表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

天の白鳥

作者: ginsui


「夢だったのか」

 皇子は言った。

「それとも、ほんとうにあったことなのか。さだかではない。ずいぶん小さいころだったからな」

 (くう)に視線を彷徨わせ、ゆっくりと、少し笑みを浮かべて皇子は語ったものだ。

「野遊びにでも出ていたらしい。どこかの広い野にわたしは立っていた。目を上げると、空に真っ白な鳥が飛んでいた。手を伸ばしたが、とどくわけもない。その時、誰かがわたしを抱き上げて、空に高くかかげてくれた。大きな手だ。顔を見ると、あの男だった。わたしは嬉しかった。誰もそんなことはしてくれなかったからな。鳥はどこへ行く? とわたしは訊ねた。天へ、と答えがかえった。大空の彼方へ」

 東国では、死者の魂は白い鳥になって空に飛び去っていくと言われている。

 東国生まれの男がそう言っても、おかしくはなかった。

 あったことなのかもしれない。本当に。



                1

 

    

 はじめてあの男に会ったのは、おれが十五の夏だった。

 通っていた女が葛城(かつらぎ)にいて、その帰りだ。

 山中は、したたる緑にむせかえるようだった。

 高々と昇った陽は、大地をあますことなく熱しはじめた。

 そこかしこで郭公が鳴き、小うるさい蝉の声とあいまった。

 暑さでいいかげんまいったおれの耳に、救いのような水音が聞こえてきた。

 近くに沢があったことを思い出した。一息ついて水浴びするのも悪くあるまい。

 おれは道をそれ、山に分け入った。

 沢の近くで立ち止まった。先客があったのだ。

 まだ若い男だ。

 早い水の流れも両岸の大きな岩も、さかんに陽の光をはじき、うっそうと繁った草々を白く曝していた。

 裸の上半身を水で濡らしていた男は、だから光を浴びているようにも見えた。

 おれの気配に気づいて、男はすばやく振り返った。

 身のすくむような鋭いまなざしは一瞬のことで、それはすぐに笑みをふくんだものとなった。取るに足らぬ小僧が立っていたわけなのだから。

 おれは曖昧に頭を下げ、逃げるようにその場を立ち去った。

 胸のとどろきは、なかなか止まなかった。

 いったい、何者なのだろう。

 あの悠然たる態度は、一介の野人とも思えない。

 ほどよく陽焼けしたたくましい肢体が、誇らかにかがやいていた。照りつける夏のさかりの陽をうけて、のびのびと自由をほしいままにして。

 妙に心騒ぎを起こさせる男だった。

 あたりにたちこめる青葉の匂いと同様、溢れたつその生の匂いに、おれはしたたか打ちのめされていたのかもしれない。


 二度目に見たのは、その歳の秋だ。

 法興寺(ほうこうじ)の槻の木は、早くも葉を落としていた。

 大きく枝を広げているその下で、蹴鞠に興じているのは皇族や貴族の子弟たちである。

 先年亡くなった舒明(じょめい)帝の長子中大兄皇子や蘇我入鹿の姿もその中にあった。

 おれは、有馬皇子の舎人になったばかりだった。

 まだ小さな皇子について、見物人の中に立っていた。

 鞠はよく晴れた空を背に、彼らの足先を器用に行き来した。おれはやがて、見物人の中の、ひとり抜きんでて背の高い男に気がついた。

 その顔を認めて驚いた。夏に見たあの男にまぎれもなかったからである。

 (ほう)をきっちりと着込んだ彼は、夏とはうってかわってしんと落ちつきはらった姿だった。

 見物人の中で、その目ばかりは鞠を追っていなかった。その目はただひとりに、当時十七才の中大兄皇子ばかりに向けられていた。

 どう調子が狂ったか、鞠を蹴ろうとした中大兄皇子の右(くつ)がすっぽりと脱げた。

 落ちたのは、男の目の前だった。

 男は、かがみこんでそれを拾った。

 ゆっくりと進み出て、沓を中大兄皇子に差し出した。

 中大兄皇子は、男と視線を合わせた。

 その一瞬。

 それが、あの雨もよいの空の下、蘇我入鹿に振り上げた中大兄皇子の最初の一閃になろうとは、誰が想像できただろう。

 中臣鎌足。

 名は後で聞き知った。

 実際、その時まで鎌足を知っていた人間はごくわずかだったと言っていい。

 大和の人間ではなかった。中臣は中臣でも東国の中臣。常陸鹿島社の宮司の息子である。十代のころ本家の中臣御食子(みけこ)を頼って大和に上って来たという。

 実子のなかった御食子は、この東国生まれの男をことのほか愛し、数年前に家業を継がせようとした。が、鎌足は御食子の親族に遠慮してかそれを辞して、しばらくは飛鳥を離れて暮らしていたらしい。

 上背があるひょろりとした身体つきと、いやにはっきりとした目鼻立ちをしており、それがためか改新政府の反対派に、後々まであれは蝦夷(えみし)の血を引いているにちがいない、などと陰口をたたかれることになった。

