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東方妖骨遊行譚  作者: 久木篁
三章 邂逅別離編
39/51

第三十四話 悲願。時越えて、貴方のもとに

「……やれやれ、結局逃げられてしまったか。まさかあんな力業を使うとは思わなかったよ。本当にキミは私の想像の上を行く」


 数秒前までスキマが開いていた場所を見つめて、女人姿の安倍晴明は驚愕よりも感心を多分に含んだ声で言う。

 その顔から焦りや憤りなどは一切読み取れない。むしろ紡いだ言葉とは裏腹に、屍浪が抗い邪魅達を逃がす事を望んでいたかのような、計画通りだとでも言わんばかりの嬉々とした表情を浮かべていた。

 術師の背後に控えるのは、のっぺりとした白面と大陸風の鎧を身に着けた式神。岩のような巨体と前傾姿勢は、もはや人間と言うよりも飢えた熊に近い獣性を感じさせる。

 ――対して。

 人間の姿を取る屍浪は五体、いや四体こそ満足だったが、しかし満身創痍で見るも無残に憔悴しきっている。能力の大半を封じられた状況で強引にスキマを開いた代償は、決して軽いものではなかったのだ。

 片膝をついた脚は笑うように震えて立つ事すらままならず、圧し折れる寸前まで酷使した右腕はだらりと垂れ下がって持ち上がるかどうかも怪しい。

 勝敗は明らか。

 戦う必要もないほどに、彼我の優劣は決定付けられてしまっていた。


「けれど腑に落ちない事もある」


 一度言葉を区切り、晴明は続ける。


「今使ってみせた空間転移術――その気になればキミ自身も彼女達と一緒に逃げる事だって出来たはずだ。いくら此処に来る前から死にかけの状態だったといっても、最低限逃げられるだけの余力くらいはまだ残してあるんだろう? なのにキミは一人で残る事を選んだ。それは一体何故?」

「……答える前に、俺からも一つだけ何故と聞いておきたい」


 消滅を待つ他ない屍浪だが。

 細面の陰陽師と無骨な式神を相手に、けれど隻腕の人ならざる者は目をギラギラと輝かせたまま微塵も戦意を失ってはいなかった。

 焦燥や恐怖といった雑念は元からなく、得物を手離した丸腰であろうと関係ない。救援など到底当てに出来ないこの窮地の中において、問い掛けに問い掛けを返しつつ、正面の敵を冷静に見据え続ける。


「俺とお前が顔を合わせたのは、後にも先にもあの大江山での一件だけだ。互いに身内を殺したり殺されたりした訳でも、誰かに討てと依頼された訳でもない。俺達が出会ったのは、偶然に偶然が重なった結果の敵対だったはずだ。なのに何故、お前はぬえを囮に使ってまで俺を誘き寄せたりした? 何故ここまでして俺を狙う?」

「強いて言うなら好奇心、と言ったところかな」


 晴明は事もなげに言う。

 やはり薄い笑みを浮かべたまま、ゆるりと両腕を組んだまま、


「たとえば――珍しい蝶を発見したらとりあえず捕まえてみたくなる。法外な値を付けられた陶磁器があればとりあえず触れてみたくなる。とどのつまりはそれと同じ事さ。風変わりな妖怪と出会ったら……私はとりあえず殺してみたくなる」


 実に人間らしい、自然な衝動だとは思わないかい――と。

 平然と言い放たれた子供にも劣る暴論を聞き、屍浪は表情こそ変えはしなかったものの音を立てて歯噛みした。腸が煮えくり返りそうになる一方で、あまりに馬鹿馬鹿し過ぎて反論する気すら起きない。

 理由にすらならない理由――『とりあえず』だなんてふざけた好奇心。

 この人間失格は、そんな稚拙な動機だけで屍浪を敵と見定めたのだ。

 これを馬鹿馬鹿しいと言わずして何と言う。


「……お前が、人間らしさを語るなよ」

「キミにこそ語る資格などないだろう?」


 それが合図であるかのように。

 唐突に、何の気配も何の前触れもなく、しかし主の意思を敏感に読み取ったらしい大陸甲冑の巨体が大地を荒々しく踏み砕き、屋根よりもさらに上空へ跳躍する。

 百キロはゆうに超えているであろう白面の式神が軽やかに宙へと躍り出る――奇怪を通り越して不気味極まりない光景だが、どれだけ目を背けたい現実であっても、屍浪はその一部始終を注視しなければならなかった。

