二頁目「春先の出会い」
ついに新キャラ登場です。
「え……なんで―――……!?」
名簿に千世ちゃんの名前があることに気付き、驚いた私は思わず後ずさる。
同姓同名の別人なのではないか、という考えも脳裏を過ぎった。
けれど、「千世」という名前は響きこそありきたりなものの、漢字で書くとなると話は別だ。
苗字も学年も千世ちゃんと同じだなんて、あまりにも千世ちゃんとの共通点が多すぎて、とても偶然とは思えない。
でも、私の知る限りでは、千世ちゃんは別の公立中学校に進学する予定だったはずだ。
よほどのの奇跡や何かが起きない限り、こんなところに千世ちゃんがいることは不可能だと思う。
少し考えこみつつ、とりあえず母の元へ行ってこのことを伝えようと、振り向いて駆けだした瞬間―――
どん、と音を立てて、身体が傾く。
周りを見ていなかったせいで、後ろにいた知らない女生徒と思い切りぶつかってしまった。
気付いた瞬間、静かに顔から血の気が引いていく。
(し、しまった……!)
何か一つのことに集中すると、ほかの人や物が目に入らなくなるのは私の悪い癖だ。
いい加減、しっかり周りを見るようにしなくては。
「あっ……!ご、ごめんなさいっ……!!」
「―――っ!?あ……!」
焦りながらも私は一言謝罪を述べると、ぶつかった少女が私を引き留めようとしているのにも気づかずに、すぐその場を立ち去ってしまった。
この時はまだ知る由もなかった。
――――――私とぶつかったこの少女が、これからの人生に何をもたらすのかを。
・*・*・*・
「お母さんっ!!」
「あ、陽代乃ちゃん!遅かったね、クラス何組だった?」
「三組だった!っていうか、それよりすごいことがあって!……っ」
千世ちゃんの名前を見つけたことを、早速母に伝えようとして―――口を噤む。
あの日のことは、私だけではなく母にとっても大きなトラウマになっている。
理由があったとはいえ、自分の娘が友達を交通事故に遭わせてしまったという事実に変わりはないのだから。
わざわざ千世ちゃんとは別の中学校に進学することにして、やっと母の表情も穏やかになってきたのに。
当事者である私よりひどくはなくとも、心の傷になっていることを思い出させるのはよくない。
「陽代乃ちゃん?」
「……ううん、やっぱり何でもない!早く受付済ませよう!」
私は笑ってそう言うと、まだ心配そうな目をしている母の腕を引っ張り、半ば無理矢理に昇降口へと連れて行った。
昇降口まで向かう間、私はまだ先程のことについて考えていた。
―――もし、名簿に載っていた人物が本当に千世ちゃんだったら?
でも、仮にそうだとしても、会って何になるのだろう。
会ったところで、千世ちゃんは私のことを憶えていないのに。
私は、千世ちゃんの記憶から私の存在を消す代わりに、あの少女の姿をした悪魔に千世ちゃんの命を救ってもらったんだから。
当時は意識が朦朧としていたはずなのに、なぜかあの時のことは今でも鮮明に思い出せる。
忘れもしない、あの寒い寒い雪の日のこと―――……
・*・*・*・
「…………くを、……ょ……うに…………こ、……ら……―――おっと、声が届いていないようだな。仕方ない、体力の回復と……そこの血に塗れた少女には軽い延命処置でもしてやるか……いや、時間を止めた方が早いな」
悪魔を名乗る銀髪の少女が、ぼそぼそと何かを呟きながらパチンと指を鳴らすと、ぼやけていた視界が一気に鮮明になり、彼女―――悪魔の声もはっきり聞こえるようになった。
これは夢か、幻か。
昔、演劇か何かで聞いたセリフが、唐突に私の頭を過る。
普通の人が私と同じ状況に陥ったら、きっとこの言葉と同じような一文が脳裏に浮かび、動揺のあまり言葉一つ発せなくなると思う。私も実際にそうなりかけた。
でも、こうやって私が地面に横たわっている間にも、千世ちゃんの命は削られていっている。
(だから、私には呆けている暇なんてない……!)