 鎌足が、はたして蝦夷の血を引いていたかどうかは知らない。いずれにせよ東国は辺境、その東国生まれの田舎人が、突如としてこの国の頂点に立ったのだ。並々でない才覚だろう。

 蘇我氏が滅びた後、皇極女帝にかわって、その弟の軽皇子(かるのみこ)が即位した。      

 孝徳天皇──つまり、有間皇子の父親である。

 中大兄皇子が、軽皇子を推したのも、鎌足の助言だったということだ。皇太子の身分の方が、自由に政治の腕をふるえるし、長老の軽皇子を立てておいた方が、人臣の心を掴みやすいというわけで。

 傍目から見た鎌足は、雲中に隠れた月のような男だった。

 必要以外のことはめったに語らず、声を荒げ、表情を乱したりすることは決してなかった。たいがい中大兄皇子の側に慎ましく控えており、それがことさら策謀家然とした印象を人に与えた。

 だがおれは、もう一人の鎌足を知っていた。あの夏の日、まるでそれが特権であるかのようにほしいまま、まばゆい陽光に身をさらしていた姿を見たからには。



                2



 澄みきった秋の風に、真新しい木材や朱の匂いが交じってくる。

 難波(なにわ)に都が遷されて、六年がたつ。

 長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)は、完成間近だった。これまで仮宮に住んでいた帝たちも、出来上がったばかりの内裏に、すでに引き遷っている。

 まだ土の新しい植込みを横切って、おれは厩に向かった。

 有馬皇子の散策の伴を言いつかっていたのだ。

 庭先に馬を引き出していると、有馬皇子やがてやって来た。

 十二になったばかりの皇子は、華奢で小柄な身体つき。だが、いかにも怜悧そうなその面差しは、だいぶ大人びて見えた。

 常に相手を見据えているような黒い大きな瞳。細い鼻梁と眉の間の青白さがいくぶん神経質そうなところを見せ、唇はきかぬ気にひきしまっている。

 幼い頃から、皇子はおれの誇りだった。まわりの者に、将来を期待させる煌めきのようなものを、たしかに皇子は持っていたのだ。

 いずれは、この国になくてはならぬ人物になるだろう。

 そのころのおれは、そう信じて疑わなかった。

 ただ、内裏の一角にある有馬皇子の住居は、きらびやかな宮殿の活気とはうらはらに、どこかひっそりとしていた。母親の小足媛(おたらしひめ)が、早くに亡くなっていたせいだろうか。

 帝は、まるで皇子をかまわなかった。

 帝の関心は当時、中大兄皇子の妹の若い間人(はしひと)皇后にばかり向けられていたが、それ以前でも皇子への情は薄かったようだ。そのよそよそしさは、見ているおれでも奇妙に思えるほどだった。皇子は帝のたった一人の子供ではないか。

 もっとも、帝の種、有馬皇子の弟と噂されている子供が一人、いるにはいた。

 名は真人(まひと)、他ならぬ鎌足の長子である。

 蘇我氏打倒を企てていた鎌足は、中大兄皇子に出会う前、まず帝に近づいたのだという。蘇我氏全盛のころ、誰にも顧みられることのなかった帝はしげく訪ね来る鎌足に深く感じ入り、ついには妃の小足媛をゆるし与えた。小足媛はすでに帝の子を身ごもっており、それが真人だというのだ。

 やがて鎌足は帝の器量を推し量り、ともに大事をなすには足らぬ人物とみなしてそのもとを離れた。真人ばかりが鎌足の子として残されたわけだった。

 噂の出所はわからなかった。真偽のほどもだ。

 だいたい、軽皇子時代の帝に誰が目をむけていただろう。蘇我氏が未だ健在ならば、帝にはとうてい即位などという機会はめぐってこなかったはずなのだから。

 ただ、おれは何度か真人を見かけたことがある。見かけるたび、それが単なる噂だと笑ってすませないものを感じたことは確かだ。

 線の細い、神経質そうな面差しの──皇子と真人は、実によく似ていたのである。

「大和川の方に行ってみよう、米麻呂(よねまろ)

