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東方妖骨遊行譚  作者: 久木篁
三章 邂逅別離編
38/51

第三十三話 狂骨。父親だから

 ――妖獣・鵺。


 頭は猿、胴は貍、四肢は虎、尾は蛇。

 黒雲雷鳴と共に空に現れ、トラツグミに似た気味の悪い鳴き声を撒き散らす。

 他に類を見ない異形の姿も相まってか、噂が噂を呼び、都に仇名すその妖の名は瞬く間に知れ渡る事となる。凶兆の前触れとされる寂しげな遠吠えが響く度に住人達は飛び起きて、何か大事が起きるのでは、と不安な夜を過ごしていた。

 たかが鳴き声と侮るなかれ。

 迷信や杞憂の一言で笑い飛ばして済むのなら『病は気から』なんて誰もが知る格言は生まれなかっただろうし、人間は何かが起こる“かもしれない”という思い込みだけで容易に体調を崩すほど脆く弱々しい生物なのだ。

 そしてそれは、この国を統べる長――天皇であっても例外ではない。むしろ、統べる地位にあるからこそ害なす者を過剰に怯え、恐れ戦く。

 舞台は天皇が住まう御所――清涼殿。

 頭上で鳴き続ける鵺に天皇は心身ともに弱り果て、とうとう病床に伏してしまう。その呪いにも似た奇病はどんな名薬や祈祷をもってしても回復の兆しは見えず、食事も睡眠も満足に取れない天皇は日に日に痩せ衰えていくばかり。

 唯一残された方法は、病の根源たる鵺を討つ事。

 方針が決まり、さて誰が適役か――と側近達が考え抜いた末、武芸に秀でたとある人物に白羽の矢が立つ。

 名を源頼政。

 鵺退治の立役者として後世まで語り継がれる事となる武人である。


「……まさか、あの悪名高き鵺の正体がこのような娘子とは」


 厳めしい顔をさらに険しく歪めて、頼政は唸るように言う。雷鳴じみた低い声は明らかに腑に落ちない様子で、地面に伏す妖怪を目の当たりにしても疑念が晴れる事はない。

 深夜、艮の方角より湧き上がった黒雲。

 ひょう、ひょう、と響く不気味な鳴き声。

 噂に違わぬ奇怪な風貌の化け物に怯む事なく、山鳥の尾で作った尖り矢を放って射抜き落としたまでは、まあ良かったのだが――あまりにも都合良く出来過ぎている気がするのは何故なのか。

 頼政が御所に到着してから数刻も経たない内に鵺は姿を現した。確かに毎晩のように出没すると聞き及んではいたが、これではまるで討たれるために出て来たとしか思えない。

 そんな訳あるはずもない、と彼は頭を振って自身の考えを否定する。否定するが、であるならば、この胸の内に巣食う言い表しようもない違和感は一体何だと言うのか。

 首を捻る頼政の背後で、くすりと小さな笑いが生まれる。


「頼政様、努々ご油断召されぬよう。たとえどのような姿形をしていようと妖怪は妖怪。迂闊に近づけば喉笛を噛み千切られてしまいますよ?」

「しかしなあ泰成よ、俺は未だに信じられぬのだ」


 物騒な事を平然と宣う声に対し、頼政は振り返らずに言う。


「確かに俺は化生の姿を取るこの娘を射た」


 だがな泰成、と頼政は言葉を区切る。

 彼の視線の先――庭のほぼ中央、まるで死体のように力なく横たわっているのは、呪符付きの鎖で全身を雁字搦めにされた件の妖怪少女。

 見事な黒髪の娘だ。右肩には頼政の放った矢で抉り抜かれた痛々しい傷があり、流れ出る血がじわりじわりと地面を朱に染めていく。

 口を真一文字にきつく結び、呻き声一つ上げずに黙したまま。だがその眼は――深紅色の瞳だけは、未だに頼政を見据え続けていた。爛々と、煌々と、火焔の如く揺らめき光る双眸はどこまでも純粋で、息を呑むほどに美しいと思える。

 だからこそ頼政は疑いを持つ。


「この娘は徒に呪を撒き散らしたりはしない」

「……それは、武人としての勘ですか?」

「そうだ」

「………………」

「言いたい事は分かる。確かに俺の勘は、お前の卜占に比べれば根拠も何もない稚拙な妄言なのかもしれん。だがこの娘の目は命の重みを知っている者の目だ。名声出世のためだけに戦場で屠って来た俺とも、呪いや甘言で他人を思うがままに支配するお前とも違う」


