肆 花の置き土産
話し終え、しずかに泣く少女に声もかけられない……そう思っていたのは、どうやら天音だけのようだった。
囲炉裏の角を挟んだ右隣に座す烏は、ぞんざいな仕草で首肯し、けろりと口を挟む。
「駆け落ちっつうか。そりゃ、無理心中だな」
「! 烏、そんな言い方っ!?」
天音は、反射でぴしゃりと嗜めた。言われるがままのサユキが気の毒だ。
が、背に黒羽を折りたたんだ青年はどこ吹く風。逆にジト目になる。
「今さら耳に甘いこと言ってられっかよ。おそらく、こいつの駆け落ち相手だって、とうに死んでる」
「どうして?」
「言ったろう? 知り合いかも、と。知り合いじゃないのはわかったが、俺のねぐらの山にも焔猫は棲んでる。あいつらには、古くからしきたりがあるんだ――“必ず同族・眷族と婚姻すべし”ってな」
「それって」
「あぁ。さっきの話で合点がいった。二度と過ちを起こさせないためだろ」
(過ち……)
たしかに、つよい火の性と氷の性では、互いに力と命を打ち消し合うのは明らかだった。
だが、惹かれ合ったことすら間違いと片付けては。
サユキが――
「……あの……常夏、様は」
「ん?」
「ひょっとして、常夏様がその掟を作ったのかしら? 覚えている限り、先に消えたのはわたしなの。もし。もしも、ほんの少しでも永らえてくれたのなら………っ。いえ、いいわ。ごめんなさい」
もぞもぞと所在なく袂を弄っていたサユキは、ぱっと立ち上がった。「お暇するわ」
天音は、ぎょっとした。
「ちょっと待って。当てはあるの? どうやってここに来たか覚えてる?」
「覚えてないけど」
「……」
「…………」
横たわる微妙な沈黙。天音は、同じく察したらしい烏と視線で会話した。
当初、迷子発言があったくらいだ。死後の魂が輪廻の輪に戻れず、彷徨っていたところを“あわいさの異界”に引き込まれたと見て相違ない。
しょうがないな、と、ため息をつく。衣擦れの音とともに立ち、少女に向かい合った。
「ご店主……?」
ちらり、上目遣いの少女が、おずおずと伺う。
吹っ切れた天音は、にこりと微笑みかけた。
「あのね、『当て』くらいならあげられるかもしれないわ。おいで、サユキさん。私、特技があるの」
* * *
「――絵を?」
「そう。どうぞ、楽にしてて。勝手に描くから。あ、“常夏の君”の毛色は朱色なのだっけ」
「そ、そうよ」
天音は移動した。
囲炉裏の間からは廊下を挟み、襖戸を取り払った十二畳間がある。そこにサユキを誘い、好きに寛がせた。
と、言っても、見たままの彼女を描くわけではない。
頭のなかには既に“画”がある。それを、適当な板や紙に落とし込むのだ。
(紙……襖? いいえ、屏風ね。二つ折りにしよう。小ぶりなものでいい)
念じたそばから望むものがふわりと現れる。
ぴんと貼られた上質な和紙の白さと楮の繊維に自然と意識が高まる。
サユキは、目の前の怪異に息を飲んだ。
「! あれ、どこから」
「黙ってな。あいつの仕事に障る」
「っ……うん」
――集中。愛用の筆をとる。
もう、紙の上に滑らせるべき軌跡をなぞり、再現することことしか考えていなかった。
ごく淡い夜闇は薄墨。
輝く雪原は胡粉の白。
膠水で濃いめに溶いたそれを大胆に敷く。やわらかな白に覆われている。大地なのだ。
それに、上空に張り出す枝。縦横無尽に走る樹上を飾るのは――桜雪。
息をとめ、目をみはる少女の気配がする。
やはり合っていた。彼女の真名だ。
満開の桜も白の胡粉で濃淡をつける。わずかにさす花影は桃色。
花びらを隠す春の雪は真白。
それは、樹下に戯れるイイズナの子と同じ色だった。隣には……。
「!! それ、常夏の君だわ」
「ええ」
朱色の燃え立つ毛皮はさぞつややかなのだろう。
想像のままに戯れる二匹の獣を描いた。仲、睦まじく。
「はい、どうぞ」
「くれるの?」
「もちろん」
「わぁ……うわあ。うそ、懐かしい。懐かしいわ」
ぽろぽろとサユキは再び涙をこぼした。けれど、それらは石にならなかった。
頬を伝うそばから光の礫となり、やさしく宙に溶けてゆく。
真っ白な長い髪も、雪模様の着物も内側から光を灯すようだった。どこからか、清かな花の匂いがする。冷えた風と、温もりの。
サユキは、うっとりとこぼした。
「ああ……、どうして忘れてたのかしら。わたし、最初はあの森で、よく迷子になっていたの。それで、春のさなかなのに雪が降ったあの日、あの子と約束したのよ。『この樹の下で会おうね』って。――わたしみたいだから、て」
「うん。それ、どこなのか見える? わかる?」
「わかるわ……! ふふっ、初めてあの子を見つけた場所だもの」
「良かった。きっと、いるわ。会っておいで」
「うん!」
胸元に大事そうに紙を抱きしめ、やがて少女は端から光の粒となった。きらきらと消えたあとには、“ありがとう”と可愛らしい声がした気がする。
かさり、と落ちた紙には、もう絵は残っていなかった。
――当然だ。サユキにあげたのだから。
天音はそれを拾おうと、半立ちになり……。
「うっ」
「ほおぉら、言わんこっちゃない。“力”の使いすぎだ。お人好しめ」
「烏。ごめ……」
「べつに。いいが。これくらい」
立ちくらみ、前のめりに倒れそうになったところを素早く支えてくれた青年が毒づく。
「ありがと」
「……ああ」
何も言わずとも、両腕にしっかり抱いて十二畳間をあとにする烏天狗に可笑しくなる。
勝手知ったる他人の家。
こいつは、きちんと戸締まりをした上で結界も補強し、力の使い過ぎで眠る自分の傍らにいてくれるのだろう。いずれ訪れる“朝”まで。
(ちょっと…………いや、確実に何かはされちゃうんだけど。まぁいいか)
* * *
あわいさの異界に“夜”が来る。
きっと逢えたに違いない、真っ白なイイズナと焔の仔猫が揃って店主の夢に遊びに来るまで。
茶屋はひととき、隠れ桜の香りに立ち籠めた――。
了