 生き残るために。

 そして何より――勝つために。

 視線の先、闇空の中で式神が大剣を構えた。柄を両手で握り締めた大上段からの振り下ろし。見てくれ以上の馬鹿力で放たれる一撃が、片膝をついて動かない屍浪に狙いを定める。


「それじゃあ――さよならだ」


 式神自身の筋力に落下の力を加えた両刃の大剣。

 その速度は音速を軽々と超え、大気との激突によって生み出された衝撃波が圧倒的な打撃力となって大剣を包み込む。割断と破砕を併せ持った攻撃は、極端に言ってしまえば小型の隕石と同義であった。

 着弾と同時に炸裂する轟音。

 破壊の規模は凄まじく、爆風と砂礫が袖で顔を守る晴明の所にまで届いた。

 もうもうと立ち込める土煙が辺り一面を覆い隠す。蓮の花のように捲れ上がって隆起した地面が、その威力を如実に物語っていた。


「………………」


 晴明は無言のまま腕を横に振るう。ただそれだけの所作で一陣の風が薙ぐように奔り、視界を阻む土煙を晴らしていく。

 防御は意味を成さない。まず在り得ないと断言出来るが、万が一受け切れる者がいるとしたら、それこそ正真の神か化け物くらいのもの。

 まして、屍浪は身動き一つ取れない有様なのだから。

 晴明もそう思っていた。



 地を割って刺さる大剣のすぐ横。

 半身をずらした体勢で立つ、隻腕の男の姿を認めるまでは。



 爆心地の中央、紙一重で避けた屍浪もまた無言であった。

 軽く俯き、狼の毛並の如き白髪で表情を隠しながら、二本の脚でしっかりと立つ。

 震える事なく、力強く、踏み締めている。

 先ほどまで指一本動かせず――今だって『陣』による重力の影響を確実に受けているはずなのに、そんな様子は一切感じさせない。


「……何をした?」

「………………」


 晴明の問いに屍浪は答えず、握った右の拳を腰溜めに構える。

 躱す際、ほとんど後ろ向きに近い体勢に捻ったままだった腰。抑え込んでいた反動を解放するように、バネ仕掛けじみた勢いで元に戻す動作。それに乗せて撃ち放つのは、下から上に――式神の顎を抉るような軌道を描く渾身の殴打。

 筋力の強さは、攻撃力と同時に耐久力の高さも意味する。

 式神の肉体強度を考えれば、屍浪の行為は分厚い鉄板を素手で殴る愚行に等しい。十中八九、傷つき粉微塵に砕けるのは屍浪の拳の方だ。

 それでも、殴った。

 自分の数倍はあろうかという巨体の、白面に収まった顔を思い切り。


「…………っ、――――ッ!?」


 先の一撃に負けず劣らずの轟音。 

 果たして。

 押し負け、ふらつき、たたらを踏むように無様に後退したのは式神の方であった。

 白面の下半分は衝撃によって砕き飛ばされ、縫い合わされた醜い口唇が露出する。わずかばかりの自我が残されているのか、開かずにモゴモゴと蠢くだけのその唇は、己に明確なダメージを与えた屍浪に対する驚愕を表現しているようでもあった。


「一発は一発だ。何時かの借り、耳揃えてきっちり返したぞ」


 カハァ、と。

 吐息と共に紡がれる言葉。

 それは静かで落ち着いていて、晴明ではなく式神に向けられていた。


「何を――した? 一体どんな手を使った? 私が組んだ『陣』はまだ十全に機能している。キミはその影響から抜け出せていないはずだ」


 と。

 晴明の声から初めて余裕が消えて――けれど動揺は見せず気丈に、口調を変える事もなく、彼とも彼女とも呼び難い『人間』の陰陽師は、屍浪に向けてそう言った。

 欠陥はない。綻びた様子もない。

 何日も――何十日もかけて組み上げたのだから当然だ。

 言葉の通り、御所全体を包む『陣』は完全な状態を維持し続けている。

 なのに――


「確かにキミは立ち上がり、能力だか何だか知らないがとにかく彼女達を逃がしてみせた。けどそれは一度きりの、死力を尽くして強引に手繰り寄せた奇跡だ。立つだなんて、殴るだなんて、そんな、そんなふざけた出来事が――そう何度も起きてたまるか」