 そこで頼政は初めて後ろを――後方に控える泰成の顔を見た。

 安倍泰成。

 氏名からも分かる通り、稀代の陰陽師と誉れ高い安倍晴明の血を引いている。

 病人よりも更に白を極めた肌、細めた両目は狡猾な狐を彷彿とさせ、口角を緩やかに上げた笑みの仮面で全てを欺き隠す。その得体の知れなさも手伝って、陰では呪殺も二つ返事で請け負っているらしいなどと、それこそ鵺のように根も葉もない噂が絶えない奇人だった。

 まあ、妬み嫉みや畏怖が込められたそれらの陰口も、裏を返せば泰成が先祖の名に恥じぬ屈指の術者である事の証明に他ならない。

 そんな事よりも、武人に似つかわしい名とはまったくの正反対――おそらく初めて名を聞いた者全員の予想を裏切るであろう容姿を持っている事が奇人の奇人たる所以なのだろうと頼政は考える。


「おやおや、まるで私が大罪人であるかのような物言い」

「しかし事実無根という訳ではなかろう? 現に俺はそれを何度も見た事がある」

「正確には『見せてもらった事がある』でしょう? 本当に、相も変わらず頼政様は堅物でいらっしゃる。少しくらいは“女人”に優しくしても神罰は下りませんよ?」


 口元を狩衣の袖で隠し、やれやれと溜め息を吐く女――安倍泰成。

 かつて、源頼光が酒呑童子討伐の命を受けた際には安倍晴明がその居場所を占い、鬼のみに効く呪いを施した毒酒を授けて手助けしたという。

 安倍晴明と源頼光。

 怪物退治・妖魔調伏で名を馳せた先祖達。

 そんな奇妙な縁から、頼政と泰成は若かりし頃よりの旧友同士なのであった。

 気の置けない男女の間柄でありがちなのは色恋沙汰などの浮いた話だが、この二人の場合は全くと言い切って良いほどに皆無。酒を酌み交わすくらいがせいぜいの、あくまで『良き友人』としての範疇に収まる程度の付き合いでしかなかった。


「ときに、頼政様は釣りをおやりになった事は?」

「……鴨川で二、三度釣り糸を垂らしただけだが、そんな事を聞いてどうする?」

「ならば、狙った獲物を釣り上げるにはそれ相応の上等なエサ・・が必要だという事はお分かりでしょう? 正直、私としてはこの妖怪が犯人であろうとそうでなかろうとどうでも良いのですよ。きちんと役目を果たしさえしてくれれば、ね」

「囮にするつもりか?」


 泰成の真意をようやく理解した頼政の問いに、しかし彼女は答えない。

 代わりとばかりに妖怪少女に歩み寄る。

 先ほど自分で『喉笛を噛み千切られる』とか何とかほざいていたくせに、怯えや躊躇いは微塵も感じられないゆるりとした歩み。むしろ妖怪よりも妖怪らしい、人外じみた気配を纏っている。

