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儚世の黙示録  作者: 嵯島スイ
【親友の絆 編】第一章
7/15

五頁目「災禍に飲まれ」

ついに本作の本編スタートです。ここまで長かった……

 珍しく、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ます。

 まだ枕に乗せたままの頭を横に動かすと、朝焼けの光に染められたレースカーテンが視界に入った。

 時計が指す時間は午前五時。学校へ行く準備をするのには早すぎる時間だ。

 二度寝しようかとも思ったけれど、目がすっかり覚めてしまったためそうもできない。


 とりあえず制服とカバンを持って一階のリビングに降りると、案の定、母はまだ起きていなかった。

 テレビをつけてみても、面白い番組はやっていない。


 (どうやって時間を潰そうかな……)


 数秒考えた末に、私は昨日、藍花ちゃんとメッセージアプリの連絡先を交換したのを思い出して、テーブルの上に置いたままだった自分のスマホを手に取った。


 まだ見慣れない緑色のアイコンに触れると、昨日の夕方に藍花ちゃんからメッセージが届いていることに気づく。

『今日は大丈夫だった?ゆっくり休んでね』という暖かい言葉がじんわりと胸に沁みて、私は改めて藍花ちゃんの優しさに感謝した。


「……あれ……陽代乃ちゃん、起きてたの……?」


「わわっ、お母さん!」


 不意に扉の隙間から現れたお母さんに、私は驚いてスマホを落としかける。

 普段はこんなに早く起きてこないのに。私が立てた物音で目が覚めたのだろうか。


 いつもより早く起きたからか、ぶわぁ、と派手にあくびをするお母さんはまだ眠そうだ。

 その上、リビングのテーブルの椅子に座ったかと思えば、開いているのか開いていないのか分からないような目でテーブルクロスの模様を見つめている。

 この様子だとすぐには体を動かせそうにないので、今日は私が朝食を作ることにした。


 まずは、冷蔵庫に入っていた昨日の残りの冷やご飯を電子レンジで温める。

 その間に棚からツナの水煮缶を取り出し、蓋を開けて黒胡椒と塩を好みの量だけ入れると、私は温まったご飯の上にそれを乗せた。


 さらにその上に溶けるチーズを一枚そのまま乗せ、コンソメスープをかければ洋風茶漬けの完成だ。

 野菜が入っていないため、栄養バランスがあまりよくないので、いつか野菜入りにアレンジしたいと思っている。


 お茶漬けが入った茶碗とかぶの浅漬けが乗った小皿を二人分用意し、テーブルの上に置くと、ようやくはっきりと目を覚ました母が目を輝かせてこちらに駆け寄ってきた。


「わぁ~!おいしそう!すごい!陽代乃ちゃんが料理上手なのは一体誰に似たのかなぁ……」


「そんなのお母さんに決まってるでしょー!」


 遠い目をしながらそんなことを言う母に苦笑しながら、私はお父さんの仏壇に朝食をお供えした。

 今日のお供え物は、余ったツナ缶の中身とご飯で作ったツナマヨおにぎりと、生前好きだったというたくあんと緑茶。

 線香をあげて手を合わせると、緑茶の爽やかな香りと線香独特の匂いが混ざり合って鼻をついた。


 もし、お父さんがまだ生きていて、私の作った朝食を見ていたら……食べていたら、どんな表情を見せてくれただろうか。


 感動して目を潤ませるか、嬉しそうに笑ってくれただろうか。

 幼いころの記憶がほとんどない私は、遺影の優しい微笑みしか知らない。

 つまり、私が知るお父さんの顔は笑顔しかないということになる。


 涙を流す姿も、怒って顔を顰める姿も、驚いて目を見開く姿も、知らない。

 継父だったあの男に捨てられてしまったせいで、写真にも、映像にも残っていない。


 立ちのぼる線香の煙から目を背けて、制服のスカートをぎゅっと握りしめる。


 私は、自分の父親について何も知らない。


 そのことがどうしようもなく悔しくて、虚しかった。




 ・*・*・*・




 いつも通りお母さんと雑談しながら朝食を食べ終えると、私はすぐに支度をして、いつもより早く家を出た。

 東の空に残る微かな朝焼けの跡がとても綺麗で、たまには早起きしてみるのもいいかな、なんて思う。


 押しボタン式の信号になっている狭い横断歩道を越えると、偶然、二匹のトイプードルと散歩している近所の酒井(さかい)さんと会った。


「おう、榊林さんとこの嬢ちゃんじゃないか!今日は学校かい?えらい早くから家を出るんだなぁ」


「酒井さん……!おはようございます」


 丸刈りにした頭を掻きながら、ガハハと豪快に笑うこの太ったおじさんは、町内にたくさん土地を持っている地主で農家さんだ。

 時々育てた野菜を分けてくれるので、生活面でよくお世話になっている。


「実は、今日は珍しく早く起きられたので、家を出る時間も早くしたんです」


「おお、そうかい。早起きは三文の徳って言うしな、これからも毎日早起きすると、何かいいことあるかもしれないな―――って、ココア!嬢ちゃんのスカートで遊ぶんじゃないよ、汚しちまうだろう?」