「……随分と早口になったな」


 常に笑みを崩さない晴明だが、今度ばかりは屍浪が嗤う番であった。

 はぐらかすような――彼が普段浮かべている飄々とした笑顔ではない。

 それは言うなれば、何者よりも“人間らしい”笑み。

 冒涜し蹂躙し差別し侮辱し睥睨し罵倒し蔑如する――この世のありとあらゆる悪意が込められた、純粋なまでに暗く、無邪気なまでに冷たく、吐き気を催すほどの負の感情に満ち満ちた形相。

 もし仮に今、この場に屍浪の人となりを知る者――長年連れ添った邪魅や永琳、幽香や紫がいれば、全員が口を揃えて『屍浪などではない』と否定したに違いない。

 否定されるだけのおぞましさが、その相貌にはある。


「キミは、誰だ? いや、キミは一体――何なんだ?」


 目の前で変貌を見届けた晴明も、そう訊かずにはいられなかった。

 だが、ようやく返ってきた答えは淡々としたもので、


「……俺は俺だよ。そして――俺達だ。それ以上でも、それ以下でもない」


 姿形が極端に変わった訳ではない。

 三人の少女達と共に現れた時から、一貫して人間の姿を保ち続けている。

 そこでようやく晴明は、己の見解が間違っていた事に気付く。

 屍浪が発する妖気の波長の“粗さ”から、彼が既に限界まで衰弱し、狂骨に戻れるだけの妖力もなく、だからこそ人の姿を取らざるを得ないのだと判断していた。

 だが、どうやらそれは当たらずとも遠からずであり、少なからず的外れで見当違いな誤解が含まれていたのだ――と遅まきながらに理解する。

 生身のままでいる事に、別の理由があるとするのなら。

 妖怪の一切を否定するこの空間に立てる理由なのだとしたら。


「まさかキミは――妖怪である事を捨てたのか?」


 可能性はそれ以外に考えられない。

 妖怪の目から見ても非常識な存在――狂骨・屍浪。

 その正体は偶発的に自我を持って生まれた妖力そのもの。そして、身体を構成するのは死した人間達から譲り受けた無数の骨と血肉だ。

 狂骨の姿でいる時は骨格を支柱とする形で妖力を肉付けし、人化する際は髪の毛一本、細胞の一片に至るまで念入りに擬態を施している。

 つまり、屍浪がその気にさえなれば。

 根本から体構造を作り変えて――あくまで擬態程度に留めていた人化を進行させて、完全な人間になる事も可能なのではないか?

 晴明は押し黙る。

 この推測が限りなく真実に近かった場合、それはすなわち、安倍晴明が持つ優位性の一つである『陣』の効力が失われたという事に他ならず、戦う上で非常に厄介な展開となるからだ。


「最初の問いに答えよう。俺が此処に残った理由は、お前がぬえを――俺の大事な愛弟子の誇りを傷つけたからだ」


 屍浪は言う。


「本当に、ぬえを脅威と見定めて討伐しようとしたのなら、俺はぬえを助けて逃げただろう。身体の傷はすぐに癒える。だが――心の傷は何時までも残り続ける。結局ぬえは、俺のための囮としてしか見られてなかった。妖怪どころかただの『物』として扱われたあいつの苦しみが、濡れ衣を着せられたあいつの悔しさが――お前に分かるか?」


 丸腰の男が垂らした右腕。

 晴明には、その右腕が何よりも恐ろしく凶悪な刃に思えた。


「弟子の誇りを穢されて――それで仇も討てないような男に、師匠を名乗る資格なんざねーだろうが」



 ◆ ◆ ◆



 屍浪は自身を『妖怪』と称する。

 何を今更と思うかもしれないが、しかし――彼の成り立ちとこれまでの経緯を遡って考えてみれば、いくつかの奇妙な疑問が浮かび上がってくる。

 まずは――誰が最初に屍浪の正体を解明し、告げたのか。

 言わずもがな、八意永琳だ。

 ならば何故、永琳は屍浪が妖怪に類する存在だと判断したのだろう。

 彼の外見か? 

