第三十六話 誓約。命巡り、屍蘇る
「屍浪さんがそんなに危険な状態だったなんて……」
――三人だけで話をさせてほしい。
そう頼まれ、永琳と邪魅を残して退室した紫、藍、鈴仙、てゐ、輝夜の五人は居間で卓を囲み、消沈気味の鈴仙が淹れた茶などを啜りつつ、屍浪達の話が終わるのを静かに待っていた。
悠長に湯呑みに口をつけたり茶菓子を頬張ったりして談笑する他の面々とは異なり、握り拳を膝に置いて俯く鈴仙の表情は硬く、口火を切って紡ぐ言葉もまた、無力な自分を責めるように重く険しい。
「まあアイツは嘘吐くのが得意だし、本当の弱みとかも見せようとしないしねー。私達だって永琳に言われるまで全然気付かなかったわよ」
「仮に見抜く事が出来たとしても、私達が問い詰めたところでおじさんは平気な顔ではぐらかそうとするでしょうね」
対して、輝夜と紫の口調は信じられないほどに軽い。
あっけらかんと、まるで屍浪が死にかけている事など指先で弄る茶菓子の包装紙と同じくらいにしか考えていないような――非情と言えるほどに淡々とした声音。
輝夜はともかく、紫は過去に遡ってまで助けに行ったというのに。
何なのだろうか。
この二人の――いや、この四人の異様な落ち着き具合は。
「お二人ともどうしてそんなにのんびりしているんですか!? このままじゃ屍浪さんは死んじゃうんですよ!? てゐも藍さんも、他人事みたいにお茶なんか飲んでないで少しは真面目に助ける方法とか考えてくださいよ!」
「……お前の方こそ少し落ち着いたらどうだ? 言いたい事は分からなくもないが、急いたところでどうにかなる問題でもないだろう?」
「そーそー、師匠よりも学のない私らがアタマ突っつき合わせても仕方ないでしょ」
「けど何もしないで待ってるだけだなんてそんなの――!」
あまりにあまりな四人の態度に我慢出来ず、鈴仙は両手を卓に叩き付ける。反動で湯呑みが倒れて茶が零れるが、今はそれよりも目の前の薄情者達に自分の感情をぶつける方が大事だ。
普段なら格上相手に怒鳴る度胸などない鈴仙でも、今回ばかりは食ってかかる。
どうしてそこまで冷静でいられるのか。屍浪の事が心配ではないのか。貴女達にとって、あの人はその程度の些細な存在だったのか。
「師匠だってようやく屍浪さんにまた会えたのに、こんなの残酷過ぎます……」
鈴仙の紅くて大きな瞳から一筋の涙が零れる。
助けてもらったのに、助けられない。あの時と全く同じではないか。しかも藍やてゐが言うように、屍浪のために鈴仙が出来る事など何もない。
力にすら――なれない。
ただ無力を噛み締めるだけの己に嘆き、悲しみにくれる鈴仙だったが、どういう訳か紫達は心底呆れたような表情をしていて――頬杖をついた輝夜が代表で口を開く。
「……なーんか勝手に盛り上がってるとこ悪いんだけどさあ。アンタちょっと勘違いしてない? 私達はアイツが死ぬだなんて最初からこれっぽっちも考えちゃいないっての」
「………………へ?」
訳が分からず目が点になる鈴仙。
ぎこちない動きで順繰りに、問いかけの意味も込めて皆の顔を窺えば、返ってくるのは可哀想なものを見るような生温かい視線ばかり。どうやら事態を把握し切れていないのは自分だけらしく、居心地の悪い微妙な空気が場を支配する。
「だって、このままじゃ半年と持たないって師匠が」
「じゃあ聞くけど、もし本当にアイツの命を助ける方法が何もなかったとして、その場合一番取り乱しそうなのは誰?」
「誰って……」
真っ先に浮かんだのは屍浪本人。
しかしこう言っては何だが、彼が自分の余命を知らされたくらいで絶望するような性格とは到底思えない。月面で会ったきりの短い付き合いだがそれは断言出来る。
確かに屍浪は命よりも身内を優先する自己犠牲なところがあり、死期が近いからこそ家族のために最後まで動こうとするかもしれない。けれど、少なくともこの幻想郷においては誰かが異変でも起こさない限り地上も地底も平穏そのもの。万が一死期を悟って自暴自棄になったとしても、屍浪が強引に行動するだけの大義名分は何処にもなかった。