 有馬皇子は、軽やかに馬にまたがって言った。

「きっと、紅葉が美しいはずだ」

 おれも、皇子の後に続いて馬を奔らせた。

 大和川は、都の南にある。整然と区画された都の道路を抜けると、稲刈を終えた田がひろびろと続き、その向こうは鮮やかに色づいた山々を背にした(すすき)野原だった。

 皇子は、薄野の手前で、突然馬の手綱を引いた。

 前方に、賑やかな女たちの一団がいたのだ。

「あら、有馬皇子さま」

 女たちにかこまれていた少女が、顔を上げてにっこりと微笑んだ。

 年の頃十三四、髪の毛のたっぷりとした愛らしい少女だ。両手に、白い萩の花を抱えている。

 鎌足の娘の、氷上娘(ひがみのいらつめ)だった。最近、中大兄皇子の弟、大海人皇子の妃になることが決まったばかりだ。

「こんなところで、なにを?」

 皇子は、馬から降りて氷上に歩み寄った。

 氷上の侍女たちが、頭を下げた。

「ご覧の通り、花をつんできました。秋の花を家の庭に植えかえようと思うの」

「うまく、根づけばいいね」

「ええ」

「真人は?」

 皇子は、ふと眉をひそめて尋ねた。

「家にいます」

「真人が唐に行くというのは、本当なのか?」

「皇子さまもご存じ?」

 氷上は、軽くため息をついた。

「ええ、本当です。学問僧になって、来春、唐へ」

 おれは、あやうく声をあげそうになった。

 あまりにも、とっぴな話だった。

 唐に行くことが、どんなに危険きわまりないことなのかは、おれだって知っている。

 長い船旅。船が無事に風に乗り、海を渡りきるという保障はどこにもない。命がけと言っても、決して言い過ぎではないのだ。

 まして、噂はどうあれ、真人は鎌足のただひとりの息子ではないか。このころ、不比等はまだ生まれていなかった。

 高位にある者の長男が僧になるなど、聞いたことがない。

「誰が決めたのかな」

 皇子は首をかしげた。

「お父さま」

 氷上は、ちょっと微笑んだ。

「自分が行きたいころだけれど、そうもいかないからって。どうするかは真人にまかせるとおっしゃいましたけど、真人はもう行く気のようです」

「そうか」

 皇子はうなずき、まぶしそうに目を細めた。


「唐とはな」

 氷上娘と別れた後、ゆるく流れる大和川のほとりに立って、皇子が、ぽつりと言った。

「思い切ったことをする」

「はい」

「口うるさい者たちが、また言いはやすだろうな。実の親なら、とうていできないことだとか、なんとか」

 おれは、皇子の顔を見た。皇子は、低い笑い声を上げた。

「ご存じだったのですね」

「そりゃあそうさ」

 皇子は、川辺の葦を折って水面をぴちゃぴちゃとたたいた。

 川を流れる色鮮やかな紅葉が、葦のまわりでくるくる舞った。

「米麻呂は、どう思う?」

 皇子は、ふいにおれを見つめた。

「わたしに、内臣のお考えなど」

 おれは、とまどった。

「ただ、真人どのが、どなたの子であれ、氷上娘に言われたことが、内臣の本心ではないか、というような気はします。唐に行きたいのは、内臣の方ではないか、と」 

 照りつける夏の盛りの陽をうけて、のびのびと自由をほしいままにしていた男。

 果敢な夢を抱いて大和に上ってきた東国生まれの青年は、まだ鎌足の中に息づいているのだろうとおれは思う。さらに広い世界を求めてやまずに。

 おれは、鎌足をはじめて見た時のことを、ぽつりぽつりと皇子に語った。これまで、誰にも話さなかったことなのだが。

「そうかもしれない」

 皇子は、うつむき、くすりと笑った。

「不思議な男だ、鎌足は」


 翌年、遣唐船は海に出た。

 入江を見下ろす高台で、おれは有馬皇子といっしょに船を見送った。

 港は女たちの振るとりどりの領巾(ひれ)に彩られていた。

 送別のざわめきといりまじり、使節たちの家族のものにちがいないひそやかな泣き声が風にのって聞こえてきた。

 鎌足は妻の与志古娘(よしこのいらつめ)と氷上ら二人の娘たちを連れていた。与志古娘は、けなげに涙をこらえている様子で、鎌足はしっかりと彼女をささえている。

 いまは法名貞慧(じょうえ)と名乗る真人の幼い僧形が痛々しく胸にうかんだ。

 かたわらの皇子をうかがうと、皇子は瞳の色を深くして海に見入っていた。

 弟とも言われていた少年を、どんな思いで見送っているのか。

「小さいな」

 ややあって皇子がぽつりと言った。

 おれは、もう一度船に目をやった。

 明るい五月の波間を進む四艘の船は、いかにも小さく見えた。

 大海への可憐なあこがれのように帆にちろちろと光をうつし、点となって視界を去った。



               3



「中大兄皇子は、飛鳥に都を戻すつもりだそうだ」

 遣唐使たちが旅立って間もない夏の日、世間話のように有馬皇子が言った。

「飛鳥へ?」

 長柄豊碕宮が完成したのは、つい去年のことではないか。民人も、ようやく難波になじみはじめた所だというのに、なぜまた飛鳥に戻ることがある? 

「どなたが、そのようなことを」

「間人皇后さ。中大兄皇子のことに関しては、帝よりもお詳しい」

 中大兄皇子が実の妹、間人皇后と通じているという噂は、飛鳥にいた頃からあったものだ。しかし、有馬皇子の口からあっさり言われてみると。おれは、次の言葉を失ってしまった。

 間人皇后のことも含めて、帝と中大兄皇子の関係は、はじめからしっくりしないものだった。

 帝に同情すべき点は大いにある。結局のところ、帝とは名ばかりの存在にすぎなかったのだから。

 難波遷都以来、矢継ぎ早やに打ち出された政策は、老いてかたくなな帝の頭からはとうてい生まれるはずのないものだった。

 国博士たちの力はあったにせよ、それはやはり若い中大兄皇子と鎌足のものだったろう。二人は新たに日本と名づけたこの国を掌にのせて、しきりに形づけようとしていた。

 むろん、異物をとりのぞくことはわすれずに。

 飛鳥遷都を、帝は最後まで反対した。

 よくよく考えてみれば、難波に住む官人たちの本據はまだ飛鳥にあり、飛鳥への帰還は誰もの望みだったろう。海に臨む難波は、半島への防衛上、好ましくないのも確かなことだ。

