弐 迷い子と筒井筒
順を追って話してね、のお願いに、少女は素直に頷いた。上がり框に降ろされあとは、こちらを振り返りもせず、すたすたと囲炉裏まで歩んでしまう。ちょこん、と鎮座した白いあやかし姫はどう見ても氷の性で、もしや火の側では融けるのでは……? と、気を揉んだが、次の瞬間、別客からあっさり是正された。
「――気にすんな。たかが異界の焚き火で消えるようなタマなら、こんなとこまで来やしねえよ。迷い子でもな」
「烏」
すっ、と天音の隣を青年が通り過ぎてゆく。
座布団にどかりと腰をおろした烏は、手ずから鉄瓶をとり、自分用の器に湯を注いでいた。
天音は、そこでようやく深く息を吐いた。
「お嬢さんは何を飲む? 甘いものは好き? うちにある茶で、口に合うのがあればいいんだけど」
* * *
少女はみずからを“イイズナの精のサユキ”と名乗った。おそらくは仮の名だろう。音のみで漢字はわからない。
サユキは茶も茶請けも断り、人間に化けるのは不得手なのだと残念そうに眉を下げた。
なるほど、匂いに敏感な野生の獣ならば、さもありなん。普段はあれこれと注文をつける烏がおとなしく白湯を淹れるわけだ。
天音は複雑な思いで彼女を見つめた。
――イイズナ。
たしか、寒冷地に住まう小形の生き物だ。冬毛といえばふさわしい雪の色の髪につぶらな黒い瞳。丸い耳は間違いなくイタチ科のそれに見える。
だが、オコジョとの違いって何だっけ……。
そんなことを思いつつ、本題を切り出した。
「サユキさん。それで、貴女、さっきは迷子って言ってたけど……駆け落ち? しようとしてたのよね。相手は誰だったのかしら」
「常夏の君よ! 焔猫の若棟梁、常夏様」
「!!? ブハッッ、うっ、ごほっ」
「だ、大丈夫、烏? どうしたの。急に噎せ込んで」
「いや、ちょっと………知り合いにな。同じ呼び名の奴が。奇遇だと」
けほけほと続けて咳をする青年を、サユキは疑わしそうな目で見つめた。
「……あなたみたいに、粗野で乱暴な烏天狗が……? 優しくて素敵なあのかたと?? 冗談じゃないわ。悪いけど、妖違いじゃないかしら」
「俺もそう思う。俺の知ってるそいつは妻子持ちだし」
「えっ」
「こら! 烏!」
「事実だ」
ふいっとそっぽを向いた烏を、サユキは凝視している。黒目がちな瞳は涙を滲ませており、「うそ」とこぼしていた。かなり気の毒だ。
しかし、烏の追及は止まらなかった。赤い双眸を再び少女に流し、手にした茶器カタリと囲炉裏の枠に置く。やおら片膝を立て、胡座を崩した。
「あのさ。お前、もっと詳しく話せるか? もし、お前の大事な駆け落ち相手が、俺の知る『焔猫』だって言うんなら、会わせてやれる。話せよ、経緯を。いつ逃げた。なんではぐれた?」
「そ、れは」
瞳を心もとなく揺らしたサユキは、助けを求めるように天音に焦点を合わせた。
「あの……聞いてくれる? 店主」
「もちろんよ」
きっぱり頷く。反射で答えた。
この身は取るに足りない人間の亡者だが、それ以外の答えなどない。
――――――――
天音は、気づけばここにいた。
何もない空間で、たったひとりきり。
家や道具などは望めば生じてくれた。
触れられるし、飲み物にも食べ物にも味や食感があるが、厳密にはすべてがまぼろしだとわかっている。
仕組みは不明だが、人の営みを忘れずにいたいと足掻く気持ちの現れなのだろう。
長い長い時間のなか、訪れるのは、たいていは迷える魂だった。未練を残すもの、何かを忘れて困り果てているものが多かった。
彼らの願いは、総じて天音のそれにも通ずる気がした。だからこそ無下にできない。
――烏だけ、なのだ。
底知れぬ妖であっても、命を携えたまま飄々と訪ねてくれるのは。
だからだろうか?
唐突に気づいてしまった。
こんなにも力にあふれ、誰からも愛されそうな妖の姫君が迷い込んだのは、なぜなのか。
サユキは身も世もなく泣きじゃくっていた。置き去りにされた子どものようだった。
そんな子が縋るように、変わり種の死者でしかない自分に助けを求めるのだとしたら。
(この子は――。ひょっとしたら)
「……」
天音は首を傾げ、つとめて柔らかく微笑んだ。
「話して、サユキさん。ここは現世と幽世の狭間にある異界で、いろんなモノがやって来るけど、呼ぶこともできるのよ。相手が貴女と同じ、迷子ならば。余計に」
「!」
総毛立ち、ひゅうっ、と息を飲んだ少女は、やがてしおしおと縮こまった。一回り小さくなった肩が小刻みに震えだす。喉がごくりと上下した。
緊張を押しのけたサユキが、細く声を紡ぐ。
「話すわ。あのね」
そうして始まる身の上話。
彼らは、異なる妖同士でありながら筒井筒。気心の知れた幼なじみだったという。