 そう言って酒井さんは慌ててリードを引き、ココアと呼ばれた濃い茶色の子犬を私の足元から遠ざけた。

 遊ぶものがなくなったのが不満なのか、小さな雌犬は悲しそうに鼻を鳴らしている。


「いいんですよ、酒井さん。……また遊んであげるから、大丈夫だよ」


 そう言って、丸くて小さな頭を優しく撫でてあげると、ココアは嬉しそうに尻尾を揺らして、薄い色をしたもう一匹のトイプードルの方へと歩いて行った。


「んじゃ、引き留めてすまんかったね。車や自転車に気をつけて行くんだよ」


「はい!ありがとうございます」


 公園の方へと向かう酒井さんを一礼して見送ると、私は横断歩道に背を向けて、遊歩道へと一歩を踏み出した。

 その後、時々空を眺めたり、野良猫を観察したりしながら通学路を歩いていると、学校の裏手にある公園の近くに見覚えのある人影を見つけた。


 高い位置で一つにまとめられた、長い薄茶の髪。高い身長に、ぴんと伸びた背筋。

 これほど優れた容姿で、尚且つ私が知っている人といえば―――……


「藍花、ちゃん?」


 思わず大きめの声で名前を呼んでしまうと、彼女は勢いよく振り向いて、驚いたように私の顔を見た。


「えっ……あれ、陽代乃ちゃん!?今日も学校に行くの!?体は大丈夫……?」


 慌て気味にそう問うてくる藍花ちゃんの顔は、心なしか少し青ざめているように見える。

 心配してくれるのはありがたいけれど、私は昨日よりずっと元気だ。


 目の下に隈があるし……むしろ藍花ちゃんの方が体調が悪そうだ。

 何かあったのか、と訊こうとしたけれど…………なんとなく、訊いてはいけないような、そんな気がして。


 不安そうに私の顔を覗き込む彼女に「全然大丈夫だよ」と一言返すだけにして、私は藍花ちゃんと一緒に校門へと向かった。




「藍花~っ!おはよう!」


 藍花ちゃんに、昨日帰宅してからの体調はどうだったか、などと質問攻めにあいながら校門を抜けると、昇降口の方から誰かがこちらに向かって走ってきた。


 下ろしたままの白く長い髪に、透き通った薄紫の瞳、光に透けそうなほど色素の薄い肌。

 この人間離れした神秘的な容姿を持つ少女は、もしかして―――……アルビノ、なのだろうか。


「もう、遅いよ!ずっと待っていたのに……って、あれ?鈴々(すず)……じゃない!誰?」


「あはは……おはよう、仁亜(にあ)。この子は転入生の榊林陽代乃ちゃん。仁亜は二組だから会ったことないよね」


「は、はじめまして……」


 興味深そうにじっと私を見つめている、仁亜と呼ばれた少女にとりあえず会釈をする。


 藍花ちゃんの腕にしがみつく彼女を改めてよく見てみると、単に色素が薄いだけでなく、顔立ちもかなり整っていた。

 雪のように白い睫毛は明らかに普通の人より長く、ぷっくりと膨らんだ桜色の唇からは、可愛らしさだけでなく艶めかしさも感じられる。


 まるで童話に出てくる妖精のように美しい姿に、私は思わず見惚(みと)れてしまう。

 ―――が、そんな私のふわふわした思考を一瞬で吹き飛ばしてしまうほど、このあと彼女が私に放った言葉は強烈なものだった。


「へぇ、あなたが噂の転入生なの?自己紹介中に緊張で倒れて、生死の境を彷徨ったっていう」


「えぇっ!!?」


 あまりにもに事実とかけ離れすぎている噂の内容に驚いて、私は思わず大声を上げてしまう。

 転入早々、私の噂が学校で流れているということも衝撃的だったが、何より「緊張で倒れて生死の境を彷徨った」という内容がおかしすぎる。


 (倒れたのは本当だけど、その理由は緊張じゃないし、まず緊張で倒れただけで生死の境を彷徨うなんてことはあり得るのかな……!?)