 確かに、黒い着流しを着た白骨が当然のように喋ったり動いたりすれば、永琳でなくとも万人が妖怪だと判断する――かもしれない。

 けれど、太刀を携えた骸の姿だったとしても、古びた井戸から這い出して来たとしても、数多の妖怪が生息する深い森の中で出会ったのだとしても、それが屍浪が妖怪であるという――確固たる証拠には成り得ないのではなかろうか。

 そもそも屍浪は井戸から這い出た直後、己が何者なのかはっきりと自覚する前に『妖怪』と呼ばれてしまっている。故に、彼は場の流れのままに自分が妖怪なのだと認識させられ、無意識の内にそうあるように力を変質させた。

 つまりは、誰もが抱いてしまうような先入観――些細な思い込みと誤解の果てに、屍浪本人も含めた周知の現実として広まっただけに過ぎない。

 騙す能力を持つ彼自身が生まれた時から騙されていたとは、何とも皮肉な話である。

 以上の点を踏まえた上で、永琳が出した答えをより厳密に表現するならば。

 屍浪の“本当の”正体とは。

 妖力であり、霊力であり、魔力であり、神力であり――それでいながらいずれにも当て嵌まらない、森羅万象に宿る力、その『原初形態』とでも言うべきなのかもしれない。

 屍浪と永琳が出会う切っ掛けとなった異質な妖気反応も、今思えば必然だったのだろう。その時点ではまだ、屍浪は妖怪ですらなかったのだから。

 妖怪にも、人間にも、魔族にも、神族にだって成り得る――その意思一つで容易く変質してしまうほどに純粋で不安定な存在。

 対峙するこの戦場においては、それが屍浪にとって唯一の勝機なのであった。


「――――――――ッッッ!!」


 声なき声を上げ、歪な鬼人が大剣を振り回す。

 晴明が準備に準備を重ねて張り巡らせた『陣』は、対象が化生の類ならば一切の例外なく地べたに這い蹲らせる事が出来る。それこそ、手も足も出ないほど問答無用に。

 では、どうしてこの式神は動きを束縛されないのだろうか。

 まあ、自分が施した術で手駒を弱体化させるような晴明ではないが、そのために講じた対策の原理自体は至極単純なものだ。

 都を覆う大結界――その大半を流用した仕組みである以上、基本的な構築や仕様は『陣』に否応なく引き継がれ、弱点までもが極めて似通ってしまう。

 弱点。

 屍浪が以前にも看破した、魑魅魍魎のみを通さないという特性。

 人間には影響を及ぼさないという当然の抜け穴。

 その欠点を、その脆さを、利用するために調べた晴明が見落とすはずもない。

 だから――当たり前のように人間を材料にした。

 都になら職があると希望を抱き、現実を叩きつけられ絶望した流れ者。建設時の人足として村々より集められ、そのまま帰れずにいる浮浪者。病に倒れ、飢えに苦しんだ挙句に息を引き取った者――老若男女、生者死者を問わず、使える素材は都のあちこちに転がっていた。

 紐を何本も縒り合わせて太い綱を作るように、幾人もの人間を強引に融け合わせて生み出した式神。それ故に影響をほとんど受けず、前後不覚に陥った妖怪を一方的に屠る事が出来る!


「……しぶとい奴だ」


 そう――相手が本当の妖怪であったなら。

 勿論、屍浪は襲い掛かって来る式神が何で出来ているのかなど知らない。知る由もない。仮に晴明が意地悪く説明して真相を知らされたとしても、犠牲となった“彼ら”を元に戻す方法がない以上、苦しまずに仕留めるくらいの手向けしか考えつかなかっただろう。そういう意味では、この哀れな成れの果ての正体を知らずに済んでいるのは――とても幸運な事だと言えた。

 それでも。

 何処か憂いを含んだ表情で、屍浪は右腕を動かす。

 肩の高さまで上げて横に伸ばしただけの、構えらしからぬ構え。

 狙うのは式神が大剣を振り下ろした直後の、数秒にも満たない技後硬直――その一瞬だ。剣の腹に沿う形で独楽のように回転し、巨体の懐に潜り込み、霊力と筋力と遠心力を最大まで載せた唯一にして最大の武器を、弧を描く軌道で――振り抜く!