だとするならば、
「師匠とか、邪魅さんとか……?」
「当たり。その二人があれだけ冷静に振る舞ってるって事は、アイツをどうにか助けられる方法があるって事でしょ?」
「けど……師匠達だって泣きたいのを我慢してるのかも知れないじゃないですか」
「だとするなら――」
鈴仙の無意味な反論に答えたのは、入口の脇に佇む藍だ。
彼女は空になった湯呑みを両手で弄びながら、
「だとするなら尚更、わざわざ私達が同席する場で告げたりはしないはずだろう? あの二人は私達なんかよりもずっと深く屍浪の性格を知っている。家族を悲しませるくらいなら、口止めして最後の最後まで平静を装う事を選ぶ――あの男はそういう大馬鹿者だ。本当に余命わずかだったとして、お前の師匠と邪魅が、意固地に貫こうとする屍浪の意思を尊重しないと思うか?」
あの馬鹿が家族に甘いように、あの二人も屍浪には甘いんだ。
からかうように言って、八雲藍は続ける。
「にもかかわらず、あの状況で私達にも聞こえるように話した。知られても問題ないという事はつまり、紫様や皆が悲しむような悪い未来にはならないという事だ」
だから私達も心配してないのさ――と。
そう締めくくり、藍は新たに注がれた液体を音もなく口に含む。何かしらの習慣――客分とはいえ、主人と同じ卓に着き同じ物を飲む訳にはいかないという従者としての矜持なのか、彼女だけは座りもせず、茶ではなく白湯を飲んでいた。
「とにかく、アイツの事は気にしなくて大丈夫なの」
藍の後を引き継ぐように、再び輝夜が口を開く。
「鈴仙・優曇華院・イナバ。もしかしたらまだ気付いてないかも知れないけど、アンタの尊敬する師匠は、私の大好きな先生は、愛する男が目の前から消えてなくなるのを黙って見てられるほど大人しい女じゃないわ。あれから一ヶ月もあったのよ? それだけの時間があれば、月最高の頭脳は死人を生き返らせる方法だって見つけ出す」
「………………」
分かってはいた。
分かってはいたが、自分がどんな人物に師事しているのか改めて思い知らされて絶句する鈴仙に、輝夜は力強い声音で言い放つ。
彼女なら――八意永琳ならば全てを覆せると、確固たる自信をもって断言する。
「今まで散々泣かされてきたんだもの。ようやく帰ってきてすぐに死んでサヨナラだなんて、そんな甘っちょろい逃げは――あの二人が絶対に赦しはしない」
◆ ◆ ◆
今現在、屍浪の身体を蝕んでいるモノ。
それは外傷でもなければ病魔でもなかった。
この世に生を受けた者ならば、誰もがいずれは直面するであろう自然の摂理。
八意永琳のような、蓬莱山輝夜のような、藤原妹紅のような――ヒトでもアヤカシでもない、生者であって生者でないモノでなければ絶対不可避であるはずの法則。
――寿命。
それこそが、屍浪が死に瀕している原因なのであった。
「力を使い過ぎたのよ、貴方は」
思い詰めているというよりはむしろ呆れに近い表情で、永琳は床に伏す屍浪の苦々しい顔を見下ろしながら、ほぅっと嘆息して言う。口調こそ咎めるものではあったが、朱い唇から紡ぎ出されるその声には彼への気遣いがありありと込められていた。
「妖怪の姿を捨てた――つまり人間としての正真の生身を得たって事。そんな弱り切った状態で、自分の何倍もある巨体を殴り飛ばせるだけの力を限界まで絞り出したのよ? 反動で骨も臓器も筋肉もボロボロに傷んでる。常人なら一発でも使った時点でほぼ即死、まだかろうじて持ち堪えられているのは元が妖怪だったからに過ぎないわ」
「ふん、結局は分不相応だったという訳じゃな。この馬鹿っ、ばーかばーか。無駄に格好つけようとするからこんな目に遭うんじゃ大戯けが」
耳に痛い言葉と共に、邪魅が額をぺちりと叩いてくる。
しかも屍浪が動けないの良い事に、一度だけでなく二度、三度と連続的に絶え間なく、木魚でも鳴らすような手つきで、ここぞとばかりにぺちぺちぺちぺちと叩きまくる。
