第五話 日常。崩壊へと続く一幕
国の中央、並び立つビル群の中でも一際巨大な、天にも届かんばかりの巨大な白亜の建築物。その最上階の一室に永琳と月夜見、そしてニット帽と襟巻きで顔を隠した『彼』は呼び出されていた。
赤青服の永琳は柳眉を逆立てて腕を組み。
白衣の月夜見は困ったように愛想笑いを浮かべて。
着流しの『彼』は壁に背を預けて事態を静観していた。
三人の前には、子供が十人は楽に寝転ぶ事が出来そうな楕円形の長机があり、身なりのいい数名の老若男女が席についている。彼らは苦虫を噛み潰したようなしかめ面で、調度品に彩られた室内とは対照的に暗い雰囲気を醸し出している者が多い。
「それで? わざわざ月夜見を寄越してこんな場所に呼び出して、一体何の用があると言うのかしら?」
沈黙が支配する重苦しい空気の中、明らかに不機嫌そうな声で永琳が口火を切った。撒き散らされた静かな怒りの余波を受けて、名を呼ばれた月夜見がビクリと肩を竦ませる。
無理もねぇな、と『彼』は月夜見に同情する。
正直、今の永琳にはあまり近づきたくない。
自分も気圧されるほどの――擬音で表現するならば『ズゴゴゴゴッ!!』とかそんな感じのべらぼうに凶悪な気迫を彼女は放っているのだ。口元に浮かぶ笑みのせいで怖さが増していて、構図としては、蛇に睨まれた蛙の群れと言い表すのが相応しい光景だった。
「……理由なら、貴女様が一番良くご存じでしょう、永琳様?」
最奥の席に陣取る口髭を蓄えた初老の男――佇まいからしておそらく座っている連中のまとめ役――が、ちらりと『彼』を一瞥してから永琳に問い返す。額に汗が浮かんでいるが、それでも魔王モードの永琳に対して厳粛な口調を崩したりはしない。自分のような化生の存在の前で失態を晒すまいとする自尊心のなせる業か。
「半月前に大妖の森に派遣した部隊の役目。それは観測した特殊な妖気の発生源を突き止め、調査・観察の後に討伐し、その死体を持ち帰る事。相違ありませんね?」
「そうね」
永琳が頷く。
「私が提案したのだから間違いないわ。討伐云々に関しては貴方達の独断だから知った事じゃないけど」
「ならば何故! 調査対象が、死体になっているはずの妖怪が! どうしてよりにもよって貴女様の研究所で暢気に繕い物などしていたのですか!?」
「仕方ないじゃない。彼、洋服は着慣れないって言うし、この国じゃ着流しを売っている店なんてほとんど見掛けないんだから」
――いや、そういうこっちゃねぇだろ。
壁に寄り掛かったまま『彼』は他人事のように心中で突っ込んだ。
双方ともに言っている事は紛れもない事実なのだが、永琳の返答の方向やら何やらが色々と間違っている。
しかし、自分を殺して死体を持ち帰るつもりだったとは驚いた。道理で兵士共が殺気立った目で睨み付けてきた訳だ。
まあ、仮に殺されそうになっても逃げ遂せる自信があるが。
「そういう事を言っているのではありません……」
はるか斜め上を行く賢者の言葉に毒気を抜かれた口髭の男が、奇しくも『彼』が思ったものと同じ意味合いの台詞を口にする。
「妖怪が国内を我が物顔で闊歩するなど言語道断。ましてや貴女様はこの国の象徴となられるべき御方、民に知れ渡った後では遅いのですよ? そこに居る妖怪を即刻排除する事を命じます!」
「イヤよ」
男の熱弁など何処吹く風、一瞬の躊躇いもない即答である。
役職的には口髭の男が永琳よりも上のように思えるのだが、一体どういう上下関係なのだろうか。
「ハァァ……お姉様カッコイイです……」
あまりにも堂々と拒絶の意を示した永琳。
そんな彼女を、それまで怯えていた月夜見がキラッキラと輝く尊敬の眼差しで見つめている。この少女も少女で、眼前に座る連中など意にも介していないようだった。
「彼は私の研究に善意で協力してくれているの。だったら、こちらもそれ相応の誠意をもって応じて然るべきでしょう? たとえ妖怪でも意思疎通を行えるのなら平和的交渉をするに越した事はないわ。それともなぁに? 他種族なら言葉を話そうが協力を申し出てくれようが、問答無用で殺してしまっても構わないと言うの? 粗暴で野蛮で自分勝手極まりない考えね。貴方、友達少ないでしょ」
「キレーな笑顔で傷抉る事言うねぇこの人も……」