 寒気に襲われた頼政はこの時初めて心の底から、どうして今の今まで考えもしなかったのかと不思議に思えるくらいに当たり前な疑問を――泰成に対しての疑念を抱いた。

 この女は本当に人間なのだろうか、と。

 だが、答えを得る機会は永久に訪れない。

 何故なら、妖怪の少女が目を驚愕に見開いたのとほぼ同時――泥のように濃密で重苦しい妖気が御所全体をビリビリと鳴り震わせたからだ。

 頼政がこれまで駆け抜けて来た戦場など児戯に等しく、足元にも及ばない。耐え難い吐き気を催し、武人でさえ意識を保つ事もままならないほどの殺意。


「……来たようだね」


 圧し潰されそうな憤怒の渦の中で、ただ一人平然と。

 安倍泰成だけは歪んだ愉悦の表情を浮かべて、今か今かと待ち望んでいた客を歓待する。まるで数十年来の知人でも迎え入れるかのように禍々しく、白々しく。

 彼本来の、人を嘲り貪るような口調で。


「ああ……実に百六十年振りだ。月日なんてものは私達からしてみれば大した問題じゃあないけれど、初めてキミに会った時の事がまるで昨日のように思えてくるよ」


 ざり、ざり、と地を踏む草鞋。

 篝火の光を呑み込む闇色の着流し。

 右手に握る白刃と、怒気を孕んだ両の目だけが宵闇に浮かぶ。


「――どうして」


 それまで沈黙を貫いていた黒髪の少女が口を開き、叫ぶ。

 彼女を守るために前に立った人影に向けて、悲痛な声で、叫ぶ。


「どうして来たのさ――師匠ぉ!!」



 ◆ ◆ ◆



 きっかけは些細な言い争いだった。

 それも、口論だと思っているのはぬえだけで――実際にはワガママを言う子どもを屍浪が冷静に諭す形の、この師弟にとっては毎日のように繰り広げている馬鹿騒ぎとほとんど変わらない、およそ言い争いとは形容し難い日常の一幕が事の発端であった。

 端的に、掻い摘んで述べるとするなら、ぬえの向上心――あるいはライバル意識が触発されて暴走した結果とでも説明すれば良いのだろうか。

 周囲があまりに桁外れな強者ばかりなので控え目になってはいるが、ぬえは元々格上相手にも食ってかかる勝ち気な少女。同種同名の『鵺』が都で名を馳せているという噂を耳にしながら、他人事だと黙って聞き流したりするような大人しい性格ではなかった。