 帝の反対は、中大兄皇子らへのはかない抵抗だったにちがいない。

 だが、中大兄皇子もまた帝を拒んだ。郡臣ひきつれ、この年のうちに飛鳥へ帰ったのである。

 間人皇后も、兄たちと行動を共にした。

 帝と、少数の反中大兄皇子派ばかりが、真新しい宮にこびりついた怨念さながら、難波に残り続けた。

 帝は、ほどなく病の床についた。

 有馬皇子は、たびたび帝の病床を見舞ったものだ。

「哀れな老人だからな」

 皇子が、ふとつぶやいたことがある。

「わたししかいない」

 さびしげに曇った顔は、妙に子供こどもしたものになり、皇子はそれをふり払うかのように皮肉めいた笑みをうかべた。

「それにしては、好かれていないようだが」

 まったくだった。

 帝は、見舞いに行った有馬皇子に、声すらかけないこともあったようだ。

 なぜこれほどまでに冷たい扱いをしなければならないのか。

 凡庸な帝が、若い皇子の才気に嫉妬しているとでも?

 帝への同情も消し飛んで、そのころのおれは、憤然と考えていた。

 にしても、わが子ではないか。八つ当りするとは、ひどすぎる。

 

 中大兄皇子らが難波を後にして、半年が過ぎていた。

 帝の病は癒えそうになく、長柄豊碕宮は、ひっそりと息を殺しているようだった。

 その夕刻、おれは舎人の詰め所にいた。部屋の外で、女官らしい者の叫び声がしたので、驚いて廊下に飛び出した。

 有馬皇子の部屋の手前で、若い女官がひとり、倒れて啜り泣いている。

「どうなさった?」

 おれは、彼女を助け起こした。

「皇子さまが、私を突き飛ばしてお部屋の中へ」

 突然帝のもとから帰ってきた皇子は、すれ違いざま彼女を突き飛ばし、自分の部屋に駆け込んだと言う。

 今まで暴力などふるったことのない人だ。尋常な事態ではない。

 おれは、彼女を宥めて下がらせ、皇子の部屋の戸を開けた。

 もう秋で、日暮れは早い。夕陽の、ぼっと赤っぽい光が、蔀から斜めに床に射し込んでいた。

 皇子は、薄暗い部屋の隅にうなだれて座っている。

 このところ、皇子の背丈は一気に伸びていた。ひょろ長い手足を折り、身体を丸めているさまは、ひどく痛ましかった。

「皇子」

 おれは、そっと声をかけた。

「来るな」

 皇子は、ぼそりと言った。

 おれは、かまわず皇子に近づき、息を呑んだ。

 病んだ老人は、せいいっぱいの力を出したと見える。

 皇子の左頬には、くっきりと手形が残っていたのだ。

 何事があったのか聞き出したいこころをおさえ、おれは腫れ上がったその頬を冷やすことに専念した。

 皇子はおそろしく暗い目をして、されるがままになっていた。

 青ざめた顔が、夕闇に浮かび上がる。おれは、燈をつけることも忘れていた。

「飛鳥へ行け、と帝に言われた」

 ややあって、つぶやくように皇子は言った。

「鎌足のところにな」

 おれは、思わず皇子を見た。

 皇子はおれを見返し、歪んだ笑みを浮かべた。

 喉の奥で圧し殺した声が、弾けるような高笑いとなり、皇子は身をよじってひとしきり笑い続けた。

 このときおれは悟ったのだ。

 皇子の真の父親が誰であるかを。

 目くらましにすぎなかったのだ、真人が帝の子であるという噂は。

 皇子と真人はたしかに兄弟にはちがいない。ただし母親の違う兄弟だ。帝が小足媛を鎌足に与えた時、媛が孕んだのは他ならぬ鎌足の子だったのだから。

 帝の皇子への態度も、これならばつじつまがあった。

 帝にしても、はじめは我が子と信じていたのかもしれない。しかし皇子の成長につれその面差が自分の血をなにひとつ伝えてはいないことに気づいたか。

 そして皇子も、このときはじめて自分の出生を知ったのだ。

 皇子は、ぴたりと笑いを止め、両手に顔を埋めた。

 肩が、いつまでも震えていた。

 十月、孝徳帝は崩御した。



                4



 飛鳥の新邸に移り住んだ有馬皇子の日常は、平穏とは言いがたかった。

 飛鳥全体がそうだった。人々は新政府のめまぐるしい動きに、そろそろ息切れしてきたのである。

 今回も中大兄皇子は即位しなかった。皇極帝が飛鳥板蓋宮で重祚(ちょうそ)し、斉明天皇となる。

 即位した年に、板蓋宮が燃えた。やむなく仮宮に遷り、小墾田(おわりだ)に新宮を築くことになった。

 ところが、材料の木に朽ちただれたものが多く、小墾田宮の造営は中止。新たに選ばれたのが岡本の地だ。

 その岡本宮も、建物の形ができるのを待ちかねたように、火事にみまわれた。

 放火、という言葉が、あちらこちらでささやきかわされた。

 斉明帝の建設好きは、ただでさえ評判が悪かったのだ。

 宮の造営ばかりではない。多武峰には石垣がめぐらされ、天宮と称する高殿が築かれていた。石を運ぶために香久山の麓から石上山にかけて長大な溝が掘られ、水をひき、舟がうかべられた。

