参 はじめての口づけ
物心付いたときには、サユキの父は雪原の冬を守護していた。白貂の精だった。
母は小柄ながらも俊敏で、獰猛かつ魅力的なイイズナの美女だった。
しかし、母は獣の性のほうが勝っており、生殖本能にも忠実なため、雪融け前のわずかな季節しか逢瀬が叶わない良人と、些細なことで喧嘩をした。春の訪れとともに巣を飛び出したのだ。
生き残るために大量の食事を必要とするイイズナにとって、子連れの移動は命がけだ。
ひっきりなしに餌を確保しつつ、そう遠くへも行かないうちに滋味豊かな森に辿り着けたのは幸運だった。
母は森の端に新たな巣穴を掘り、産まれたての乳飲み子を養うべく奮闘した。
具体的には、ネズミだの昆虫だのを見つけ次第捕まえ、狩って狩って狩りまくった。
サユキは特別成長が早かったため、ひとり、乳に頼ることもなく過ごしていた。
そうして出逢ったのが、当時まだ人型もとれなかった幼体の“彼”。
のちに常夏と名乗った小さな焔猫は、火鼠よりつややかな毛皮とうつくしい金の瞳を持つ、ひたすら愛らしい仔猫だった。
――が、いま思うに、あの状態の彼を運命の番と呼ぶのは早計だろう。
なにしろ、苛烈な母は、よちよち歩きの彼を餌とみなして襲いかかろうとしていた。
遠目に彼の正体を見抜いたサユキは、必死に言い募ったものだ。
『母上様、だめよ。あの子、妖よ? 食べたら祟られるわ』
『あら残念。とっても美味しそうなのに』
『母上!』
『うふふ、冗談よ。じゃあお前、あの子を親元に戻して来ておくれ。ようく言い含めてね』
『……戻す?』
『そう。このままじゃ、また気付かずに早晩、狩ってしまう。父親に似て妖力の強いお前なら、親の居所もわかるでしょう? 私はまだまだ餌が要る。時間が惜しいの』
『わかったわ。母上様』
人型をとったサユキは仔猫に近づき、そっと彼を抱き上げた。
このとき、ふにゃふにゃの体が気の毒なほど震えていたのは、氷の化身であるサユキの手が冷たかったからだと思っている。
ともあれ、仔猫を探しに出ていた焔猫の母とはすぐに会えた。
サユキはその場で非礼を詫び、自分たちの事情を説明した。縄張りの隅に住まわせて欲しいとも願い出た。
しゃなりと尾を揺らした夫人は、すんなりこれを受け入れた。
『いいでしょう。イイズナの子』
『!! あっ、ありがとうございます。奥方様』
『何。構いませんよ。迎えが来るまでのことですもの』
『迎え?』
『ええ』
奥方は、こともなげに予言した。
すなわち季節が巡って冬となり、雪原の守護者たる大妖が番を探しに来るまでは、と。
『そんな』
焔猫の母子と別れ、弟妹のもとに戻っても、未来へのざらりとした不安が打ち消されることはなかった。
じっさい、その通りになった。
暖かな春ときよらかな夏、恵み深き秋を経て訪れた寒の入り。牡丹雪のちらつく朝、さっそく父妖は現れた。サユキは、ちょうど常夏と遊んでいた。
その頃には、うつくしい人間の少年姿をとれるようになった常夏の君とは、いちばんの仲良しになっていた。
いつか正式に契りを交わし、夫婦になるのだろうと信じていた。
――許されるとばかり、思っていたのに。
* * *
『どうしよう、常夏の君。わたし、あなたと一緒にいたい。離れたくない』
『サユキ姫、泣かないで』
懸命に励ましてくれる少年に、サユキは抱きついた。あふれる涙は目尻を伝うたびに凝り、薄青の氷石となってこぼれ落ちる。
自分は氷の獣精だが、常夏のあたたかさが好きだ。
サユキは、彼に触れた部分から自分が融けてなくなる気がした。それもいいと思った。
常夏は、もう、みぃみぃ鳴くだけの仔猫ではない。
秋の終わりに縄張りを譲られ、元服も済ませた。炎模様の狩衣をまとう、立派な焔猫だ。
そんな彼に、こらえきれず自分から抱きついてしまった。
――夢みていた。祝言の前に触れあうなんて、はしたないこと。きっと怒られるからと、母にも常夏のご両親にも黙っていたのに。
温もりに包まれる恍惚に、サユキはとつとつと呟いた。
『父上様は、嫌い……。あなたと添い遂げるのは、不可能なんて』
『サユキ』
『明日、北に戻るだなんて。それに……っ、焔猫の若君なら同族の妻がふさわしいって』
『サユキ姫。落ち着いて』
『落ち着けるわけないでしょ!? 常夏の君のばかっ!』
はげしく頭を振る。身じろぎをして、夕陽に似た赤金の瞳を見上げた。
――好き。大好き。この気持ちを抱えたまま、永遠に一緒にいられたら、どんなにか……。
『サユキ。可愛いサユキ』
『うん?』
ふいに、透徹な笑みを向けられた。
まぶたを閉じた常夏が、ゆっくりとサユキの頬に唇を落とす。瞬間、常夏の輪郭が薄れる。
(!)
はっとする。まさか……?
常夏は、いとおしそうにサユキの髪を撫でた。
『許されないなら駆け落ちしよう。僕は、きみが好きだよ。今生も来世も、きっと、きみだけが好きだから』
『常、夏……!』
つらい。うれしい。複雑な気持ちは完全に撚り合わさり、純粋な喜びだけが湧き上がる。胸が熱い。止められない。
焦がれた声音に、サユキは、しあわせな涙は、けっして氷石にならないのだと知った。
そうして、初めて口づけを交わした。
――――――――
シュンシュンと湯の沸く音。
コトリ、茶器を置く。
膝の前の白湯から視線を上げると、烏天狗の青年と不可思議な人間の美女と目があった。サユキの背は、告げるべき言葉を探り当て、ぶるりと震えた。
「わたし……思い出した。あのとき、本当に死んでしまったんだわ」