#3 【魔導書の司書】との契約
本日3/6話目です。
異世界・エレン視点に戻ります。
以降は基本的に視点は固定です。
突然目の前に現れた茶髪の偉丈夫。聞き間違えでなければ「契約」と口にしたはずだ。
普通、商売以外で「契約」などと口にするのは悪魔か精霊か、そういった超常的な生命体だ。
普通、そういった超常の存在は実際目の当たりにすれば本能的に分かるらしい。ただ僕は魔法に疎いし、そういった感覚を持ち合わせていないので、こうして面と向かって話しかけられてもコイツの正体がピンとこない。
果たしてコイツは何者なのか。それ以前に、知識人など通るはずもないこんな路地裏にあった不自然な本と関わっていいものか。そんな事を考えている間にも男は構わず語りかけてくる。
「俺はビブリオ。この魔導書の司書だ。そういう精霊だ。どうだい、少年、俺と一緒に世界を見てみないか?」
どうやらコイツは精霊の方らしい。悪魔は嘘が付けない生き物だ。精霊を自称するコイツは、少なくとも悪魔ではないだろう。
「俺は情報の精霊なわけだが、悲しいことに知識が乏しくてね。まだ自分のことくらいしか知らないんだよ。でもそれじゃあ情報の精霊の名折れだろ? それにそんなこと抜きにしても俺は色々なものがみてみたいのさ。せっかく生を受けたんだ。楽しまなくちゃ損だろう?」
情報の精霊というのは聞いたことがないが、そういう存在であるのなら、なるほど確かに無知は堪えるだろう。
だけど世界を見ることが、見識を広めることが果たして本当に幸せな事なのだろうか? 知ることは、見ることは楽しいことで、得することなのだろうか?
「あー、だからそんな暗い目をしているのか。そうか、君は自分の殻に閉じこもってしまったタイプか」
そうなのだろうか? 僕は別にそんなつもりはない。現実を見て、そのうえで諦めただけだ。確かに世界は広いのかもしれないが、そのほとんどは僕の手が届かない領域にある。自分にとっての世界というのは、あくまでも自分の手が届く狭い範囲だけだ。
「確かにな。実体の10割がそのまま現実の広さという訳じゃないというのは賛同できる話だ」
そうだろう。結局のところ視界だけ広がったところで意味なんてないのだ。手が届かなければ、それは存在しないのと一緒だ。むしろその先の幸せを知ってしまっただけ苦しむことになるだろう。
一度現実を見て、その中で生きる。夢は見ない。追いかけない。ただじっと砂時計が落ち切るのを待つ。つらいことから目を背けて、少しでも苦しさを紛らわせて、そうやって残り時間を耐え続ける。
どうもビブリオには納得のいかない考えらしい。渋面をつくり、失望したような表情を見せる。それでいい。諦めれば、諦められればそれ以上傷つくことはない。
「そうかい。じゃあなんでお前は生きているんだ? お前の考え通りにいくなら、人生はさぞ空虚な刑期に過ぎないのだろう。なら死ねばいいじゃないか。君はまだ若いだろう? 一時の苦痛はあるだろうが、この先すべての苦痛と比べれば軽いもんだ。だけどお前は生きている。お前にはまだ生にしがみつくだけの何かがあるはずだ」
いきなりそんなこと言われたって、なにも思い浮かびはしない。別に生きようと思って生きているわけじゃないんだ。ただ、今すぐ死にたいほどの絶望があるわけでもない。生きていてもいいくらい、ただ漠然と生きていく分には耐えられるくらいの人生なんだ。
別に使命があるから生きているわけじゃない。誰かに必要とされているわけでもない。ただ漠然と、なんとなくで生きている。死んだ方がつらくないと言われればそうなのかもしれない。ただ、ずっと軽いつらさが続いていく感じなんだ。
わざわざ自分から死という重い苦痛に向かわなくても、すりむく位の軽い苦痛を一生背負っていけば、そういう持病だと思えば何事もなく果てていける。