その微かな独り言が耳に届いたのか、月夜見がテコテコと『彼』に歩み寄り、小声で、
「……起きてたんですか?」
「最初から寝ちゃあいねぇよ。暇ではあるけどな」
既にこの場は永琳の一人舞台と化している。
勝負にすらなっていない口論など退屈なだけだ。
「嬢ちゃん、永琳サンってどんな人なんだ? 俺やあの座ってる馬鹿共とは比べ物にならない位ものすっごく頭が良いって事は分かるんだが、それ以外はサッパリでね」
退屈しのぎに、興味本位で『彼』は問うた。
嬢ちゃんじゃなくて月夜見ですよぅ、と彼女は口を尖らせてから、
「……頭が良い、なんてレベルはとうに超えてます。特に薬学の分野では私を含めたこの国の研究者全員が束になっても敵う事はないでしょう。従ってお姉様は今現在、神族を除けばこの星で最高の頭脳を誇っているという事になるんです」
……この星最高と来ましたか。
つーか星って。
規模が大きすぎて実感が湧かないのだが。
永琳を見やれば、彼女は仁王立ちして何事か指図している。
お姉様じゃなくて女王様である。賢者じゃなくて女帝である。
「……そう言やぁ、永琳サンも『程度の能力』ってのを持ってるとか言ってたような」
「『あらゆる薬を作る程度の能力』ですか? お姉様は由緒正しい薬師の一族である八意家の正当な後継者で、生まれながらに能力を発現していた神童だったと聞いています」
「文字通りの天才って訳か。羨ましい事で」
茶化す『彼』だが、でも、と月夜見は躊躇いがちに続ける。
「たまに、なんですけどね? 天才と呼ばれたり、画期的な薬の精製法を学会で評価されたりしている時のお姉様は何処か……つまらなさそうと言うか、悲しんでるようにも見えるんです」
「そりゃあつまらんわな、そんな大層な能力持ってたら」
目を見開いて此方を凝視する月夜見に、『彼』は静かに自分の見解を述べる。
『あらゆる薬を作る程度の能力』
裏を返せばそれはつまり、薬物に関するあらゆる知識を有しているという事だ。
製法の簡略化も全く未知の薬物を生み出す事も、他人が心血を注いで――生涯を懸けて取り組む課題すらも、永琳からしてみれば稚拙な児戯に等しい。
「研究なんて言ってるがな、そいつぁ自分にしか理解できない知識をガキにも分かるように噛み砕いて羅列してるだけなんだろうぜ。退屈に決まってるさ。調べて探求する前からどんな結果になるか分かっちまってるんだから。結局最後にゃ『ああやっぱり』の一言で終わっちまう。その繰り返しでしかない生活が楽しいわきゃねぇだろ」
「そんな……」
月夜見もようやく理解したのだろう。
天才と呼ばれる事が、どれだけ孤独であるのかを。
他人に理解されない事が、どれほど苦痛であるのかを。
「だから俺は初めに聞いたんだよ。月夜見のお嬢ちゃん、お前さんから見て、永琳サンがどんな人なのかってな」
「……所詮は私も、お姉様の表の部分しか見てなかったという事ですか。お恥ずかしい限りです」
「それでも、永琳サンが喜んでないって一人だけ気付けたんだから大したもんだとは思うがねぇ」
カカカカと歯を鳴らして『彼』は笑う。
天才と呼ばれる者はこうあるべき、才能ある者はかくあるべき――か。
全く以て、くだらない。
無理矢理押し付けられた他人の価値観に従う理由など、一体何処にあるというのだ。
「……二人とも、随分仲良しになったみたいね」
妙に寒気のする声に、会話を止めて声の主に向き直る。
『彼』の前に責めるような目つきで立っていたのは、討論というか一方的な要求を終えたらしい永琳。
視線を動かして彼女の背後――長机の方を窺えば、真っ白に燃え尽きた死屍累々が腕を伸ばして突っ伏しているのが見えた。
「いようオネエサマ、おっさんイジメはもう良いのか?」
「それなりにはね。少なくとも、これからは貴方が私の研究室に居ても文句を言われる事はなくなるから安心して。ついでに、来期の研究予算の大幅な増額と研究所の増設の約束も取り付けてやったわ」
ウフ、ウフフ、ウフフフフ、と。
笑みである。満面の笑みである。溜まりに溜まった鬱憤を全てぶちまけた後のような壮絶な笑みである。
「……おっそろしい御方ですコト」
「やっぱりお姉様は素敵です!」
キミは眼科に行きなさい。
◆ ◆ ◆
三時間後。
場所は変わって永琳の研究室。
「……考えられる可能性はこれしかない――か」