赤くなってしまった額を擦る事も出来ず、屍浪は相棒の顔を睨んで、
「てめぇ、動けるようになったら憶えてろ」
「にょーほほほほほ、何とでも言うがいいわ重傷人が。こんな絶好の機会は滅多にないからのう、積年の鬱憤を晴らしてくれるわー!」
「はいドクターストップ」
「あふんっ」
鋭い打撃音。
あっけなく撃退される邪魅。
何処からか取り出したクリップボードの角で強制的に場を沈静化させた永琳は、目を見開いて青褪める屍浪に向けて、威圧的な微笑みを浮かべながら一言、
「続きを、話してもいいかしら?」
「ええ、そりゃもちろん」
ブリキ人形さながらに首肯する。
布団の上、自分の腹の辺りに突っ伏して目を回している相棒。完全に撃沈されたその悲惨な状況と、これ以上ふざけた場合に――たとえ余命半年だろうと遠慮なく振り下されるであろう制裁を想像して、屍浪はただ頷くしかなかった。
「さっきも言ったように、このままじゃ半年後には間違いなく死ぬ。傷や病は治療出来ても、肉体にあらかじめ機能として刻み込まれた“壊れる期限”までは延ばせない。私や輝夜みたいに、蓬莱の薬を飲んで不老不死にでもならない限りわね」
「あの薬かぁ……」
「まあ、今となってはそれもほとんど不可能に近いわ。薬の精製には年単位の時間が必要だし、月の特殊な環境でないと育たない植物や鉱石ばかりだから地上では材料が手に入らない。代用出来そうなものを探すという方法もあるにはあるけど、それも時間が掛かり過ぎる」
「ならどうするんだ?」
「貴方を妖怪に戻す」
「………………はい? はいぃ?」
流石の屍浪も頓狂な声を上げた。
言葉の意味は理解出来ても、合点がいかない。
この状況で気休め以下の冗談を抜かすはずがないと全幅の信頼を置いてはいるものの、今回ばかりは代替案が斜め上を行き過ぎていて疑問符をこれでもかと浮かべてしまう。
「人間では乗り越えられないなら――不老不死にもなれないのなら、限りなく不死に近い身体を持つ妖怪に戻るしか手はないわ。別に完全にじゃなくてもいい。半分だけでも妖怪になる事が出来れば――死に打ち勝てるだけの身体を取り戻せさえすればそれでいいの」
「……言うのは簡単だが、一体どうやって?」
「邪魅、アレを」
「おーう…………あたたた」
邪魅が痛む後頭部を擦りながら顔を上げて、四つ這いの体勢のまま、それまで部屋の片隅に放置されていた細長い布袋を手に取り、ずるずると元の位置まで這い戻ってくる。
ほれ、と差し出された布袋――質素なデザインの、黒一色の刀袋。
開いた口から覗くのは白鞘の太刀、その柄頭だ。
「刀身自体は変わってないけど、鞘と柄は幻想郷に根を張った邪魅の枝から新たに作り直してもらったものよ。つまり、この袋に入っているのは彼女の本体じゃなくて分身体」
「儂と分身体は常に同調している。何処にいようと何があろうと――たとえ切り離されて加工されてもその特性は変わらん。それを利用すれば、太刀を介して儂の妖力をお主に分け与える事が出来る」
「…………要するに、昔と立場が逆になるって事か」
屍浪はとある女の顔を思い出す。
死を極端に恐れ、不老長寿を追い求めた果てに人間である事をやめた尼僧。人も神仏も妖怪も同じと言い切って等しく愛した挙句、その人間達に裏切り者と蔑まれ、それでもなお分け隔てない慈愛の心を抱いたまま封印された絶対平等主義者。
魔法使い・聖白蓮。
方向性も過程も異なるが、他者から妖力を分けてもらい彼女と似たような存在か――もしくはそれよりも性質の悪い、人間の道からも妖怪の道からも踏み外した半端者の『何か』に変わり果てなければならない。
なーんだ、と屍浪は拍子抜けする。
そもそもが人間とも妖怪とも区別がつかないよく分からん有り様だったのだ。結局は前と同じようになるだけ――成り果てるだけ。
成って、果てるだけだ。
「方法は分かった。だがそれなら、紫達にも訳を話して力を分けてもらった方が邪魅の負担も少なくなって効率が良いんじゃないか?」