 どう反応していいか分からず、脳をぐるぐると回転させながらその場に立ち尽くしていると、藍花ちゃんがさっと彼女に返事をしてくれた。


「ちょ、ちょっと仁亜!?その噂は一体どこから……!?」


「さあ?知らない。それより……榊林さん、だったっけ。わたしは水川(みずかわ)仁亜。藍花の、し・ん・ゆ・う、です」


 鋭い目で私を睨みながら、とげとげしい口調でそう自己紹介した彼女――水川さんは、なぜかは分からないけれど、私のことをあまりよく思っていないように見える。

 

 戸惑いつつも、何か一言返事をしようと口を開くけれど、彼女は無言で私をひと睨みし、ふん、と鼻を鳴らして去っていってしまった。


「……あー……ごめんね、陽代乃ちゃん……あの子、プライドが高い上に、性格もちょっと気難しいから……」


 遠い目でそう呟く藍花ちゃんの顔は疲弊しきっていて、彼女がどれほど水川さんに振り回されているかが手に取るように分かる。

 私自身、先刻の水川さんの態度に混乱して既に少し疲れているし、普段ずっと笑顔でいる藍花ちゃんがこんな顔をするのも頷けるような気がした。


 でも……なぜかは分からないけど、水川さんは、本当に悪い子ではないような気がする。

 もし本当に性格が悪くて面倒な子なら、恐らく水川さんは、あそこで私に悪口を言っていたと思う。


「……ああ見えて、根は悪い子じゃないんだよ。たぶん、見てすぐわかったと思うんだけど……あの子、アルビノでしょ?そのせいで小学生の頃いじめられてて、それからは誰にでも毅然とした態度をとるようになったんだよ」


 先程とは打って変わって、藍花ちゃんは寂しそうな表情でそう言葉を続けた。


 (ああ、やっぱり……。)


 彼女の言葉に含まれていた「いじめ」の三文字に、私の胸はずきりと痛んだ。


 私は実際にいじめを受けたことはないけれど、小学生の頃、同じクラスの女の子がいじめを受けているのは見たことがある。

 服装が地味で周りの女子と合わないせいか、汚いだの、気持ち悪いだのとみんなに罵られていたのを今でも覚えている。


 でも、そのいじめが続いたのはほんの数日だけで、千世ちゃんが『自分と違うから、なんていうくだらない理由で人をいじめるなんて馬鹿みたい!人間なんて、みんなそれぞれ個性があって、趣味も性格も違うのが当たり前でしょ!!』と一喝した結果、いじめはぴたりと止んだ。