谷しかない人生よりも、ずっとなだらかな下り坂で谷底に向かうほうが楽なのだ。
幸福な日々を奪ったフマニタスに復讐したいとかも思わない。僕にはそんな力はないし、どうせ両親が寿命を迎えれば遅かれ早かれこんな日々が訪れていただろう。
現状を変える程の熱量もない。努力して得られなかったら無駄に傷つくことになる。結果の伴わない努力には意味はないが苦痛はある。
「やけに現実主義なんだな。それに弱気で、見切りが軽い」
別に現実が見えないわけじゃない。ただ見てもしょうがないから見たくないだけだ。
死にたくはない。死ぬのは怖い。せっかく生き残ったのにわざわざ死ぬのは勿体無いし、両親に申し訳がない。
死にたくない理由ならあるし、それが生きている理由なんじゃないだろうか。
「つまらない人生だな。目標の夢も、希望も、意志も何もない」
そうだな。そういうわけだから他をあたってくれ。僕と一緒に見られる世界はさぞやつまらないだろうから。
「全くつまらないな」
だからそう言っているだろう。わかったらさっさと……。
「そんなつまらない人生なら、俺にくれよ」
何を、言って......。
「なにも全部よこせってわけじゃない。どうせダラダラと生きるなら、俺の手伝いしてくれてもいいじゃないか」
切れ長な翡翠の瞳がこちらを鋭く睨め付ける。
「チャンスってのは後から気づくものだ。あの時こうしていれば、そんなタラレバには何の生産性もない」
「だからハッキリと言おう。これは君にとってもチャンスだ。俺と契約すれば情報の精霊の力と、魔導書の力が手に入る」
「ただ俺に世界を見せてくれれば良い。魔導書から出られない俺の足になってさえくれれば良い」
「分かったらこの手を取れ。名乗れ。そして契約に応じろ。どうせ諦めるなら蜘蛛の手を取ってからにしろ」
筋肉質な右手が差し出される。掴めと言わんばかりに、さっさとしろと急かすように、確かな意志を放っている。
僕にはない「こうしたい」という明確な意志。そして、語りかけてくるその熱量。
自分のためだけじゃない。僕のためでもあるというその言葉も、気持ちも本物だと感じた。
この手を取れば、退廃的で、でも安心できる安定した偏差値45の日々は終わってしまうだろう。
居心地の悪さにさえ目を瞑れば悪くはない、そんな遅効性の致死毒の井戸から出るか否か。
手を取れば後悔するかもしれない。
だけど、手を取らなければ確実に後悔する。
なら、手を取るべきだ。今はまだ消去法的な打算で、だけど確実に、この瞬間から僕は変わり始めた。
「僕はエレン。ただのエレンだ」
「改めまして俺はビブリオ。魔導書の司書として、君を導いてみせよう」
自己紹介と共に手を握る。二人の右腕が一本の線となる。ビブリオの足元から、一人でに魔導書が浮き上がってくる。
掴んだ右の手の甲に魔導書が吸い込まれていく。痛みも何の違和感もない。ただ確かな証として、右手の甲にはさっきまでなかった紋章が浮かんでいた。
菱形のなかに小さなダイヤが4つ敷き詰められたような紋様があしらわれた、ビブリオが宿る魔導書の表紙をデフォルメ化したような紋章。
間違いなくここから魔導書を使うんだろうけど、魔法的な感覚がない僕には動かし方が分からない。
せっかくチャンスを手に入れても、使えないんじゃ意味がない。眉根を寄せてビブリオを伺う。
「困った時には頼れば良いのさ。俺もそうする」
「そうか、じゃあ僕にこの本の使い方を教えてくれないか?」
「もちろん構わないさ。俺はエレンの相棒で、知識と情報を司る精霊で、そして魔導書の司書だからね」
頼れる相棒はニカリと微笑み、歩きながら話そうと言った。
路地裏の袋小路で、数十分に及ぶ問答の末に契約を結んだ。もう追っ手は大丈夫だろう。ならいつまでもここにいる訳にはいかない。
大通りに向けて歩きながら、ビブリオと話す。3年ぶりに心から笑えたような気がした。