 派手な音はない。

 ただ――破壊だけがあった。

 五本の指でもって剥き出しの顎に触れて、そのまま力任せに肉を裂いて骨を砕き、後の事など全く考えてなさそうな豪快な勢いのままに、顔の下半分どころか咽喉や頸椎までごっそりと、首の皮一枚だけを残して――


 抉り取り、弾き飛ばした。


 誰がどう見ても明白な致命傷。

 仮にまだ心臓が動いていたとしても――妖怪以上の生命力を持たされていたとしても無意味。四肢への命令を伝える通り道が完全に、徹底的に破壊されたのだ。反撃はおろか傷口を押さえて距離を取る事さえも不可能で、あっけなく膝から崩れ落ちる事だけが式神に許された唯一の自由だった。

 手を離れた大剣が、ゴトリと音を立てて地面に落ちる。


「……まさか、ここまでとは――」


 不機嫌そうに立つ屍浪を正面に、晴明はもう驚きを隠そうともせずに言う。

 やはり口調こそ今まで通り変わりないが、その顔には自慢の人形を壊された事よりも、壊した屍浪に対する驚愕が色濃く表れている。それだけ――この結末が晴明にとって予想外だったという事だ。

 まさか負けるとは思わなかった。

 まさか壊されるとは思わなかった。

 まさか――


「けど勝ったからといって、そうやって私の行動ばかり注意するのは良くないね。私の使役する式神が一体だけだなんて……何時、言ったかな?」


 新しい人形を使う羽目になるとは――思わなかった。


「――っ!?」


 途端。

 屍浪の全身を激しい痛みが駆け抜ける。

 背後からの一撃をまともに食らい、敷き詰められた玉砂利の上を無様に跳ね転がり、何十メートルも滑ってからようやく、屍浪は自分の後ろに新たな気配が生まれていた事に気付く。

 気配が生まれて、攻撃を完了していた事にようやく気付く。

 呼吸を整えるわずかな油断を突いた、完全に無防備だった身体への攻撃。

 かろうじて、斬撃ではなく打撃である事だけは分かった。

 それだけしか――分からなかった。



 ◆ ◆ ◆



「が……ぐ、っ」

「実際、確かにキミは大したものだと思うよ。私の予想のことごとくを覆してして――自分の在り方まで捨ててまで私を殺そうとする気概は驚嘆と言う他ない。実にキミは見事だったよ」


 うつ伏せに倒れ呻く屍浪の眼前。

 別れの言葉でも紡ぐように言う晴明の傍らに。

 物言わぬ巨躯の鬼人が――二体目の式神が控えている。

 よっくと目を凝らせば背丈や髪形などに微妙な違いが見受けられるが、その特徴らしい特徴は、先ほど屍浪が屠った式神とほとんど変わりがない。

 大陸風の鎧と、目の鼻もないのっぺりとした白面。

 やはり一言たりとも言葉らしい言葉を発したりはせず、一挙手一投足の動きからも同様のぎこちなさを感じ取れる。

 まるで時間が巻き戻ってしまったかのような――全てが無駄であったと思えてしまう悪夢のような、今まで味わった事のない無力感が屍浪を苛む。

 受けたダメージの程度は不明だが、おそらくは肋骨が砕かれている。背骨や腰骨も少しでも動かそうとすれば耐え難い激痛を生み、立とうとする気力を削り奪う。

 殴り飛ばされただけで屍浪の身体は――人間と化した肉体は壊滅しかけていた。

 ぬえを助けた事に悔いはない。

 紫達だけ逃がした事も、逃げずに留まった事にも後悔はない。

 ただ、最初から勝算のない負け戦だったのかと、柄にもなく歯噛みする。

 体力などとうの昔に――戦いを始める前から既に尽きている。気力だけで身体を無理矢理に動かし、今となってはそれすらも不可能で――

 全てが、裏目に出てしまった。

 酷使した右腕は使い物にならない。

 晴明を殺せるだけの力“しか”残されてはいない。

 式神が一体だけであったなら――敵が晴明一人だけであったなら、あるいは相打ちという形で本懐を果たせたのかもしれないが、最悪な事に式神は二体いた。

 少し考えれば容易に予想出来そうな現実が、最後の最後に壁となって立ちはだかる。そして屍浪にはもう、その壁を破るだけの力はなかった。


「………………」


 ほんの一瞬、屍浪の脳裏に過ぎったもの。

 それが永琳でも邪魅でも、幽香でもぬえでもなく紫だったのは、屍浪本人にも説明しようのない無根拠な第六感――強引に言い換えるならば、膨大な年月によって培われた直感力に起因する。