「確かに貴方のためなら彼女達も協力を惜しまないでしょうね。私も最初はそう考えて私自身もその頭数に入れてたし。でもやっぱり、ありとあらゆる可能性を考慮した上で最終的に邪魅にしか不可能だという結論に至ったわ」
「……理由を聞いても?」
「まず第一に、貴方自身の強度に問題があった」
太刀を傍らに置いて永琳は言う。
「妖力は人間にとって劇毒に近いの。いくら貴方が元妖怪でちょっと変わってるといっても、何の準備もなしに大勢の妖怪からいっぺんに力を流し込まれたら、再び妖怪化する前にまず間違いなく激痛で狂い死にする。耐性がほとんど失われているんだから当然よね。それで私は人数を邪魅一人だけに絞った」
「第二の理由は?」
「他人に力を分け与えた妖怪は副作用として少なからず弱体化してしまう――既に貴方も身をもって知っている事よね? 強さこそが絶対の法である妖怪にとっては見過ごせない死活問題よ。邪魅はその点もクリアしてる」
二番目の理由について、それ以上の細かい説明はない。
おそらくは地脈にでも根を下ろして半永久的に力を補填出来るのだろう、と屍浪は推測するだけで、邪魅本人に直接問い質そうとはしなかった。仮に外れていたとしても彼女達が本当の事を言ってくれるとは思えなかったし、何より、他ならぬ屍浪自身もまだ言えない秘密があるのだから。
「そして第三の理由。邪魅は千年以上も貴方の妖力“だけ”を糧にして生きてきた。皮肉にしかならないでしょうけど、今回はそれが貴方を救う蜘蛛の糸になる」
「……どういう意味だ?」
「邪魅のような植物の妖怪は吸収機能に特化していて、それ故にか周囲の環境への適応力も高いの。もしかしてと思って精密検査にかけてみたら、彼女の妖力は貴方のものと非常に似通った波長と性質に変異しているという結果が出たわ。以前測った貴方のデータとも照らし合わせて確認したから間違いない。これが何を意味しているか分かる?」
妙にもったいぶった学者然とした言い方なのは余裕が生まれた証拠か、輝夜の教育係をしていた頃の名残か。
どちらにしても、徐々にではあるが普段の彼女らしさが出て来た事に喜びを感じつつ、分かりません先生、と早々に白旗を上げる。屍浪とてそれなりに医学的知識を有している方だが、所詮は聞きかじった程度の付け焼刃。月の賢者が相手では素人も同然なのであった。
ちなみに邪魅は事前にある程度の説明を受けていたらしく、話の腰を折るような質問はせずに腕を組んで静観を決め込んでいる。
「拒絶反応を最小限に抑えられるって事よ」
八意永琳は不敵に笑う。
「妖力も血液と同じように個々によって千差万別――貴方の場合はそれが特に顕著で反応が過敏なの。おおまかな型分けは出来ても明らかな違いが必ずあって、私や紫、幽香が力を分け与えたとしても、貴方の身体に馴染むどころか異物と見なされて反発し合うはず。さっき劇毒に例えたのはそのためよ」
けれど、何事にも例外は存在する。
当たり前の事ではあるが――輸血される側の人間がAB型(Rh-)やボンベイブラッドなどの希少な型の持ち主だった場合は、それに適合する血液を用意すれば良いのだ。
永琳の言葉の通りなら。
妖力も血液も、扱い方や対処法が変わらないのなら。
「ほとんど同一と断言しても良いくらいに酷似しているという事は、貴方の肉体が抵抗なく受け入れられるという事」
積み木やブロックパズルなど、幼児用の知育玩具にありがちな問題に対し。
同様の性質、同様の型に当て嵌まるものを用いるという――考えるまでもなく、誰もが一瞬で閃くであろう至極単純な解答。
すなわち、
「この世でただ唯一、邪魅だけが貴方の命を繋ぎ止める事が出来る」
そう言い切って、永琳は口を噤む。
医者として治療法――否、延命法の説明は終えた。
必要なのは、本人達の明確な意思表示だけ。
「……邪魅。お前さんは了承したのか?」