 普段の優しい千世ちゃんからは想像もつかない、激しく(いきどお)る姿にきっとみんな畏怖したんだろう。


 けれど、みんなの前に立ちはだかって堂々といじめを止めるという勇気ある行動に、私はとても感動した覚えがある。

 それに、また私の親友が、人を一人救ったということが誇らしくもあった。


 これで、このクラスはまた平和を取り戻せた。

 私も、千世ちゃんも……そう、思っていたのに。


 ――――――いじめがなくなったにも関わらず、その子は結局学校に来なくなってしまった。

 たった数日の間だけだったけれど、彼女が心に負った傷は相当大きなものだったらしく、療養のために遠くへ引っ越していったと風の噂に聞いた。


 あの子がそこまで酷く傷つく程の、もしくはそれ以上の苦痛を、きっと水川さんも味わったのだろう。

 それでも、いじめてくる人間に屈さず、他人に危害を加えられないように自分を変えて、今も生きている彼女は本当にすごい。

 この世界に生まれて生きていく以上、向き合わなければいけない現実や乗り越えなければいけない困難があるのは当たり前だ。


 でも、私たち人間に降りかかる災難は、とても理不尽で耐えがたい苦痛を伴うものが多い。

 だから、乗り越えようにも乗り越えられず、苦しんだ末に私や千世ちゃんのように心に傷を負ってしまう人はたくさんいる。

 その結果、精神に何らかの異常が起きたり、体を壊したりすることは私もあったけれど、

 水川さんは、そうならなかったのだ。


 心が弱くなるどころか強くなっているし、自分で自分を守ろうとすることもできている。ただ、少し過剰防衛なところがあるかな、とは思うけれど。

 傷に傷をつけ重ねて、弱くなっていった私とは全然違う。


 でも、水川さんがそこまで強くなった背景には、いじめという悲しい過去があって。

 何かを得るには、何かを失うか、対価を払うか、傷を負うしかない。

 私も、千世ちゃんを助けるために大きな対価を払った。

 それと同じように、水川さんは強くなるために努力していじめを乗り越え、心に傷を負った。

 何をするにも対価が必要で、理不尽に傷つくことを避けられないこの世界は本当に残酷だ。


「―――ひどいね……」


 本当に、ひどい。誰かをいじめる人間も、そういう人間を野放しにしておく周りの人間も、そういう人間を生み出したこの世界も。


 沈黙に溶かすように、独り言を零すように。

 小さな声で一言呟くと、藍花ちゃんは何も言わず、切なげな表情で頷いた。


「……そろそろ行こうか、千世ちゃんに会えるかもしれないし」


「あ……!そう、だね……」


 藍花ちゃんの言葉で千世ちゃんの存在を思い出し、また心に影が差してくる。


 昨日、目を合わせただけで怯えられたのに。

 再び会った時には一体どんな反応をされるか分からず、会うのが少し怖い。

 いや、事故で記憶障害になってしまったと先生が説明していたから、もしかしたら私のことなんて覚えていないかもしれないけれど。


 どうするべきかと考えあぐねている間に、いつの間にか私と藍花ちゃんは教室に着いてしまっていた。


 落ち込んでいる様子だった私の心情を察してか、彼女は終始、私に話しかけてこなかった。

 そのせいか、昇降口から教室に行くまでの時間があっという間だったように感じる。

 ずっとお互い黙っていたので、なんとなく気まずくて話しかけるのも教室に入るのもできそうにない。


 教室の引き戸に手を掛けようとして、引っ込めて、隣に立つ藍花ちゃんに話しかけようと横を向いて、やっぱり俯いて……と、私が挙動不審でいると、不意に藍花ちゃんが私の方に向き直った。


「陽代乃ちゃん……大丈夫?」


「え……?」


「その……わたしの勘違いだったら申し訳ないんだけど、陽代乃ちゃん、千世ちゃんと会うのが怖いんだよね?」


「……! それは……どう、して……」


「えっ?いや……なんとなく、昨日の千世ちゃんの様子と、さっきの陽代乃ちゃんの反応からそう推測したんだけど……もしかして、当たりだった?」


 動揺を隠すことも忘れて、その言葉にこくこくと頷くと、彼女は困ったように「やっぱりそうかぁ~……」と苦笑した。


「あのね、陽代乃ちゃん。大体の悩みって、自分が思っているよりも簡単なことだったりするんだよ。解決させる方法が既にあるのに、それに気が付かなくてうだうだ悩み続けちゃうことだってあるんだから」


「藍花ちゃん……」


「怖いよね、自分のせいでまた千世ちゃんを怯えさせてしまったらって、どうしても思っちゃうよね」


「!」


 また、藍花ちゃんが完璧に私の心を読んでくる。

 本当に、この人はどこまで深く私のことを理解しているのだろうか。


 藍花ちゃんと一緒にいると、まるでずっと昔から傍にいた人のような、不思議な安心感を覚える。

 おかしいな。藍花ちゃんとは、会って間もないはずなのに。


 再び動揺する私をよそに、彼女はすらすらと次の言葉を紡いでいく。


「でも、起きてもないことで悩み続けるのって、なんだかすごく馬鹿らしく思えてこない?解決策がどこかにあるなら、尚更そうだと思うの。だから、悩むだけじゃなくて、解決させるためにはどうすればいいかとか、とにかく前向きな方向に考えてみよう?難しいかもしれないけど、見方を変えるだけでも何かがいい方向に向かうかもしれないし」


 そう言って、藍花ちゃんは私に優しく微笑みかけた。


『大抵の悩みは、陽代乃が思うよりも簡単なことだから!そんなに難しく考えなくてもいいんだよ』


 千世ちゃんの優しい声と言葉が、また私の頭の中でなめらかに再生される。

 そういえば、昔、千世ちゃんに同じようなことを言われたことがある。


 確か、あの時は――――――………………






 ――――――あれ?


 違う。これは、これは、()()()()()()()()


 おかしい。何かが、おかしい。


 脳裏に映し出される映像型の記憶には、確かに私と千世ちゃんの姿がある。

 けれど、小学生の時の私と千世ちゃんの背は、こんなに高かっただろうか?