「どーしたよオネエサマ」
モニターを見て呟く永琳に、机の前で何やら作業を行っていた白骨が振り返る。
黒の着流しの上に白衣を羽織り、三角巾と手術用の手袋を装着した姿。
もはや滑稽を通り越して悪い冗談のようにしか見えない。此方を向きつつも止まる事がないその右手は、小振りな鍋ほどもあるビーカーを満たす液体をガラス棒でグルグルと掻き混ぜていた。
「ちょっと……その『オネエサマ』って言うの止めてくれないかしら? 聞く度に背中がムズムズするのよ」
「そうだな、俺もいい加減飽きてきたし。んで? 何の可能性がこれしかないワケ?」
「説明の前に、まずはこれを見て頂戴」
コンソールを操作、壁に設けられた大型ディスプレイに映像を表示する。
映し出されたのは骨格標本、もとい――
「この前撮った俺の全裸映像じゃねぇのよ。アンタこんなモン見て唸ってたのか?」
スゴイ趣味デスネ……と若干引いてる馬鹿骨を無視して、映像に別のデータを重ね合わせた。それを見て、ようやく彼も真面目な雰囲気になる。
「俺の身体の周りを靄みたいなのが覆ってやがるな。これは?」
「貴方から放出されてる妖力を視覚化してみたものよ。平常時はこの状態を保って安定しているのだけど……」
彼の左腕に電極を貼り付け、冷水を注いだグラスを手渡す。
「冷たい?」
「そりゃまあね」
「そう。じゃあ次にこれを見て」
映像を切り替える。
グラスを持った白骨の左腕が拡大して表示された。先ほどと同じように、妖力を視覚化したデータを重ねる。
すると、
「……腕だけじゃなく、グラスも靄――てか妖力で覆われてるな」
「そのままの状態で、グラスを覆わないように自分でコントロールは出来る? 具体的には、手に持ってはいるけど意識しないようにする感じで」
やってみましょ、と白骨はそう言って沈黙した。精神を集中しているのだろう。
映像に変化が現れたのはその直後だった。
永琳の注文通りに、靄は腕を覆いつつも、まるでグラスに触れるのを拒むかのようにグネグネと動き始めたのだ。
「何か変化は?」
「冷たさを全然感じなくなったな。あと、重さと感触も。在るけど無い、触ってるのに触ってないって言えば良いのか?」
その言葉で、永琳は自分の考えが正しいものである事を確信した。
「貴方には目もなければ耳も舌もない。だけど貴方はこうして私の声を聞き、姿を捉えて、会話する事が出来る。肌がないのに触れた物体の柔硬・温冷・軽重を感じ取る事が出来る。結論を言うと――」
白骨に指を突きつけ、言う。
「貴方には――実体がないのよ」
これまで重ねてきた実験結果を統合すると、それが結論となる。
「……此処にいる俺は蜃気楼か白昼夢のようなものだと?」
「それよりも精神体や精霊、いえ、妖怪という『概念』に近い存在なのかしら」
正体を暴かれても、白骨に明確な変化は見受けられなかった。取り乱したり、自暴自棄になる様子もない。ただ『ああそうなのか』と納得し、すんなり受け入れているように見えた。右手も相変わらず液体を掻き混ぜている。
その事に安堵しつつ、永琳は話を続けるべく口を開く。
「貴方の正体は自我を持った超高濃度の妖力そのもの。骨は人の形を得るための支柱に過ぎないの」
「俺がこうして見て、聞いて、話せる原理は?」
「仕組みとしては私達の眼球や耳と変わらないわ。音というのは突き詰めてしまえば空気の振動だから、貴方は自分の妖力に触れたその振動の波長を読み取って『音声』として認識しているんじゃないかしら。逆に、空気を振動させればそれを『声』として私に伝える事が出来る。私の姿を『見る』事が出来るのも、反射した光を捉えて視覚情報として認識しているからだと考えられるわね。しかも骨格全体を覆っている訳だから、その感知能力は並みの妖怪の比じゃない」
つまり彼は、全身が鼓膜であり網膜――耳であり目であると言えた。
「なぁるほど。道理であの時、上からの攻撃が見えた訳だ」
あの時。
彼は前を向いたままの状態で、永琳の指示とほぼ同時に、頭上から降り注ぐ槍枝の雨を感知していた。全方位対応の高性能な感覚器を持ち合わせていたからこそ、あの大妖の森という圧倒的に不利な状況で、邪魅の猛襲のことごとくを掻い潜って脱出する事が出来たのだ。