 その気質が、今回ばかりは悪い方向に作用してしまったのだ。

 たとえば怨霊や他種族の妖怪であったなら。

 都ではなく、別の場所であったなら。

 ぬえもここまで無謀な行動に移ったりはしなかっただろう。

 結界に阻まれて暴れるどころか手も足も出なかった忌々しい舞台。ただでさえ自分は未だに半人前扱いなのに、と多少の嫉妬心と焦りが生まれて当然だった。

 難色を示す屍浪の制止も聞かず、逸る心に身を任せて。


 その結果がこのザマだ。


 あまりにも惨め過ぎて視界が赤く染まっていく。

 屍浪の能力を頼る事なく、自分一人で結界を破る事が出来た。それ故に慢心し、侮り、何故通り抜けられたのか――その原因にまで頭が回らなかった。

 あの時よりもぬえの力が増していたから。

 確かにそれも少なからずあるだろう。

 しかし、何者かの手によって結界が弱められているとは考えもしなかった。

 今なら屍浪が止めた理由が分かる。

 自分は強くなどなってはいない。強くなったと――そう錯覚していただけだ。

 だからこそ、師匠は『お前にはまだ早い』と止めたのだ。

 彼が教えようとしていたのは他者を蹴落とし見下す野獣の如き暴力ではなく、この過酷な世界でも折れず挫けず生き抜いていくための術――鋭い洞察力と強靭な精神力。

 なのに、自分は得た『力』の意味をはき違えた。

 顔を地面に押し付けて、漏れそうになる嗚咽を必死に噛み殺す。

 憧れていた師匠の『強さ』を否定してしまった自分が悔しく、ただの釣り餌として扱われている自分が憎らしく、親の仇のように恨めしい。

 ぬえは己の命を諦めていた。

 勝手に飛び出して勝手に捕まったのだから、助けなど来る訳がないと決めつけていた。

 故に――


「――――ぁ」


 黒の少女は目を見開いて驚愕する。

 冷たい鎖で縛られた彼女の身をやんわりと包み込む、苛烈でありながらも優しさに満ちた妖気。周囲に戦慄を撒き散らすその波動は、しかしぬえにだけは安らぎを抱かせる。

 間違うはずもない。

 まともに顔も上げられない。だが視界の端で揺らぎはためく黒衣の裾と、だらりと下げられた太刀の切っ先を――彼を『彼』たらしめる証を見間違えるはずもない。


「――どうして」


 耐え切れず、ぬえは叫ぶ。


「どうして来たのさ――師匠ぉ!!」


 いよいよ自分がみっともなくなってくる。

 こんな馬鹿馬鹿しい失態の尻拭いをさせてしまう事が。

 また彼の手を煩わせてしまう事が。

 歯痒く、惨めで、泣き出したくなるほどに許せない。

 助けに来なくても良かった。救われなくても良かった。

 命を捨てて幕を下ろす覚悟なら出来ていた。

 なのに――


「――よく耐えた。頑張ったな……ぬえ」


 その言葉は、どんな罵詈雑言よりも深くぬえの心に突き刺さった。

 そうだ。この男は何時だってそうだった。

 この男は他ならぬぬえの覚悟でさえも打ち破り、易々と踏み越えて。

 失いたくないから。

 生きて欲しいから。

 他人の気持ちなど考えず、ただそうしたいから助けようとする。

 人間のように自分勝手に、妖怪らしく己の欲望に忠実に。


「まったく何やっとるんじゃ、こんな矢傷までこさえおって。嫁入り前なんじゃからもちっと自分を大事にせんか阿呆」

「あ、あんた達まで、何で……?」

「あら、妹分を助けるのに理由が要る?」

「いなきゃいないでなんか落ち着かないのよ」


 助けに来たのは屍浪だけではなかった。

 涙が滲みぼやける光景の中。

 邪魅が、幽香が、紫が。

 大地に打ち捨てられたぬえの身を案じるように寄り添い、慈しむように抱き上げて、今にも襲い掛かっていきそうなギラギラとした目つきで陰陽師の女を睨み付ける。

 一介の居候でしかないはずのぬえのために。

 彼と彼女達は煮え滾った激情を露わにする。


「あの時の面々が揃い踏みか。鬼がいないのが残念と言えば残念だけど、これだけの大妖怪が一堂に会すと流石に壮観――まるで本当に百六十年前に戻った気分だよ」

「黙れ」


 女術師の軽口を、屍浪は一言で斬り捨てた。

 小さく簡潔に、けれど有無を言わせぬ圧力をもって。


「頼むから……もう口を開いてくれるな。お前の声を聞くだけで虫唾が走る。百六十年前の因縁なんぞ知ったこっちゃないしどうだって良いんだ」


 白刃をゆらりと突きつけて、彼は告げる。


「お前は俺の大事な弟子を傷つけた。だから俺は――お前を殺すよ、晴明」



 ◆ ◆ ◆



 溢れ出す殺気とは裏腹に、屍浪の心は凪いだ海のように落ち着いていた。

 気が狂いそうな怒りが屍浪からそれ以外の感情の一切を奪い去り、あくまで一時的なものではあるが、嵐の前の静けさとでも言うべき冷静さを取り戻させているのだ。

 音が死に絶えてしまったかのように辺りはシンと静まり返り、針のごとき痛みを生む無音だけがこの場を我が物顔で蹂躙する。

 音無き世界の中、屍浪は眼前で笑む女に――否、女の姿を取るかつての安倍晴明に刃を向ける。その切っ先は微塵も揺らがず、華奢な骨肉の内で脈動し続けているであろう心の臓腑に、ピタリと寸分の狂いもなく狙いを定めていた。


「……晴明、か。今となってはその名前も懐かしく感じる」


 心の底から懐かしそうに言葉を紡ぐ晴明もまた、この場にそぐわぬほどに落ち着き払っていた。

 千人の兵士でも敵わぬ大妖怪達を前にしてもなお顔色一つ変えずに平然と、この場においては異常極まりない泰然たる態度で、人間の範疇を踏み外した陰陽師は語る。


「それにしてもよく気が付いてくれたね? 中身はともかく、この肉体は私の血を受け継いだだけの、本来なら霊能力なんかまるでない真人間に過ぎないのに」

「……いくら器を変えようと、その胸糞悪い気配だけは変わらんよ。それに、ぬえをエサにして俺を誘き寄せるなんてふざけた事を考えんのはお前ぐらいなもんだ。お前ほどの術者なら一度死んで生まれ直す事くらい造作もないだろうからな」


 転生。

 生まれ変わり。

 ある意味では人類の永遠の夢とも言えるその呪法は、しかしこれまで本気で実行しようとした者は誰一人存在しない。最低でも一度は死を迎える術そのものの難易度も然る事ながら、それ以上に、本来生まれるべきであった生命を冒涜する悪鬼羅刹の所業に他ならないからであった。