「無論じゃ。どんな方法であれ、儂に拒む理由などありはしない。たとえ今度は儂が命を削らなければならなくなったとしても――知ったお主がどれだけ躍起になって反対したとしても、儂は絶対に考えは変えたりはせんよ。それにな屍浪――」
お主にそんな権利などないだろう? と。
強い光を放つ双眸に睨めつけられて。
何があっても彼女が揺るがない事を悟り。
屍浪は渋々ながらも容認するしかなかった。
◆ ◆ ◆
「早速始めるとしよう――と言いたいんじゃが、その前に屍浪よ」
「んー?」
「貴方、まだ私達に言ってない事があるでしょう?」
「……んー」
「今さらすっとぼけるなよ屍浪。男が絶対にバレないと思っている隠し事なんてのはな、女にはすぐに気付かれてしまうものじゃ。儂らが大人しく聞いている内に話した方が良いと思うぞ?」
「ってかさぁ、その口ぶりからしてもうほとんど全部知っちまってるんだろ? なら、俺が改めて言う必要もないだろうが」
今さらと言うなら――それこそ今さらだ。
脅しにも屈さず、何処までも頑なに秘匿する屍浪を前にして、女二人はやっぱり……とでも言いたげに短くため息を吐く。
「屍浪――貴方は八百五十年前、ぬえを助けに行く以前から既に、貴方の正体であり根源である妖力のほとんどを失っていた。そうよね?」
「………………」
「決定的に取り返しがつかなくなったのは月で戦争を止めた直後。依姫相手に温存なんて出来なかったでしょうからそれは仕方ないとしても、妖怪の大群相手に能力を行使した事で力の大半を使い切ってしまった。そうなった原因は――」
「――お主が、儂らに嘘を吐き続けていたから」
邪魅の声は静かで重いものだった。
無理もない、と屍浪はひどく冷めた気持ちで、まるで他人事のように淡々と二人の話を聞いていた。
これまでずっと黙ってきた後ろめたさと、真相を知らされた時の邪魅の心境がどんなものかを考えて――その上で、血も涙も上手く流せない男は、反論も弁解も茶化しもせず布団の中で黙って聞き続ける事を選んだ。
「わざわざ都にまで出向いた理由は、他人の血肉を取り込んで妖力を回復するため。貴方は輝夜の養い親である讃岐造に成りすまし、加えて妹紅の実父である藤原不比等の亡骸も得て、結果として自分自身で妖力を作り出す事に成功した」
けど、と永琳は一度言葉を区切り、続ける。
「妖力――今は人間に近いから霊力とでも呼称すべきなのでしょうけど、まだまだあまりにも足りなさ過ぎた。この二人は二人とも、霊能力なんて欠片も持っていない何処にでもいるただの凡人。その肉体情報を基にしたところで生産出来る妖力の総量は高が知れてる」
「だが、維持するには足りないと分かっていても、お主はそれで構わなかった。何故ならお主の本当の目的は消滅を回避して生き永らえる事ではなく、何も知らなかった儂に……少しでも多く永く力を供給する事だったからじゃ」
言い終えるのと同時、邪魅は屍浪に馬乗りになる。
突然の事に反応し切れなかったのか、それとも同じ立場にある者として気持ちを尊重し敢えて動かなかったのか――今度は永琳も止めようとはしなかった。
屍浪の両肩を上から押さえつけて、鼻先が触れそうなくらいの至近距離まで顔を近づける邪魅。噛み締めた口からは、嗚咽を押し殺したような呻きが漏れる。
浅い呼吸を何度か繰り返してから、やがて、
「自分が鞘など作らなければ儂がこんな目に遭わずに済んだとでも言いたいのか? お主が身体を削ったおかげで飢えに苦しまずに済んだと、儂の口から言わせたいのか? 犠牲になってほしいだなんて、誰がそんな馬鹿な事を頼んだりした? お主にとって、儂とはその程度で縁が切れてしまうような女だったのか?」
――ふざけるなよ、と。
吐き出されたその声は明らかに震えていた。
涙が一筋零れて頬を伝い、屍浪の口元に落ちて弾ける。わずかに舌先に届いた雫は彼女の心情を表すかのように熱く――悲しい味だった。
「儂はな、屍浪。生まれた事が嬉しかった」
好きになれる者に出会えた事が嬉しくて。