 

 (たわぶれ)心の(みぞ)

 功夫(ひとちから)を損し費すこと三万余。垣造る功夫費し損すこと七万余。宮の木(ただ)山椒(やますえ)埋れたり。


 そんな童謡を皇子に語り聞かせるのは、塩屋連(しおやのむらじ)坂合部連薬さかいべのむらじくすり守君大石(もりのきみおおいし)といった連中だった。

 飛鳥に来て以来、皇子のもとには反政府派がひっきりなしに出入りしている。

「あの馬鹿げた工事をごらんなされい、皇子」

 塩屋連などは灰色の髭に泡を飛ばしていきまいた。

「二言目には新国家云々と中大兄皇子は言うが、土を堀かえすことが国造りなら、そんなことは土竜にでも任せておけばよろしい。民人はもうとことん疲れきっておりますぞ」

 塩屋連は、孝徳帝存命中からなにくれとなく皇子の世話をやいてくれる。実直で憎めない激情家だったが、いかんせん、思慮が浅すぎた。

 反政府派の動きには、ただでさえ中大兄皇子が神経質になっているのだ。昼日中からこんなことを言い出されては、側にいるおれたちの方が気がもめる。

 皇子は脇息にもたれかかり、あの時以来、常のものとなった暗い目で老人を眺めていた。相手が興奮すればするほど、皇子の表情は醒めていくようだった。

「中大兄皇子と内臣のやりかた」

 塩屋連は、さらに言う。

「蘇我父子を滅ぼしたまではよい。問題はその後ですぞ。即位の意志なしとて出家した古人大兄皇子を襲い、改新の功ある倉山田石川麿どのに無実の罪をきせ死に追いやり、そして先帝へのあの仕打ち。ことにあの内臣は、邪魔なものはことごとく切ってすてるというやりかたじゃ。お気をつけなされ、皇子。次は皇子の番ですぞ」

 皇子はぴくりと眉を上げた。

「言葉がすぎましょうぞ、塩屋連どの」

 坂合部連が、おれの言いたかったことを口にしてくれた。

「いいや、それだから皇子にお考え願いたいと言うのじゃ。中大兄皇子に学ぶべき点はただひとつだけある。皇子、あのまま蘇我の時代が続いていれば、中大兄皇子は古人大兄皇子の対抗者として入鹿の手にかかっていたかもしれません」

 塩屋連は、はじめて声を落とした。

「中大兄皇子は先手を打った。皇子、学びなされ。待つだけではどうにもなりませんぞ」

「ああ」

 皇子は視線をあらぬ方に向け、低くつぶやいた。

「心しておこう」

 