 子を身籠った母体を利用するなど誇り高き陰陽師として――そもそも人間として唾棄すべき外道の行いであり、最初に考案した術師が浅慮な己を悔いて自害したほどなのだ。

 だがこの女は。この男は。

 そんな先人の想いを踏み躙った。


「不老だけじゃ飽き足らず人の尊厳まで捨てたか。いよいよどっちが化け物か分からなくなったな」

「キミのそんな台詞を聞けただけでも、わざわざここまでした甲斐があったというものだよ。……ところで、もう一つの仕掛けの方は気付いているのかな?」


 晴明は大仰な仕草で両腕を左右に伸ばし、爪先を鳴らす。

 繰々と、狂々と、白拍子さながらに袖を揺らして舞う狩衣姿。飛び石でも伝い渡るようなその動きは、羽を広げた蝶の死体を思わせる残酷な美しさに満ちている。


「キミの弟子がここまで這入り込めたのは、私が都全体を覆っている結界を限界まで弱めていたからさ。キミからすれば抜け穴だらけで整備の行き届いていない大雑把なものなんだろうけど、本当はこの結界、護符や呪具じゃなく地脈を利用しているだけあって中々に強力な代物なんだよ? この私でも準備や調整に三月は費やしたくらいのね」


 まあ誰にも見られないようにしてたから余計な時間が掛かって当然なんだけど。

 そう言って晴明はトンッ、と無数に設置された庭石の一つに飛び乗った。呑み込まれそうな新月の夜空を背景に、軽い片足爪先立ちの体勢のまま屍浪を見据える。


「説明も終わったところでキミに一つ質問をしよう。手入れさえ怠らなければ怨霊・妖怪のほとんど全てを拒絶し弾くこの大結界。だけど今は私の呪法によってその力の大半を削ぎ落とされている。では……」


 晴明は笑みを深くした。

 ニィィ――と両の口角が吊り上がり犬歯が剥き出しとなったその顔は、その眼は、獲物を狙う飢えた獣の貌とでも呼ぶべき凄惨なもの。それでいて酷く酷く人間らしい、ドス黒い悪意に染まり切った獰猛な女の面が、三日月形の口を歪めて言葉を放つ。


「削ったその力の“余り”は、一体どこに行ったのだろうね?」


 屍浪は弾かれたように周囲を見渡した。

 御所を囲む塀という塀、木という木、柱や石灯籠に至るまで。

 あらゆる場所に赤紙の呪符が貼り付けられているのを確認した屍浪は、


「紫ぃっ!! 早く皆を連れて此処から――」


 ――離れろ、と叫ぶだけの時間はなかった。


「もう遅いよ」


 瞬間。

 鉄槌を振り下ろされた蛙のように、屍浪達は地面に叩き付けられた。

 頭上から絶え間なく放たれる重力の奔流によって全身が圧し潰され、立ち上がる事はおろか指先一つ満足に動かせない。それでもどうにか意識を失わずに済んだのは、紫達の今にも消え入りそうな呻き声を耳にしたからだ。


「ぐっ……し、ろ……」

「お、じさ……」


 屍浪と同じく地面に磔にされ苦悶の表情を浮かべる少女達。

 あの華奢な肉体では、この桁外れの重力場に耐えられない――!


「いやいや、キミ達全員の動きと能力を封じられるだけの『陣』を張り巡らせるのは流石に苦労したよ。発動範囲を御所の内側だけに留めて、大結界から削った余剰分の力を一点集中させて、調整に調整を重ねてようやく形になったんだ」

「さっ、きまで、お前がふらふら動いてたのも、反閇を成立させるため、か」


 ――反閇。

 陰陽師が邪気を払い除くため、呪文を唱えながら千鳥足に歩む呪法。

 思惑を看破するだけの判断材料は揃っていたはずだ。にもかかわらず無警戒に立っていただけの己を悔やみ、屍浪は奥歯を噛み締める。

 重力陣に更なる補強を重ね掛けするための小細工を見逃し、結果として、命よりも大切な家族を危険に晒す事になってしまった。

 晴明に対する怒り以上に、自身の不甲斐なさが許せない。


「……さて。キミがこうして私の手の中にある以上、エサになってくれた鵺にも、もちろん他の娘達にも用はない。かと言ってこのまま逃がしても後々面倒な事になりそうだ。一体どうしたら良いだろうね?」


 問い掛けではなく独白。

 晴明の中では既に結論が出ている。

 その答えは術師の背後――目も鼻も口もないのっぺりとした白面を着けた巨体の形で現れた。かつて大江山で屍浪を殴り飛ばした巨躯の化け物が、腰に差した両刃の剣を荒々しく引き抜く。

