は私であって、あなたじゃあないんです。
あなたはもうこれ以上、私の心の中に住み続けることはできない。
ごめんなさい。私は、……私はこれから、ひとりの人間として、ひとりで生きていこうと思うんです。
どんな服を着て、どんな食事を食べて、どんな人とお付き合いしていくか、自分で決めようと思うのです。
私が、私自身がどう感じて思うのか、それだけを軸にしたいのです……。お母さんならどう思うのか、とあなたを通してものを見ることは、それは私自身の生じゃない。私は私を生きたいんです。
昨日、手始めに『まみよの鯖缶』を買いました。お母さんが大嫌いだった、あの添加物入りの缶詰です。私はすごく美味しいと思いました。
……泣かないでください。
……?
……それでも、いつか納得してくださいますか?
多分、時間がかかりますよね。それももちろん、理解できます。お母さんにとっての自然を、私が不自然に引っ掻き回すような真似をしてるんだから、当然です。
でも、私はもう迷いません。
さようならお母さん。ごきげんよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結局、ほとんど話さずじまいの母を残して、私は暇乞いをした。
それでも椿を受け取ってくれたのだから、そこまで気分を害したのだとは思えない。いつか歩み寄れる日も来るだろうか。
斜面を下り、母の小さな家がほとんど見えなくなるかどうか、という所で思い切って振り返ってみる。
かすみがかったような姿、母の手がゆらめいたのが見え、私も小さく手を振り返した。
その時、突然どやどやと気配がする。頭に白いタオルを巻いて、長靴に軍手装備の年配男性数人とすれ違った。
「よう、お参りでした~」
のぼってきた彼らに朗らかな声をかけられてしまってから、私はあわてて頭を下げた。
……暖かな冬の日差しに、苔むした深緑の参道が照らされている。
【完】