私が今できることは、今すべきことは……千世ちゃんの命を救うこと。
けれど、それは私の持つ力だけでなんとかできる問題じゃない。
恐らく、今、私の目の前にいる悪魔の力を以てすれば可能なのかもしれないけれど―――残念ながら、突然目の前に現れたこの不思議な存在の言うことを、素直に信用できるほど私の猜疑心は弱くない。
だけど、実際にこの悪魔の力によって、私の体力が少し回復したのは事実だ。
そのことから考えてみると、彼女の言葉にも多少の信憑性が生まれてくる。
少しでも信じられる要素があるのなら……私は、彼女のことを信じてみたい。
千世ちゃんを助けるには、きっともう、悪魔の力を借りるしかないと思うから。
この悪魔が嘘を言っている可能性が九十九パーセントだったとしても、私は残された一パーセントに賭ける。
最初から全部嘘だと決めつけて、残された可能性を捨てたくはない。
『人を信じることって難しいし、信じても裏切られることがあるなんてあんまりだよね。でも、信じて裏切られることは損ってわけじゃないんだよ。何度も信じて、何度も裏切られて、何を信じると裏切られるのか学んで、そうして人は本物の「信じる」という力を得ることができるんじゃないかな』
人を信じることができなくなって、自暴自棄になっていた私に千世ちゃんがくれた言葉。
あの時の千世ちゃんは、まるで数多の試練を乗り越えてきた仙人のように大人びた表情をしていたのを、今でもはっきりと覚えている。
この言葉は、私の心に最も響いた言葉のうちのひとつ。
だから、私は信じてみる。この悪魔のことを。
ありえない、もう手遅れだ……などと、既に諦念が渦巻き始めている心の中で、彼女なら千世ちゃんを救えるかもしれない、奇跡を起こせるかもしれないと本能が叫んでいる。
私はいつも千世ちゃんに助けてもらうばかりで何もできなかった。
だから、今ここですべての恩を返すんだ――!
私は地面から上体を起こすと、意を決して悪魔に話しかけた。
「っあの!!助けるって……本当ですか!!?どうすればいいんですか!?げほっ、ごほっ……」
ずっと黙っていたのにいきなり声を出したので、乾燥した冬の空気に咽せてしまった。
時間が止まっているからか、雪の粒が目や口に入ることはない。
けれど、大事なことを話してるのに、途中で咳が出るのは煩わしい。
涙目で咳払いをしながら悪魔の表情を伺うと、彼女は呆れたようにため息をついてから口を開いた。
「少し落ち着け。そう焦らずともこの少女の命は絶対に助かる。命だけはな。
――――――ただし、条件がある。人の命を救うというのは、我ら×××の力を大量に消費する行為なのだ。まあ、相応の対価を払えば消費を防ぐことができるのだが」
「……?」
彼女の言葉の一部が、何かノイズのような音に搔き消されて聞き取れなくなっている。
どうしてだろう。もしかしたら、日本語ではなのかもしれない。
首を傾げていると、悪魔はふっと微笑を浮かべてこう言った。
「まあ、その言葉はいずれ聞き取れるようになる時が来るだろう。問題は対価についてだ。―――この少女の命を救うには、この者の中にあるお前に関する記憶全てが必要だ」
「え……?それって……」
「対価を払えば、こいつは、お前のことを綺麗さっぱり忘れてしまう」
どくり……と心臓が大きく跳ねる。
千世ちゃんが、私のことを忘れてしまう。
そんなの、絶対に嫌だ。
やはり、悪魔の力なんて借りない方がいいのではと、固めたはずの決意にひびが走る。
―――でも、やっぱりこれくらいの対価を払って当然なのかもしれないと、納得している自分がどこかにいて。
「どうした?やはりお前にとってのその少女の価値は、共に作り上げてきた思い出以下のものなのか?」
覚悟を決められない私を煽るように、悪魔が薄笑いを浮かべながらそう言う。
(違う、違う!私にとっての千世ちゃんは、そんなに価値のない人物じゃない!
自分の命を懸けてでも守り助けたい、大切な人―――……)
「なら、それが答えだ」
そう言いながら、悪魔はふっと不気味に微笑んだ。
不意に、彼女の背中に生えた真っ黒な天使の翼が、強い銀色の光を放つ。
あまりの眩しさに耐えられず目を瞑り、光が止んだ頃に目を開くと―――
「な……何、これ……?」
私の視界に、何か文字が書かれた黒色の紙が浮かんでいた。
「それは契約書だ。『私はあなたに正当な対価を払い、あなたの力を借りて己の願いを叶えます。また、契約を破りあなたの存在を第三者に口外した際には、命を持ってその罪を償うことを誓います。』と、その場に跪いて唱えれば、契約書は受理され―――……お前の願いは、必ず叶う」
「!」
「どうする?今ならまだ取り消せるぞ」
悪魔の言葉を聞いて、再び私の決意が揺らぐ。
正直、とても怖い。
こんな簡単に人の命を救ったり、記憶を奪うと言っている存在が目の前にいることも、ここで私が契約をやめて、千世ちゃんが死んでしまうことも。
もし、契約をしなくても千世ちゃんが助かったら?