「それに……これは私の推測なのだけど、もしかしたら貴方も『能力』を持っているのかも知れない」
「能力、ねぇ」
彼が首を捻った。自覚がないのだろう。
自分も生まれた時から能力を持ち、平然と使っていた。それが他人にはない特異な力だと教えてもらうまで自覚がなかった事を今も鮮明に覚えている。
何か、気付く切っ掛けとなるような助言でもしてやろうかと考えたところで、
「シロお兄様! 頼まれた物買ってきましたぁ!」
扉を蹴破って、紙袋を抱えた月夜見が現れた。
「おーうご苦労さん。すまねぇな、お使いなんて頼んじまって。重かったろ?」
「平気です! お兄様とお姉様のためですから!」
「……姿が見えないと思ったら買い物に行ってたのね」
と言うか。
「『シロお兄様』って……」
「ん? ああ、月夜見のお嬢ちゃんが俺の名前を知りたがってな、そんな物はねぇから適当に呼べっつったら『白』骨だからって事で『シロ』になった。お兄様って呼ばれてる事に関しては……『大切な事を教えてくれたから』とか何とか、まあよく分からんから後は本人に聞いてくれ」
受け取った紙袋の中から小さな白色の球体をいくつも取り出して、沸騰した液体の中に無造作に放り込む。掻き混ぜる度に黒みがかった紫色の液体は粘度を上げていき、ボコリボコリと気泡が割れる音を不気味に響かせる。
「……煮詰めすぎたか?」
そう言うと何を思ったのか、先ほど永琳が手渡した冷水をビーカーに全部注ぎ入れて、さらに、ビニールで密閉された白い粉を紙袋から取り出して封を切り、ザバァッ! と逆さにして冷水と同じようにブチ込んだ。粉はすぐに溶けて、水で薄まった液体を綺麗な紫色に変化させた。
そのままグルグル掻き混ぜて、掻き混ぜて、掻き混ぜ続けて。
「こんなもん、か」
ガラス棒を引き抜き、ドロリと滴る液体を確認して、妖怪――シロは満足げに頷く。
「さっきから気になってたけど、貴方、何を作ってるの?」
「何って……んなもん決まってんだろ」
シロはビーカーから用意していた器へとお玉で液体を移し、怪訝な顔をする永琳とちゃっかり椅子に座って待っていた月夜見の前に置いて、
「白玉と砂糖たっぷりのお汁粉」
だった。
◆ ◆ ◆
「お腹一杯、幸せぇ」
口元を餡子で汚した月夜見が、言葉の通り幸せそうな笑みを浮かべて眠りこけている。傍らには空になった器が幾つも重なって小さな塔を形成していた。
そこまで満足してくれたのなら作った甲斐があったと言うものだ。
蕩けている月夜見を見ながら、シロは永琳が淹れてくれた特製フラスコ茶を啜る。
「全くこの子は……子どもみたいね本当に」
「だとするなら、アンタは嬢ちゃんの母親だな」
身体が冷えないように毛布を掛けてやっている永琳の姿は正に慈愛溢れる母親そのもの。大人びた雰囲気とあどけなさが残る二人の対照的な外見も相まって、年の近い親子のようにも見えた。
「……本音を言えばね、私はこの子に随分救われてるの。いつもお姉様お姉様って事あるごとに引っ付いてくるけど、それは私を『賢者』や『八意家の跡継ぎ』としてではなく、一人の『永琳』として見て、慕って、愛してくれている証拠だから」
「………………」
永琳も妖怪と同じだった。
善悪にかかわらず、抜きん出た存在というのは周囲から疎外されてしまう。
畏敬、恐怖、羨望に嫉妬――理由を挙げていけばキリがない。
ましてや永琳は能力を持って生まれた、右に出る者がいないほどの大天才。その孤独感は並大抵のものではなかったはずだ。
人の集団の中で、人ならざる者として生かされる。
永琳はこれまで、怪物同然の扱いを受けてきたのだ。
「でも、今は独りじゃない。私を『永琳』として見てくれるこの子が居て、私を『人間』として見てくれる貴方が居る」
ハッ、とシロは笑い、
「買い被りすぎだろうよ。そもそも、どうして妖怪をそこまで信用出来るんだ? この国じゃあ害獣と同程度の存在なんだろ、妖怪ってのは」
「あら、命の恩人を信頼する事の何処がおかしいのかしら?」
茶化すシロに、永琳は笑顔のまま平然と返す。
のんびりとした雰囲気の中、月夜見の寝顔を肴に、二人は茶を啜るのだった。
互いの心に秘めた覚悟など知らずに。
◆ ◆ ◆
時は流転し、事象は巡る。
望もうが望むまいが、二人は世界の変化に流される。
人とアヤカシ、善と悪。
決して交わる道は無し。