各地を旅して、苦楽を共に出来る事が幸せで。
傍にいてくれるだけで満ち足りていた。
それなのに。
「せめて儂にだけでも、正直に打ち明けて欲しかった」
……ああ。
自分は一体、どれだけ家族を泣かせば気が済むのだろうか。
あいつらのためなのだと、見て見ぬ振りをしていた過ち。
消滅して全てが終わるはずだった屍浪とは違い、邪魅達には進むべき未来があった。歩まなければならない『先』があった。逃がすために騙されて、望まぬ形で否応なく救われてしまった永琳のように――平和の中に取り残された悲しみを背負い、信頼も相談もされなかった悔しさを抱いて、彼女達は何時までも己を責め続けたのだろう。
動かすのも困難なはずの右腕で、しかし精一杯の力で邪魅を抱き寄せる。
赦されるとは思わない。
だから屍浪は心に誓う。
これで最後にしよう、と。
もう二度と、誰も悲しませたりはしない、と。
「すまなかった。本当に――すまなかった」
屍浪は言う。
「……もう二度と、酷い嘘は吐かないと約束するか?」
「ああ……約束する」
邪魅も静かに、
「………………なら、赦す」
と言った。
強く深く抱き締められたまま、拗ねた子どものような口調ではあったけれど――屍浪の耳に届くくらいはっきりと、そう言ってくれた。
見つめ合う二人の顔の隔たりは五センチにも満たない。どちらかがあと少しでも首を動かせば、それだけで容易く唇が重なり合ってしまいそうだ。
黒髪をかき上げて頬を染める邪魅。その姿はとても言葉では言い表せないほどに可憐で美しく、潤んだ瞳と熱を帯びた吐息が悩ましげで艶めかしい。拒むという選択肢が何故だか全く思い浮かばない。思い浮かぶはずもない。そんなものは――乙女の熱によってとっくに屍浪の中から削り取られてしまっていた。
先に動いたのは邪魅の方だった。
慈しむように屍浪の顔に両手を添えて、ゆっくりと距離を縮めていき――
「――ダメ」
焦りを含んだ声を受け、寸前で動きを止めた。
屍浪と邪魅は揃ってそちらを向く。
どうやら衝動的に口をついて出てしまったものであるらしく、発した永琳自身も驚きを隠せずに口元を押さえているが――幸か不幸か、その一声で朦朧としていた邪魅は一気に冷静さを取り戻し、そしてすぐに飛び跳ねるように壁際まで離れた。
朱に染まる顔を屍浪に背を向けて隠しながら、
「わ……儂は皆のところにおるから、用が済んだらすぐに来い! に、逃げたりなんかしたら承知せんからな!? いいな!?」
そそくさと病室から逃げ去ってしまう。
一方、取り残された屍浪はといえば。
観念しているような、動揺しているような、少なからず安堵しているような――そんな何とも言えない、ある意味ではこの状況に一番似つかわしい味のある表情で、未だに口に手をやったままの永琳を恐る恐る窺い見た。
「えーと、ごめんなさい?」
「……あら。私に謝らなきゃならない事なんてあるの?」
声がなんか怖い。
「いやその、あの時の事も今回の件でも、そういえばまともに謝ってすらいなかったなぁと思いまして。それと……今のも」
白くきめ細やかな指が屍浪の顔に触れる。
うっすらと生えた無精ひげをなぞり、恋敵に“本気で”奪われそうになった唇を軽くつついて、永琳は控えめに頬を膨らませる。
可愛らしく、少女のように。
「………………馬鹿」
「自覚してます」
「私は絶対に……赦してなんかあげないんだから」
◆ ◆ ◆
邪魅は混乱の極みにあった。
廊下を進む足取りもふらふらとおぼつかない。
言いたかった事を洗いざらいぶちまけて、屍浪に謝ってもらったまでは良かったのだが、その後がどうにもよろしくない。と言っても断じて不快だった訳ではなく――むしろ逆に、もはや快感とすらいえる心地良さだったからこそ癪に障る。
少しでも油断すれば嬉しさと恥ずかしさでその場に崩れ落ちそうになり、数歩進むたびに壁に背を預けて息を整えなければならなかった。
「何というか……儂が思い描いてたのと違うんじゃよねー」