―――いや、今はこの悪魔のおかげで、千世ちゃんはなんとか命を取り留めている。
私がここで契約を取りやめて救急車を呼んだとしても、救急車が到着するまでに、きっと千世ちゃんは死んでしまう。
『陽代乃は笑ってる方が可愛いよ!ずーっと暗い顔してうつむいてたら幸せが逃げちゃう!ほら、一緒に笑おう!』
『どれだけ間違えても失敗してもいいから、とりあえず挑戦してみよう!何度も挑戦して失敗して、その失敗の数だけ何かを学んでいけたら、きっと陽代乃は強くなれるよ!』
『うまくいかない可能性がどんなに高くても、まずは悪い未来じゃなくて良い未来を想像しよう!そこで思い浮かべた良い未来に向かうために、いっぱい頑張って「うまくいかない」を「うまくいく」に変えることができたら、すっごく素敵な人生を歩めると思わない?』
ああ、千世ちゃんがくれた言葉が、思い出が、次々と脳裏に浮かぶ。
ここで千世ちゃんが死んでしまったら、もう一緒に思い出を作っていけなくなる。
満月のように暖かくて優しい微笑みを、私に向けてくれることも。
声を聞くことすらも、叶わなくなる。
でも、契約をすれば千世ちゃんの中の私に関する記憶は全てなくなってしまう。
それに、私を忘れた千世ちゃんが、再び私と親友になってくれるとは限らない。
どちらを選んでも、結果は同じなのだ。
ならば私がここで悪魔と契約をして、本来ここで死んでしまうはずだった千世ちゃんが、これからもこの世界で生きていけるのなら―――……私にとって、それ以上の幸福はない。
その時、私が千世ちゃんの隣にいられなくても。
「その表情は……どうやら覚悟を決めたようだな」
「……はい。記憶でも何でも差し出すから、どうか……千世ちゃんを、助けてください……」
緊張と不安で、声も体も震えてしまう。
それでも、私は真っ直ぐに悪魔の目を見て、彼女に望みを告げた。
「ふっ……さすが××××の××××だ。強い心を持っているんだな―――……」
「……?」
また、彼女の話す言葉の一部に聞き取れない部分がある。
外国語のように発音が独特で聞き取れないわけではなく、言葉そのものがノイズのような音に変化してしまっているような……そんな奇妙な感覚だった。
不思議に思っていると、突如として、悪魔が大きく指を鳴らした。
すると、私の片膝が勝手に地面につき、口も勝手に言葉を紡ぎ始めた。
体が、動かない。石になってしまったかのように、指ひとつ動かせない。
千世ちゃんが助かることに対する喜びでいっぱいだった胸が、急速に恐怖と不安で満ちていく。
「私はあなたに正当な対価を払い、あなたの力を借りて己の願いを叶えます。また、契約を破りあなたの存在を第三者に口外した際には、命を持ってその罪を償うことを誓います。」
唱え終えた瞬間、黒い契約書が銀色の小さな丸い光に変貌した。
悪魔はそれを片手に持って私に近付き、私の右の頬に手を添える。
(一体、何をされるの……?)
