李昭皇(ベトナム・李朝:在位1224.10~1226.1.11)
拙作『越南元寇録~モンゴル軍を打ち負かした英雄は、バイバルスだけじゃない。陳興道さんもお忘れなく~』に書いた内容と一部重複しています。既読の方はご注意を。
前話で取り上げた武則天は、良くも悪くも自らの手で運命を切り拓いた女性でしたが、今回の主人公・李昭皇は、もうこれでもかというくらいに運命の荒波に弄ばれまくった人です。というか、大体陳守度(1194~1264)って奴のせいですが。
拙作『越南元寇録』にも登場した彼女。唐王朝の滅亡を機に中国の支配を脱したものの、短命政権が続いたベトナム(正確にはベトナム北部のトンキンデルタを中心とした地域)に、ようやく長期政権を樹立(1009年)した李朝の、第八代皇帝・恵宗(1194~1226)の次女として1218年に生まれます。諱は仏金、または天馨。
彼女の父・恵宗は、李朝を滅ぼした暗君とされており、外戚の立場から政権を簒奪した陳氏によって貶められている側面はあるにせよ、農民反乱の頻発で傾きかけた王朝を立て直し陳氏の専横を抑え込むだけの力量も気概も持ち合わせていなかったのは事実なようです。
そして、無能な恵宗を尻目に政治の実権を掌握したのが、昭皇の母・順貞皇后の兄である陳嗣慶(?~1224)であり、その又従兄弟(Wiki日本語版などには「従兄弟」と書かれていますが、正しくは又従兄弟)に当たる陳守度でした。
陳守度は1224年、恵宗を退位させ、数え年わずか7歳の昭皇を皇帝の座に据えます。そして翌1225年には、彼女は陳嗣慶の甥に当たる陳煚――後の陳朝大越初代皇帝・太宗(1218~1277)と結婚させられます。
まあ、同い年の母方の従兄弟ですから、その点だけから見れば決して不自然な組み合わせというわけではないのですが……。数え年で8歳ですからね。
小倉貞男氏の『物語ヴェトナムの歴史』によると、当初昭皇の遊び友達だった陳煚に対し、ある時昭皇が四角い布にくるんだビンロウとキンマを投げつけたことから、「これは婚約の証だ」と強引にこじつけて、二人を結婚させたのだとか。
東南アジアなどの地域では、ヤシ科植物のビンロウの種子を細かく刻み、少量の石灰と共にコショウ科植物キンマの葉にくるんで噛むことを、嗜好品として嗜む風習があり、現在でもベトナムの他インドやミャンマーなどには結婚式に際して客に贈る風習が残っているようですが、これで結婚の意思表示と見做すのはさすがに強引すぎるというものでしょう。
ちなみに、今日でも台湾などではビンロウを購入することはできるようですが、喉頭癌のリスクなども指摘されているようですので、ご注意を。
そして、年は明けて1226年1月11日には、昭皇は陳煚に帝位を禅譲させられ、李朝最後の皇帝から陳朝最初の皇后となります。
それと同時に、恵宗は陳守度によって自害に追い込まれ、李氏の一族の多くも陳守度に粛清されます。
ついでに、陳守度は恵宗の妻で自身の又従姉妹でもある順貞皇后と再婚しています。
昭皇にとってみれば、無理やり皇帝にされて同い年の男の子と結婚させられ、そうしたら用済みとばかりに皇帝の座を譲らされ、父親や一族の人たちを殺されて、母親まで奪われてしまうという、まさに踏んだり蹴ったり。中々のドアマットっぷりです。
しかし、彼女の受難はまだこれだけでは終わりません。
と、その前に、彼女の姉のことについても語っておきましょう。昭皇は恵宗の次女と書きましたが、長女は順天公主(1216~1248)という人で、こちらも陳守度の意向により、太宗の兄の陳柳(1211~1251)という人と結婚させられます。
この陳柳の息子(ただし順天公主の所生ではありません)こそが、陳国峻、通称陳興道(1228~1300)。モンゴル軍の第二次・第三次ベトナム侵攻に際し、総司令官として奮戦、見事モンゴル軍を撃退した英雄です。
詳しくお知りになりたい方は、拙作『越南元寇録』を読んでね♡
さて、太宗を皇帝に擁立して政治の実権を掌握した陳守度ですが、次第に皇帝の兄として存在感を示し始めた陳柳が目障りになってきます。