 皇子はこのころ、何を思って日々をおくっていたのだろう。

 ただひとつの名が、皇子の頭を占めていたのは確かなようだ。

 岡本宮の火事見舞いに行った時だ。宮は全部が焼け落ちたわけではなく、帝は難を逃れた建物に住まっていた。

 帝への挨拶の帰り、ちょうど焼け跡の前で鎌足に会った。

 幾人もの人夫たちが、掛け声をかけあいながら焦げた木材を運び出し、きな臭い地面をならしていた。

 鎌足は、めずらしく一人だった。有馬皇子を見ると、慇懃に挨拶した。

 皇子は、一瞬顔を強ばらせた。しかし、すぐに不敵な表情をつくり、

「飛鳥の宮は、よく燃えるな、内臣」

 挑発するように皇子は言った。

「だいぶ火の気が多いらしい」

「そのようです」

 さらりと鎌足は応えた。

「用心することだ」

 皇子は、身じろぎもせず鎌足を見すえていた。

 鎌足の瞳の奥が、その時わずかな揺らぎを見せた。

 皇子がすべて知っていることを、鎌足は感じとったにちがいない。

 鎌足は皇子から目をそらし、深々と頭を下げた。

 皇子は、歩み去る鎌足の後背を憮然として見送っていた。

 飛鳥にいる以上、鎌足を見かける機会はいくらでもあったのだ。それからも、おれたちは幾度となく鎌足と顔を合わせた。

 皇子は、いつでも鎌足を見ていた。

 鎌足は、と言えば、決して皇子と視線を合わせようとはしなかった。

 皇子を無視することが、鎌足にできる唯一の行為だったのだとおれは思う。

 有馬皇子が、真実誰の子であるかを中大兄皇子が知ってしまったら──中大兄皇子にとって、孝徳帝の遺児であり、鎌足の息子でもある有間皇子は二重に警戒すべき人間だ。

 有間皇子を帝にすえるという誘惑が鎌足の心にきざさないといいきれるか。

 癇癖強い中大兄皇子がそんな疑惑を抱きはじめたとしたら、有馬皇子の命は、おそろしく危ういものになるだろう。

 鎌足は、沈黙を保たなければならない、皇子のために。

 だが、皇子の望みは、おそらく──ただ一度でも、鎌足と眼差しを交わし合うことだったのだ。



                5



 その夜は、蒸し暑かった。

 前日から降り続いている雨はいっこうに止みそうになく、重く湿った空気が息苦しくなるほどのうっとうしさでのしかかってくる。

 寝返りばかり打っていたが、どうしても眠れず、おれはついに床から這い出した。

 外気は、いくらか風が動いている。このまま邸を見まわろうと思い、火をとった。と、皇子の寝所の方で物音がした。

 おれは、すぐさまそちらに足を向けた。

 寝所にいるのは皇子ひとりのはずだ。皇子には妃が二人いたが、どちらにも一二度通ったきりだったろう。そのためか彼女等は実家にいる方が多かった。

 庇の角を曲がって、はっと立ち止まった。寝所の戸が開いている。駆け込むと、皇子の寝床は空だった。

 おれは、雨音こもる外の闇に目を走らせた。人影が、もっと暗い闇となって庭を横切って行った。

 皇子に違いない。

 おれは、わけのわからない不安にかられ、後を追いかけた。

 どしゃぶりの雨だ。

 皇子の足は早く、姿を見失わないようにするのがやっとだった。

「皇子!」

 おれは呼びかけたが、皇子の耳にとどいていたかどうか。

 ぬかるみに足をとられて、幾度か転びかけながらも、おれはついに、皇子の目指していた場所を知った。

 いや、はじめから予想はしていたような気がする。

 そこは、内臣邸だった。

 皇子は、ためらいもせずに土塀を乗り越えた。閉ざされた門を押し開けるわけにもいかず、少し遅れておれも後に続いた。

 植込みの向こうに、淡い明かりが灯っていた。

 この家の主は、まだ起きていたらしい。おれは、そちらに足を向け、立ちすくんだ。 

 皇子が、鎌足と向き合っている。

 庭先に立った鎌足は、裸足のままだった。

 鎌足は、なにか言い、顔をそむけた。

 皇子の手には、刀子が握られていた。細い刃は、斜めにひらめいて鎌足の右の二の腕あたりを切り裂いた。

 次の瞬間、皇子は刀子をとり落とし、体当たりするように鎌足にすがりついた。

「皇子!」 

 おれと鎌足は、同時に叫んだ。

 まるで、皇子が傷を負ったようだった。皇子は、鎌足の腕の中に崩れ落ちていた。

 鎌足は、おれに目を向けた。

 だらりと垂れた右腕から、絶え間なく血がしたたっている。左手だけで、気を失った皇子をささえていたが、その顔は蒼白だった。

「お連れしてくれ」

 鎌足は、ささやいた。

「早く」

 おれは呆けたようにうなずくと、ぐったりした皇子の身体を受け取った。

 

 二日の間、皇子は意識がもどらなかった。

 激しい震えと熱に交互にみまわれ、おれですら、その命をあきらめかけた。

 あの夜、皇子が鎌足に刀子を振り上げる前に何があったというのだろう。

 はじめから皇子は、鎌足を殺すつもりだったのだろうか。にしても、刀子一本とはあまりにささやかな凶器ではないか。

 命をすりへらしたのは皇子の方だった。

 三日目の朝、皇子は目覚めた。

 枕辺で、おれは愕然と立ちつくした。

 皇子のうつろな双の目は、すでに常人のものではなかったのである。


 有間皇子が狂ったという噂は、早くも飛鳥中に広がった。

 中大兄皇子などは、早速見舞いの使いをよこしたほどだ。

 中大兄皇子は有間皇子の病を疑っていたが、これはどうしようもない事実だった。皇子の瞳は静かな廃人のように外界を拒み、内へと沈んでいた。 

 皇子に湯治を勧めたのは、塩屋連だ。紀伊にある牟婁(むろ)の湯は、塩屋連の生国とも近いという。何かと便宜をはかってくれる塩屋連が、このときばかりはありがたかった。

 湧き出る湯と、さえぎるものなく外洋に臨む牟婁の広々とした景観は、皇子の病をゆっくりと癒してくれたようだった。

 徐々にではあったが、皇子は表情を取り戻した。

 何も聴かず、何も語ろうとはしなかった皇子が、おれたちに再び目をむけるようになった。

 おれは、ひとまず安堵した。このままずっと牟婁で暮らせたら、皇子のためにはどんなにかいいだろうと思ったりもした。鎌足のことも飛鳥のことも忘れて。

 だが、皇子にとっては忘れられるはずもなかったのだ。

 初秋の空は、高く澄んでいた。

 来た当初は、ひどく新鮮に感じられた潮の香が満ちている。

 塩焼きの煙たなびく海辺をそぞろ歩きながら、皇子はひとつ大きく伸びをした。

 おれは、目を細めた。心も身体も、病んでいたとは思えない健康さだ。

「あの夜──」

 皇子は、突然語り出した。おれは、ぎょっとして皇子を見やった。

「あの夜のことは、よく憶えていない。気がつくと、目の前に鎌足が立っていた」

 さえざえと明るい声音だった。

「わたしは、鎌足に訊ねようとしていたのだと思う。わたしと中大兄皇子と、どちらを取るかとな。はじめから、答えはわかっていたはずなのに、愚かなことをしたものだ。わたしが口を開く前に、鎌足は言った」