 何より、着ているのが私服ではなく制服だ。もちろん、この学校のセーラー服ではなく、全く見覚えのないデザインのブレザーを着ている。


 この記憶は、いったい―――……



「……ちゃん、陽代乃ちゃん!」


「っ!?」


 唐突に藍花ちゃんに肩を叩かれ、はっと我に返る。

 あと少しで、何か思い出せそうだったのに。

 あの不思議な記憶はもう見ることはできず、現実世界の光景によって泡沫の如く掻き消されてしまった。


「大丈夫?ごめんね、なんかわたしが偉そうなこと言っちゃったから、気分悪くさせちゃったかな……?」


「えっ!?そ、そんなことないよ!色々助言してくれてありがとね、とりあえず、もう教室入ろうか……?」


 長い間ドアの前で喋っている私たちを、教室に入ろうとしている生徒たちがずっと迷惑そうに見ている。

 本当はまだ心の準備ができていないけれど、藍花ちゃんの言う通り、起きてもないことで悩み続けるのは確かに無駄なことだと思う。

 悩んでも答えが出ないまま、ただ時間だけが過ぎていくなら、いっそ行動してしまった方が早いような気がする。


「あ……そうだね、ここだと邪魔になっちゃうし……」


 ようやく周りの人から向けられる辛辣な視線に気づいたのか、藍花ちゃんは焦ったように扉を開けて、私と一緒に教室に入ってくれた。


 やはり、藍花ちゃんの様子がおかしい。

 昨日も突然苦しそうな表情になったりと情緒不安定なようだったし、何か嫌なことでもあったのかもしれない。


 できることなら何があったのか聞いてあげたいところだけど、会って間もない私に気軽に悩みを打ち明けてくれるとは思わないし、少し表情に影を滲ませながらも明るく笑う藍花ちゃんからは、『気にしないで』といったふうの意思が感じられる。


 だから、心配する気持ちは山々だけど、とりあえず私はそばで彼女を見守ることにした。

 慌て気味に自分の席へと向かう藍花ちゃんを見送ると、私も窓際の席に向かって歩を進める。


 千世ちゃんがもう登校していた場合は、間違っても目を合わせたり姿を見たりしないように、気をつけて席へと向かった―――はずだったのに。



「わっ……!」


 突如、視界の隅を黒い何かが横切り、肩に強い衝撃が走る。

 何事かと思って振り向くと、そこには……


 ―――制服の上にグレーのカーディガンを羽織った、怯えた様子の千世ちゃんがいた。


 目を合わせないと、なるべく視界に入らないと決めたはずなのに。

 教室の後ろで、私と千世ちゃんは見つめ合ったまま静止してしまっていた。


 呼吸が揺らぐ。時が止まる。世界から、音が消える。

 動揺にも感動にも似た奇妙な感情と共に、全ての感覚が緩やかに狂わされていく。


 どうしてこの学校にいるの?

 私のこと、憶えてる?

 体は大丈夫?


 ずっと尋ねたかったことが次々と頭に浮かんで、思わず口を衝いて出そうになる。


 もう一度、声が聞きたい。言葉を交わしたい。


 あの頃からずっと願っていたことが、今この瞬間、いとも容易く叶ってしまいそうで胸が高鳴る。

 けれど、荒ぶる情動に任せてすべての想いを溢してしまう前に、千世ちゃんがぱっと口を開いた。


「ご、ごめんなさいっ!!」


 僅かに恐怖と焦燥が滲んでいるけれど、あの頃とさほど変わらない、懐かしい声が鼓膜を揺らす。

 私を救う言葉をたくさんくれた時と同じ、優しくて、柔らかで、あたたかく澄んだ声。


 やっと、やっと聞くことができた。生きたまま、自分の耳で。

 何か言わなきゃと思うのに、歓喜のあまり言葉が出ない。

 唯一、涙を堪えることだけがうまくいったまま、私は無言でその場に立ち尽くしていた。


「あ、あの、気分を悪く、させちゃったなら、本当にっ、申し訳ないです……!じゃ、じゃあわたしはこれでっ……!」


「え!?いや、大丈夫、だから……!」


 もう少し、会話をしていたかったのに。

 ようやく言葉を発することができた頃には、千世ちゃんはしどろもどろになりながら謝罪を述べて、自分の席へと走って行ってしまった。


 もう、昔のように話すことは叶わないのかもしれない。


 自分が大切なものを失ってしまったことを痛感して、私はまた、胸が苦しくなった。

最後まで読んでいただき、ありがとうござiます。

登場シーンは少なかったですが、今回はまた新キャラが出てきましたね。

仁亜ちゃんはたぶんはかなよで二番目くらいに癖の強いキャラクターですが、笑顔で見守っていただけると嬉しいです。

ぜひ次の話もよろしくお願いします。

次回からは藍花と陽菜が活躍する予定です。

(ちなみに、今回本編に出てきた洋風茶漬けはオリジナルレシピです。チーズとツナって合うんですよ!)

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