 積み重ねた経験則は予測を超えた予知となり、そうでなくとも、悪い予感というのは往々にしてよく当たってしまうのだ。


「馬鹿が。どうして……」


 薄れつつある意識の中、屍浪は察する。

 すぐに察して、虚空に開くスキマを確認した上で、怒号を放つ。

 奇しくもぬえと同じような状況で、同じような言葉を。


「――どうして来たんだ、紫ぃ!!」


 返答はない。

 代わりとばかりにスキマが式神を呑み込んで、この戦場から――この世界から、何の跡形も残さず綺麗さっぱり消し去った。

 予兆もなく音もなく、苦もなく造作もなく、狙い定めたありとあらゆる物体を虚実の果てへと飛ばし葬る、魔獣にも似た赤黒い大顎。

 かろうじて飛び退いた晴明も左腕を袖ごと喰い千切られ、強靭な精神力で悲鳴こそ上げなかったが、苦悶の表情をありありと浮かべて憎々しげに唸る。

 水を差されて初めて見せた、怨嗟と憎悪に染まる顔。

 その瞳に映るのは、屍浪を守るように立つ――日傘を手にした一人の少女。


「……全く理解に苦しむね」


 口を歪ませて、晴明は言う。


「せっかく逃がしてもらったのに、こんなにも早く戻って来るなんて。まあ私の『陣』の中に入って来れた事は素直に褒めてあげるけど、それは其処に転がっている彼の気持ちを踏み躙る事になるんじゃないのかな?」


 八雲紫は黙って、腕の傷を押さえた術師を見据える。

 端麗可憐な容姿に氷の如き妖気を纏い、ふわりと流れる金糸の髪が、彼女の激しい気性を表しているかのように揺れ動く。朱色鮮やかな口唇は真一文字にきつく結ばれて、開けば晴明以上の激情に満ちた言葉が止まる事なく飛び出し続けるだろう。

 紫はどうしようもなく、子どものように怒っていた。

 大好きな父親を傷つけられた子どものように怒っていた。

 目の前の、男とも女とも呼べない人間を殺したくなるほどに。


「早くなんかない――むしろ遅すぎたくらいよ」

「……何?」


 八百五十年もかかった――と。

 小さな口を開いて、紫は静かに言う。

 感情を押し殺した声で、言う。


「この忌々しい空間の中で動けるだけの力をつけるのに、破るだけの力をつけるのに、まだ未熟だった私はそれだけの年月を費やした。何度も狂いそうになった。何度も諦めそうになった。あの時の私の気持ちが貴方に分かる? 分からないわよね。私の気持ちを、私達の気持ちを――貴方如きに理解してもらいたくなんかない」

「何を――キミは一体、何を言っている? いやそれよりも私の『陣』を破るだと? 何故キミは影響を受けていない? 彼のように、妖怪である事を捨てたとでも言うのか?」


 訊き返す晴明だが、当然、その真意は理解出来ない。

 構わずに紫は続ける。


「憎くて悔しくて恥ずかしくて――こんなにも弱くて醜い自分が、殺してしまいたくなるくらいに嫌いになって、でもおじさんにもう一度会いたかったから」


 乱暴に日傘を閉じて、横に薙ぐ。

 闇夜を裂いて現れるのは、瞳が群れる無数の異界。

 鳴り響くのは、ガラスが擦れて割れるような耳障りな音。

 晴明の『陣』を上書きし完膚なきまでに崩壊させる、有象無象の境界を操る異能の真骨頂。夜天を埋め尽くすほどの圧倒的な物量が、主人に仇なすもの全てを食い尽くす!


「どうしても助けたいから、私は此処にいるのよ!」

「まさか……私の術式が――!」

「砕け散りなさい!!」


 かくして。

 血の繋がらぬ父娘の絆を一度は断ち切った術が、破られた。

 屍浪のように人と化して仕様の抜け穴を突いた訳でもなく、ましてや強度を下げるために何らかの奇策を弄した訳でもなく、紫はまるで金槌で割り砕くかのような単純明快な方法でもって、手も足も出ず無様に逃がされるしかなかった彼女の言うところの『忌々しい空間』を、ただただ力任せに暴力的に妖怪らしく――打ち破った。

 降り注ぐ霊的な破片の中、紫は淡々と、


「……これで、貴方を守る物は何もないわね」

「そ、それが!」


 晴明は叫ぶ。

 己が窮地にある事を――先刻まで屍浪が立っていたはずの、絶体絶命の死地にある事を思い知らされ、それまでの余裕のある口調や態度さえもかなぐり捨てて、正に負け犬のように吠える。