「なんと?」

「お許し下さい、皇子。──ただ、それだけさ」

 皇子は海の向こうを見やり、かすかな笑みを浮かべた。

 皇子は鎌足と対し、鎌足は皇子を拒んだ。皇子の思いが、それでふっ切れたのならよいが。

 皇子の妙に澄んだ微笑みに、おれはなぜか胸騒ぎを覚えていた。

「大和に帰ろう、米麻呂」

 皇子は、言った。

「わたしはもう、だいじょうぶだ」



                 6



 皇子はひとたび飛鳥に戻り、帝などに病気回復の挨拶をすませると、生駒市経の別業に移り住んだ。

 皇子の病は陽狂であると、信じて疑わない者は多かった。

 中大兄皇子の疑惑も、いっそう増したにちがいない。牟婁への湯治は準備期間で、飛鳥を出たのは政府への公然たる反目だと。

 皇子は十八。入鹿を倒した中大兄皇子と同じ年になっていた。

 市経の邸に出入りするのは、反政府派のごく限られた者たちばかりとなった。

 どうするつもりなのか、おれは皇子に問いただしたかった。人々は、もはや有馬皇子から目を離すまい。かたずをのんで皇子の行動を見守っている。

 皇子はといえば、ひとり、飄々と日々を過ごしているように見えた。

「ずいぶんと、大人になられたのう」

 塩屋連などは、感きわまっておれにもらしたほどだ。

「まぎれもなく、王者のお顔をなさっておる」

 そのころ、ひんぱんに有馬皇子のもとを訪ねてくる人間に、蘇我赤兄がいた。

 蘇我馬子の孫、入鹿には従兄弟にあたる。三十五六の色浅黒い小男で、薄い唇は、いつも冷笑しているように歪んでいた。

 はじめから気に食わない男だった。

 おれは、蘇我の暗い血を思う。

 中大兄皇子が入鹿を首尾よく討ち果たしたのは、蘇我の同族倉山田石川麻呂の協力があってこそだった。

 石川麻呂は右大臣の地位に昇り、しかし、弟の日向に中大兄皇子暗殺を企てていると讒言され、自殺した。

 以前に塩屋連も言っていたが、これはどうも中大兄皇子と鎌足が仕組んだことらしい。

 二人にとって、旧体制を引きずった右大臣は邪魔だったのだ。石川麻呂を陥れた日向は、太宰府に左遷されただけだった。

 蘇我は、互いを潰し合いながら小さくなった。赤兄は、その最後の生き残りだ。

 おれは、ぎくりとした。

 改新以来、蘇我の影にはいつも鎌足と中大兄皇子がいる。

「皇子」

 赤兄が帰った後、おれは有馬皇子に言った。

「蘇我赤兄どのを、どう思われます?」

「おもしろい男だ」

 皇子は、あっさりと言った。

「飛鳥のまわし者としては、どうかと思うが」

 皇子も、承知していたのだ。

 しかし、赤兄を間諜に使うとは、あまりにも露骨すぎるやり方だ。

「赤兄の話だと、帝は近く牟婁に行幸なさるつもりらしい」

 有馬皇子は、言った。

「よい所だと、わたしも勧めたからな。中大兄皇子や内臣も同行するので、赤兄は留守官を言い使ったそうだ」

 庭先で、かすかに虫が鳴いている。秋の終わり、しんと冷え切った夜だった。

 有馬皇子は、側の火桶に手をかざした。指先が、燠火に赤く染まるようだった。

 おれは、しばらく言葉を失った。

 信じられない不用心さだ。

 これではまるで、事を起こせと言っているようなものではないか。

 飛鳥は空、僅かな警護の牟婁を襲えば、この国はたちまち有馬皇子の手に落ちる。

 留守官が赤兄でなければ、おれも騙されたかもしれない。

 だが、赤兄だ。

 帝にかこつけて、大がかりな罠を仕掛けようとしているのは中大兄皇子だろう。有馬皇子が反乱の兆しを見せさえすれば、すぐさま捕えて反政府派を一掃するつもりなのだ。

 鎌足に、中大兄皇子を止めることなどできはしない。自分たちが、これまでにしてきたことなのだから。

 赤兄を使ったのは、鎌足のせめてもの警告か。 

「米麻呂」

 皇子が、おれの顔を覗き込んでいた。

「暇をやる。故郷に帰れ」

「何をおっしゃいます!」

「ここにいると、やっかいなことになりそうだ」

「わたしよりもまず、赤兄を遠ざけなさいませ」

 おれは、必死で言った。

「見え透いた罠にかかることはありません。何のために内臣が赤兄を」

「内臣?」

 皇子はゆっくり繰り返し、軽い笑い声をあげた。

「わたしを生み出したことが、あの男の最大の過ちだ」

 おれは、はっとして皇子を見つめた。

 皇子の瞳は澄んで明るく、いくらか皮肉げな光をやどしていた。

「そのことを、よくわからせてやらなければな」

 おれは、ようやくささやいた。

「どうなさるおつもりです?」

 楽しげとも思える声で皇子は言った。

「赤兄にまかせるさ」



                7