悪魔の意図が全く読めず、ただ恐怖に震えるしかできないのが苦しい。
目を閉じようとしたが閉じられず、怯えながらも仕方なくそのままじっとしていると……
―――……右目の視界に、繊細な装飾が施された銀色の十字架が浮かび、消える。
ようやく身体が自由になり、さっそく右目に触れてみるけれど、特に変化はない。
戸惑って悪魔の方を見やると、彼女は薄く笑っていた。
「それは契約印だ。我以外の者には見えんが、常にお前の右目に刻まれている。我のことを誰かに話そうと思えばこの契約印が視界に浮かび、実際に話してしまえば、契約印が発熱してお前の体を蝕むだろう。死にたくなければ、我の存在は決して他人に口外するでないぞ」
有無を言わせぬ厳しい声色で悪魔にそう言われ、私は震えながらも必死に頷く。
すると彼女は表情を緩め、またあの薄い笑みを浮かべながら、今度は千世ちゃんの方に近づいた。
「では……救うとするか、この少女を」
「あ……!」
悪魔が魔法らしきものを使って千世ちゃんを宙に浮かび上がらせた―――かと思った瞬間、彼女の手のひらから銀色の光が現れ、傷だらけの千世ちゃんを優しく包み込んだ。
ついに、記憶を消されるのだろうか。
その代わり千世ちゃんは助かるのだけれど、それでもやっぱり複雑な気持ちになってしまう。
しかし、彼女の口から発せられたのは、思いも寄らぬ言葉だった。
「――少し、時空を操作する」
「え?」
全く理解が追い付かずその場で硬直していると、急に周りの景色が大きく揺らぐ。
強い風が吹き、太陽が揺らぎ、一瞬視界が真っ暗になったかと思うと、何故か私は病院の一室に立っていた。
しかも、部屋のベッドには包帯だらけの千世ちゃんが横たわっている。
「ここは……」
「市民病院だ。もうそろそろお前とこの少女の親が来るだろうし、我はお暇するよ」
「え、あの、記憶は……?」
「もう消えている。―――用は済んだ。じゃあな」
「あっ……!」
言いたいことだけ言って、悪魔はどこかへ消えてしまった。
まだ訊きたいことがたくさんあったのに。なんだか、私に質問されることを拒んでいるみたいだった。
少し残念だったけれど、今は千世ちゃんのことを考えようと、私は置いてある丸椅子に腰掛ける。
心電図計の音と呼吸音だけが響く病室は、ひどく静かで物寂しい。
千世ちゃんの命が助かっていると言うことは、記憶はもう消えてしまっているんだと思う。
次に彼女が目覚める時には、もう私のことを憶えていないのだと思うと……どうしようもない寂寥感が、胸にどっと押し寄せてくる。
そんな寂しさを紛らわすように、私は怪我をしていない方の千世ちゃんの手をとって、優しく握った。
手首にそっと指を当ててみると、弱々しくもちゃんと脈を打っている。
それがどうしようもなく嬉しくて、安心して―――……私はそのまま、母と千世ちゃんの両親が来るまで眠っていたのだった。
・*・*・*・
「三組の教室は北校舎です。保護者の方は体育館でお待ちください」
受付の先生の声で我に返る。
いつの間にか、私と母は昇降口に着いていた。
久しぶりにあの時のことを思い出したからか、なんだか気分が重たくなってしまった。
これから入学式に教科書の配布など、やることがたくさんあるので、私は気を引き締めるために軽く両の頬を叩く。
「じゃあ、お母さんは体育館に行ってくるね」
「あ、うん!行ってらっしゃい!」
遠ざかっていく母の後ろ姿を笑顔で見送ると、私は真新しい制服のスカートを翻して、早足で三組の教室へと向かう。
長い廊下を歩きながら、私はまた、名簿に載っている千世ちゃんと思しき人物のことを考えていた。
教室で千世ちゃんに会えるかもしれないという期待と、もし同姓同名の別人だったらという不安が、私の中で激しくぶつかり合う。
早足で歩いていたはずなのに、いつの間にか歩くスピードが遅くなって。
どうしようもない気持ちに押しつぶされて、ついには足が止まってしまった。
『ずっと同じ場所で立ち止まってても何も変わらないよ!最初は一歩でもいいから、勇気出して前に出てみよう?時間はかかるかもしれないけど、その一歩を積み重ねていくうちに、気楽に前に進めるようになるはずだから!』
千世ちゃんがくれた言葉のひとつが、またぽつりと脳裏に浮かぶ。
いつだって私の背中を押して、前に進ませてくれた千世ちゃん。
(せっかく前に進む勇気をもらったのに、また立ち止まっちゃったって知ったら、残念がるだろうな……)
親友にたくさん手助けしてもらっても、自分を変えることができないのが情けない。
早く行かなきゃ、でも怖い、行かなきゃ、怖い……と、自分の気持ちと葛藤しながら、人の少ない廊下を歩き回っていたその時。
「あ、さっきの!」
涼やかで凛とした、それでいて可愛らしさもあるような、透明感のある綺麗な声が……不意に背後から聞こえてきた。
思わず振り返ると、高身長で顔立ちの整ったポニーテールの少女が、笑顔で私のことを見つめている。
窓から差し込む朝日に照らされて、長い茶色の髪がきらめく。
早歩きで私に近づいてくる彼女の姿に、私は何故か、
―――――強い既視感と、言葉にできない僅かな恐怖を覚えるのだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回出てきた新しい人物は、これからどんどん活躍する予定です!