 だが屍浪と違って、いくら強がろうとも、晴明に救いの手が差し伸べられる事はない。

 ――絶対に。

 それでも、血が広がる口で叫ぶ。


「それがどうした! この程度で勝ち誇るなよ小娘が! たとえ術式が破られたとしても、私にはまだ使える手駒が――『十二神将』がある!」


 新たに出現した九体の式神を目の当たりにして、しかし紫の視線は冷え切っている。

 その名の通りに十二体もの式神を使役しているというのなら――そして先の二体と同等の力を備えているというのなら、それを従える晴明の力量は確かに驚愕すべき領域にあるのだろう。

 けれど――相手が悪い。

 自分の式神に全幅の信頼を寄せているのは、何も晴明だけではないのだ。


「……藍」


 紫は口にする。

 友であり家族であり姉妹であり従者である“彼女”に向けて。


「目障りよ、蹴散らしなさい」

「仰せのままに」


 凛とした声とほぼ同時――主命を受けた金色の槍が空を駆け、式神達の胴を甲冑ごとまとめて刺し貫く。

 いとも容易く、反撃の機会すら与えずに。

 槍の正体は金毛九尾。

 それは年経た妖狐の証。

 夕日に映えるススキ野原のような毛並を持つ、道教の法師服にも似た衣装の少女。かつて屍浪と邪魅には『妲己』と名乗り、騒乱の果てに心を救われた者の一人。

 妖獣・八雲藍。


「木偶共が、汚い手で私の主と友に触れるな」

「…………………っ!」


 今度こそ本当に物言わぬ肉塊となった式神達。

 勝負になどならない。なりはしない。

 術式は崩壊し、晴明の手駒は一瞬で死に絶えた。

 束縛するもの全てが失われた今、彼女達はもう止まらない。時を遡り、何百年と待ち望み続けた瞬間を前にして、止まるはずがない。


「あ……ぐっ、あ…………」

「…………」


 遺言を残す時間さえも紫は惜しんだ。

 左腕の傷を押さえて膝をついた安倍晴明は。

 屍浪を仕留める寸前まで追い詰めた術師は。


 ばくん、と。


 あっけなく――スキマに喰われた。

 この長いような短いような一件の幕引きとしてはあまりに拍子抜けするほどの、脱力するほどのあっけなさだった。



 ◆ ◆ ◆



 倒れたまま、屍浪は一部始終を見ていた。

 見届けて、ようやく終わったのだと心の底から安堵する。

 もう、意識を保つ事も難しい。

 だがその前に一つだけ――


「おじさん大丈夫!? 怪我はない!?」

「ないように……見えるか?」


 本当なら声を出すだけの余力も残されてはいないが、それでも激痛を堪えて――今にも泣き出しそうな顔で傍らにへたり込む紫に、いつものような意地の悪い台詞を返す。


「うん――うん! そうだよね、痛いよね。待っててすぐ治療するから!」


 ひとまずの応急手当のつもりなのだろう――スキマの中から包帯やら薬品やらをいくつも取り出す紫。そんな彼女の小さな頭を、もう動かせないだろうと諦めていた右腕で撫でた。金の髪を指で梳く間だけ、不思議な事に痛みを全く感じなかった。

 紫は動きを止めて、やがておずおずと屍浪の手に自分の手を重ねる。

 絹のような柔肌の手。

 それは微かに震えていて、


「…………また会えて、良かった」

「――――ぅ」


 その言葉で限界を迎えて。

 紫はわぁわぁと、恥も外聞もなく泣き出した。

 助けるまでは決して泣くまいと決めていた誓いを解くように。

 天を仰いで涙を流し、少女の外見に相応した大声で。



 そして、屍浪は。

 泣きじゃくる愛しい『娘』を、ずっとずっと――優しく撫で続けた。



 

 

 

ようやく、ほんっとうにようやく第四章が終わりました。


次章からやっと幻想郷がメインです。


それにしても『十二神将』ってれっきとした仏教用語なのにどうしてこう中二病っぽいんでしょうね?


そしてアンケートまで取ったのだから有言実行で24日の0時ピッタリにクリスマスネタの番外編を予約投稿してみたいと思います。


短編のつもりなんでいつもより文字数は少なめで、シリアス要素は一切ナシの予定です。

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