 十月の半ば、帝の一行は牟婁へと向かった。

 おれは、有馬皇子のもとを離れなかった。皇子のすることを、最後まで見届けるつもりだったのだ。

 赤兄は、ぴたりと姿を現さない。

 留守官としての仕事が忙しいとのことだが、密かに有馬皇子の様子を窺っているに違いなかった。

「またとない好機ですぞ、皇子」

 塩谷連が、身を乗り出した。

「この時を逃せば、後々悔やむことになりましょう」

「いや、いま少し待たれた方が良いかもしれん」

 守君大石や坂合部連は慎重だった。

「有馬皇子は、まだ十九です。成人なさるまで待った方が、人心も集まるというもの」

「中大兄皇子が入鹿を倒したのは、十八の時じゃ」

「その時は、孝徳帝が即位されております」

 皇子は何も言わなかった。

 塩谷連たちを、巻き込みたくなかったのだと思う。結局、そんなわけにはいかなかったのだが。

 いつもの年よりも早い初雪が降った夕、赤兄はふらりとやってきた。

 有馬皇子は戸を開けて、庭先にちらちら舞う雪を眺めていた。

「準備が整ったようだな」

 庭に目をやったまま、出し抜けに皇子が言った。

 赤兄は一瞬、気を呑まれたような顔をして立ち尽くした。しかし、すぐにまた、例の歪んだような笑いを浮かべ、皇子の前に座り直した。

「左様。今をおいて他に時はございません」

 皇子は、はじめて赤兄に顔を向けた。ちらりと、唇に苦笑が浮かんだ。

「今の政事には、過ちが数多くございます。数え上げれば、限りがなく──」

「数えなくともいいさ」

 皇子はからかうように言い、赤兄に顔を近づけた。

「兵を上げる。手伝ってくれるな」

 

 雪は、一度止んだが、夜半になってまた降りだした。大きな、地面にとどけばすぐに溶けてしまう雪だった。

 有馬皇子は、床に入りもせず、火にあたっていた。おれも、側にひかえていた。

 やがて、人声や馬のいななき、にわかに外が騒がしくなった。

 篝火が焚かれている。戸の隙間から、赤い光が滲み出してくる。

 赤兄の手の者が、邸のまわりを取り囲んでいるのだ。

「この天気に、ご苦労なことだ」

 皇子は冗談めかして言い、振り返っておれを見た。

「すまないな、米麻呂」

 おれはうなだれ、首を振った。

 皇子は、自分の運命を自分で定めたのだ。

 おれにできるのは、ただ着いて行くことだけだった。

 有馬皇子は捕えられ、帝たちのいる紀伊に送られることになった。

 牟婁の仮宮には、中大兄皇子と鎌足が待っていた。

 中大兄皇子は、青白い額に皺をよせ、庭に引き出された有馬皇子を一瞥した。つかつかと側に寄り、ささやいた。

「どうした。謀反はうまくいくとでも思ったか?」 

「さあ」

 ここまでの急ぎの旅でやつれてはいたが、落ちつきはらって有馬皇子は答えた。

「天と赤兄だけが知っていることでしょう」

 そして、中大兄皇子の背後に目を向けた。

 枝の垂れた松の木の側に、ひっそりと鎌足は立っていた。

 疲れ果てたような初老の男だ。そこには、おれがむかし山中で見た、輝かしさのかけらも残っていなかった。

 あのころの鎌足なら、自分の地位を擲ってでも有馬皇子を助けたかもしれないと思えるのは、おれの買い被りだろうか。 

 その昔、大それた夢を胸に大和へ上って来た青年は、首尾よくこの国を手に入れた。国に囚われたのは自分の方とは気付かずに。

 この国は、巨大でとらえどころのない魔のように、彼の意志など知らぬげに動きはじめている。さらに多くの血と、その上に築かれるにちがいない、より確かな秩序を得るために。

 鎌足は、目を潤ませて有馬皇子を見つめていた。

 有馬皇子は、うっすらと笑みを浮かべた。

 満足だったにちがいない。皇子はこの涙を得るために、自分の生命をかけたのだ。

 皇子の死後、どこかの歌人が皇子のためにと感傷的な歌を詠むことだろう。

 だが、皇子は、嬉々として死を選んだのだ。鎌足の胸に深々と、自己の存在を刻み付けて。

 鎌足は、死ぬまで皇子の影から逃げられまい。

 それが、皇子の復讐なのだから。


 海の見える藤白坂で、皇子は縊られた。

 坂合部連と守君は流罪ですんだが、塩谷連は同じ場所で斬首された。

 おれの処刑は、その後だった。

 ひざまずいたおれの目の端を、かすかに白いものが掠めて行った。

 おれは、空を振り仰いだ。

 蒼穹に染み入るように白い鳥だ。高く高く、飛び去って行く。

 あの鳥を、鎌足が見たかどうか、おれは知らない。

 おれの首は、その時、地面へと転がり落ちていたからだ。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