陳守度は、1236年、陳柳に対し、李朝の後宮にいた女性に手を付けたという嫌疑を掛けて失脚させます。さらに翌年には、皇后である昭皇に子供ができないという理由から、この時すでに陳柳の子を身籠っていた順天公主を強引に取り上げ、昭皇の代わりに皇后に据えてしまいます。
もちろんこれは、陳柳を暴発させて政治的に葬り去るための策略だったのですが、昭皇にしてみれば踏みにじられた上に唾を吐きかけられたようなもの。心中は察するに余りあります。
妻を胎内のわが子ごと奪われた陳柳は、陳守度の思惑通り、怒りに任せて兵を挙げるも、結局鎮圧され、死罪こそ免れますが完全に失脚してしまいます。
ちなみに、順天公主あらため順天皇后は、この後、陳朝第二代皇帝となる聖宗(1240~1290)をはじめとする子供たちを産みますが、残念ながら1248年に若くしてこの世を去ります。
さて、散々な目に遭わされた昭皇さんはその後どうなったかと言うと……。
1257年、モンゴル軍が南宋攻略のために道を貸せと大越に迫ったことから、第一次大越侵攻が開始されます。
翌1258年にかけての両軍の戦いは、食糧の不足やベトナムの風土がモンゴル兵に合わなかったことなどもあって、大越軍が粘り勝ちを収めるのですが、この時軍功第一等とされたのが、黎秦という将軍。
李朝に先立つ前黎朝の始祖・黎桓の血を引くという彼は、両軍が激突した平厲源(現在のヴィンフク省)からの撤退戦において、太宗から殿軍を任され、見事その任を全う、自らも無事生還したのです。そして、その後大越軍の反撃が開始され、モンゴルを撃退するわけです。
黎秦はその功を讃えられ、太宗から御使大夫の官職と、「黎輔陳」の名を賜ります。もちろん、「陳王家を輔ける」という意味です。
そして同時に、一人の女性も賜ります。それが他でもない、昭皇さんでした。
この時の二人の心の内はどのようなものだったのか。様々な解釈があるでしょう。
昭皇にとっては、救国の英雄とはいえ臣下に嫁がされるのは屈辱だったか、それともあるいは、不遇な立場から救い上げてもらったという心境だったのか。
そもそも、黎秦の立場で、一般論としてみた場合、これははたしてご褒美と言えるのか? 前王朝の血を引き、かつて皇后でもあった高貴な女性とは言え、いろいろケチのついたアラフォー女性です。素直に喜ぶ男性はそうそういないでしょう。彼女に特別な思い入れでもない限りは――。
ということで、妄想を逞しくしてみると、この結婚は黎秦の方から臨んだのではないでしょうか。
ああ、ちなみに、黎秦の生没年は不明ですが、1259年には孫が生まれていますので、この時の年齢はどんなに若く見積もっても30歳以上、おそらくは昭皇と同年代だったかと推測されます。
前王朝の血を引く貴族階級なわけですから、幼少時の黎秦と昭皇に面識があったと考えても不自然ではありません。そして、黎秦は王女に恋心を抱いていたのではないでしょうか。
妻子どころか孫までいる年齢ではありますが、かつての想い人の不遇を見過ごすことができず、この機に妻に迎えたいと願い出た、というのはどうでしょう。
迫りくるモンゴル軍の猛攻を耐えしのぎ、これを振り払って自らも無事生還。そして願うはかつての想い人の幸せ――。うん、まさにヒーロー。ロマンス小説用語としての「ヒーロー」というより、真の「英雄」って感じです。
え、黎秦にはそれ以前に妻がいたんじゃないのかって? 確かにいたはずで、その女性がどうなったのかは気になるところですが……。死別してたとかじゃないかなあ(適当)。
そして昭皇は黎秦との間に一男一女をもうけ、1278年に60年の生涯を閉じます。その晩年は、優しい夫と子供たちに囲まれた幸せなものだったと思いたいですね。
ただまあ、いささか残念に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、彼女を散々踏みつけにした陳守度がざまぁされることはありませんでした。
ドアマットが「よくも散々踏みつけてくれたな」とか言って夜中に寝ている人間の顔に巻き付いて復讐したり、なんてことはそうそう無いのです。そりゃそうだ。
さて、次回はスウェーデンの女王クリスティーナ。若くして女王の座を捨て、自由に生きた女性です。乞うご期待!