堪え切れずに泣いてしまって、雰囲気に酔って口づけしようとして、我に返った途端に恥ずかしさが込み上げてきて、その挙句にみっともなく逃げ出して。
まるで本当に人間の――それも初恋真っ只中な十代前半の小娘みたいではないか。
永琳と張り合ったりとか屍浪の焦った顔が見てみたくなったとか、そういうふざけ半分の理由でするのとはまた別の問題だ。
自分から迫ったというのもいただけない。
状況が状況だっただけに屍浪も拒む素振りは見せなかったが、女として生まれたからにはやはり惚れるよりも惚れられたいのだ。
むーぎーがーと頭を抱えて身悶えして、やがていつもの結論に至る。
「そもそも儂らを全員その気にさせといて煮え切らない態度でいる屍浪が悪い。うん、悪いに決まっとる! 自分みたいな半端者がとか大事な娘達だからとかいつもいつもいーっつも小難しく考えよってからに! 男ならもっとこう……ガーッと遠慮なく抱いて侍らせるくらいの甲斐性を見せろっちゅーんじゃ! 侍らせ過ぎたら怒っちゃうけどね!」
「――ほう、つまり押し倒すよりも押し倒されたいと? 被虐趣味があるのかお前は」
「そうそうちょっとくらい強引な方が儂は好き――ってほわぁっ!?」
律儀にノリツッコミしてから慌てて後ろを振り返れば、立っていたのは訝しげな視線を向ける藍。九本の尾をまるで手のように操って、水差しと煎餅の山を抱えている。
「九尾の――お主、何時から!?」
「八雲藍と呼べと何度言えば分かるんだ? もしかして痴呆か? それと先客は私で、後から来て勝手にクネクネし始めたのはお前の方だぞ? 紫様達が逆上せてしまったので水と、ついでに茶菓子も切れそうだったから取りに来たんだ」
「ちちち痴呆ちゃうわい失礼な! ってか、逆上せたじゃと? こんな時に揃いも揃って風呂にでも入っておったのか?」
「いや、全員居間でとろけてる。聞かれたから手っ取り早く精気を分け与える方法を教えてたんだが、どうやら私の話は刺激が強すぎたらしい」
まったく初心なお人だ、と心底愉快そうな黒い笑みを浮かべる藍。
……この女狐は何を聞かせたのだろうか。
まあ、その手の免疫がない紫が逆上せるような『精気を与える方法』となると一つくらいしかないので大体の予想はついてはいるが。
今でこそ八雲の姓を名乗って紫に仕える式神の身の上だが、これでも昔は三国を股にかけて歴代の王をあの手この手で誑かしてきた悪女なのだ――そういう色気話には過剰なくらい事欠かない。
さりげなく性格の悪い友人に、邪魅は半目で言う。
「一応言っておくが、お主が考えている事は外れとるからな?」
「おやそうかい。となると、もっと激しかったのかな? そういえば『鳴かされた』とか何とかぶつぶつ呟いていたし服も少しはだけてるな」
「それは屍浪に抱き締められたから――ってどうしてそんな事までご丁寧に説明せにゃならんのだ儂ったらお馬鹿さん!」
この乗りやすい性格が屍浪におちょくられる原因の一つだったりする。
ともあれ。
「……真面目な話、あの男が目覚めた事を幽香やぬえとかいう黒い娘に知らせなくて良かったのか? 紫様は後で自分が知らせると言ってはいたが……」
「幽香は屍浪が直接謝りに来るまで意地でも顔を合わせないと言うとるし、ぬえに至っては幻想郷の決まりで地底からは出てこれん。心配しなくとも、歩けるようになったらそのうち屍浪の方から顔を見せに行くだろうよ」
「そうか。……とにかく目覚めて何よりだ」
言って、藍は居間に向かって歩き始める。
聞きようによっては社交辞令じみた口調だったが、それなりに長い付き合いの邪魅には、彼女が本当に喜んでいる事が手に取るように分かった。
「ああ……そうじゃな」
むず痒さにも似た奇妙な感覚が身体中を駆け巡る。
屍浪も自分のために味わい続けてきたであろう――力を吸い取られる感覚。
しかし邪魅はそれを嬉しく思う。
愛する男が死に傾かず生き続ける事を――再び共に歩む事を選んでくれた、確かな証であり繋がりだったから。