 重苦しい歩みの先に――血の気の失せた幽香が倒れている。


「とりあえず、首を飛ばせば死ぬかな?」


 直後。

 屍浪は、自分の中で『何か』が切り替わる音を確かに聞いた。

 ギシミシと悲鳴を上げる骨格を無視して、強引に地面から身を引き剥がそうとする。震える膝に手を突いてどうにか踏ん張り、並の人間ならば骨も残さず潰し消される重力の枷を一身に背負う。


「う――ぐ、があああああああっ!!」


 変形しかけている右腕で懐から取り出したのは、たった一枚の紙切れ。


「待て……屍浪! 何を、するつもりだ……!?」


 屍浪がしようとしている事に感づいた邪魅が悲鳴を上げる。

 しかし屍浪は止まらない。

 符に妖力を流し込み、邪魅達の真下に四人がどうにか通れるだけのスキマを開く。

 能力を封じられている中での術の敢行は、屍浪に想像を絶する負荷を与えた。もはや痛みという感覚すらも失われ、巨山でも載せらているような重圧だけが屍浪の感じ取れる全てであった。


「こいつの狙いは、俺だけだ。お前達は此処、から逃げろ」

「ばっ、馬鹿な事を言うでない! お主を残して逃げるなど、そんな事……出来る訳なかろうが!!」

「私だってヤだよ! 帰るなら師匠も一緒に――」

「いいから行け!!」


 背を向けたまま怒鳴る屍浪だが、スキマに沈みつつある少女達も黙ってはいない。

 決して落ちまいと縁にしがみ付き、転移符を渡した張本人でもある紫が屍浪からスキマの支配権を取り戻そうとする。本来の彼女ならば造作もないはずだが、能力が封じられ、加えて気が動転しているこの状況では、その懸命な努力も大した意味を成さなかった。


「早くしなさい紫! このままじゃおじさんが――!」

「分かってるわよそれぐらい! でも――言う事を聞いてくれないの!」


 お願いだからおじさんを助けてよ! と泣き喚く紫を、異空間に蠢く目玉の群れが見つめる。その瞳に宿る感情は、子を守ろうとする親のそれに酷似していた。

 紫達を逃がそうとしているのは、屍浪の意思とスキマの意思。

 だからこそ、今この場において、スキマは紫ではなく屍浪の命令に従うのだ。思いを同じくする者に手を貸すのは至極当然の事であり、あるじを守る事こそが何よりも優先すべき使命だったから。

 たとえそれが、懇願する少女の気持ちを裏切る形になったとしても。


「ちゃんと安全な場所まで届けてくれよ?」


 無数の目が静かに瞼を閉じる。

 それは了承の意であると同時に、屍浪の冥福を祈っているようでもあった。

 抵抗も空しく、少女達はついにスキマに呑み込まれて。

 閉じた後にはもう、何も残らなかった。



 ◆ ◆ ◆



 水中にも似た奇妙な浮遊感の中を、『それ』は一直線に落ちていく。

『それ』は生物でなかった。

 鼓動も、脈拍も、思考も持たない。

 先に落とされた少女達のように口々に泣き叫ぶ事も、どうにか抜け出そうともがく事もなく、ただただひたすらに主人の意思を汲んで突き進む。

 彼が生まれ出たその瞬間から共に在り続け、何百年も、何千年も、この世の誰よりも近くで彼を支えてきた『それ』は――しかし今は彼の傍にはない。

 他ならぬ彼自身がそうある事を望んだからだ。

 彼との唯一の繋がりであり、掛け替えのない相棒の本体とも言える『それ』は、やがて沈む速度を弱めて、悲しみに震える小さな両腕に抱き留められる。


『それ』は、白鞘に納められた一振りの太刀であった。


 馬鹿者――と。

 涙が滲む樹精の少女の嘆きは、何処にも届く事はなかった。

アンケート的な。


もうすぐクリスマスです。独り身には辛いらしいあの日です。


PVも40万超えてたので、ついでの記念に屍浪サンタなクリスマスネタの外伝でも書こうかと思ってます。


『あのキャラにこんなプレゼントしたい』とかご要望あったらそれも話に入れようと思ってますので気軽にリクエストとかどうぞ。


あ、シリアス要素ゼロで幻想郷が舞台なのでまだ登場してない原作キャラにプレゼントでもOKです。


……後書きって苦手です。本編の雰囲気壊しそうなんで。


次で第四章最終話!

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