第二十五話 不遇。京の都で鵺が泣く
えー、まず最初に謝罪を。
三週間も空けてスミマセン!!
「――ふぎゅっ!?」
◆ ◆ ◆
人里離れた山中に、大小二つの影が浮かぶ。
大きい方の影は隻腕で痩身長躯、黒い着流しを身に纏い、腰に白鞘の太刀を帯びた壮年の男だ。草鞋履きの右足を一歩前に出した体勢のまま、狼の毛並みのような白髪頭をがしがし掻いて、やぁれやれ……と空虚な視線を彷徨わせている。その様子はとても気怠げかつ物憂げで、酷く投げやりな態度にも見えた。
狂骨・屍浪。
柄にもなく、本人も珍しいと思えるくらい途方に暮れている。
因果応報――邪魅や幽香、紫を置き去りにした報いなのだろうか、コレは。
仮に、もし本当にそうだとするならば、屍浪とて男の端くれ――渋々ながらも己の不遇を受け入れるつもりではある。しかしそれでも、どうしてこうも俺にばかり、と辟易せずにはいられない。
新たな放浪の旅を始めようとした矢先の面倒事。
叶うなら、目を背けて見なかった事にしたい。だが足裏から確かに伝わる柔らかな感触が、無興味無関心でいる事を許さない。
重々しい吐息を漏らし、足元を見下ろす。
右足で踏みつけた“それ”はヒトの形――もっと言えば、子供の姿をしていた。
黒髪で、華奢な手足。
少女――なのだろう、おそらくは。
黒地のワンピースに同色のニーソックスという明らかに女物の衣装を着ている。なので屍浪はそう判断した。うつ伏せに倒れているため素顔や性別の確認はまだ出来てないが、まず間違ってはいないだろう。
そして同時に、人間ではないという確信も抱く。
「……妖怪、ねぇ」
腕に巻き付いた蛇よりも。
傍らに落ちている三叉槍よりも。
平安の日本では在り得ない衣服よりも。
それよりも何よりも、少女の背中に生えた奇妙な翼に屍浪は注目する。おおよそ翼らしからぬ形状であるため注視せざるを得ない、と言った方が正しいか。
右背から三枚、左背から三枚――計六枚。
片や赤い鎌刃状。
片や青い矢印状。
こんな翼で本当に飛べるのかと他人事ながらも心配になるが、あらゆる意味で妖怪に常識は通用しないので、屍浪のもっともらしい疑問は杞憂という他ないだろう。航空力学やら何やらを妖怪に当て嵌めようとする事自体が間違っている。そもそも、翼のない妖怪だって飛び回るような世界なのだから。
右足を退かしても、少女は起き上がる素振りを見せない。微かに呻き声を漏らすだけで、指先一つ動かそうとはしなかった。
動かないのか。
動けないのか。
文章にすればたった一文字の違いではあるけれど、前者だった場合は気をつけなければならない。か弱い少女の姿に化けて人間を襲う妖怪などいくらでもいる。まあこの少女の場合、独特過ぎる翼を露にしている時点で可能性は極めて低いどころか皆無と言い切れるし、万が一誘いだったとしても、そんな稚拙な罠ごときで――騙し合いで不覚を取る屍浪ではないが。
「……生きてるかー?」
「………………」
返答はなし。
声を出す気力すらないらしい。
ならば、と今度は鞘の先端で軽く突く。頭、肩、背中、腰、太もも、ふくらはぎと順々に小突いていき、脇腹辺りに差し掛かったところで、
「うひっ!?」
小さな身体がビクリと跳ねた。
初めて返ってきた反応らしい反応。しかし続きはなくそれっきりで、少女はまた無言になってしまう。
「………………」
「………………」
しばしの沈黙の後。
「……ふむ」
屍浪は鞘で少女の頭を押さえて、草鞋を脱いだ爪先で脇腹を重点的に刺激し始めた。時にはゆっくりとなぞるように、時には触れるか触れないかの絶妙な力加減で。何の役に立つのか屍浪本人にも分からない無駄過ぎる足技を、無表情のままこれでもかと惜しみなく披露する。
「うひゃひゃひゃひゃひゃ――あはははははははははっ!? さっきから何、ってか誰さ一体!? あ、ちょっ、ちょっと待ってそこは弱いから、ひいっ!? そこだけは、そこだけはダメってうひひひひひ!? やーめーてえええええええぇっ!」
壊れたように大爆笑しながら――させられながら――ジタバタと手足を暴れさせて必死の抵抗を試みる少女。けれど頭を押さえられているため抜け出す事も出来ず、どころか身体を変に捩ったせいで刺激はますます強くなるばかり。
完全に屍浪の掌の上で弄ばれている。
何者かが救いの手を差し伸べに現れる事もなく。
笑い声だけが空しく木霊するのであった。
そして数分後――
「ひー……ひー……ぐふっ、はひー……」
息も絶え絶えで身体はピクピクと痙攣しているが、それでも死に体同然だった最初と比べれば大分元気になったように思える。
さて、と屍浪は太刀を差して草鞋を履き直し、
「……生きてるかー?」
「もう少しで笑い殺されるとこだったよ!」
少女が弾かれたように身を起こす。
傍らに落ちていた三叉槍はやはり彼女の得物であったらしく、素早く拾い上げて距離を取り、穂先を鋭く突きつけてきた。使い慣れているらしく堂に入った構えではあるが、屍浪からしてみれば人間不信の仔犬が精一杯虚勢を張っているのと大差ない。
据わった瞳に宿るのは敵意と、少しばかりの怯え。
まあ倒れ伏して無防備な状態でいるところをいきなり、それも頭を押さえられて状況把握もロクに出来ないまま弱点を攻め続けられたのだから、怯えるなという方が無理な話か。
「あんた……もしかして人間?」
「そう見えるってんなら、そうなんだろうねぇ」
念には念を入れて擬態しているのだからそう思われても仕方がない、というか、妖怪冥利に尽きる褒め言葉ではあるのだけれど――ちと注意力が足りてないんじゃないかねこの娘はと屍浪は思う。
人間でごった返した町中ならいざ知らず、此処は妖怪が跳梁跋扈する山の奥深く。そんな場所に一人ぽつんと、それも簡素な着流しなんて格好でいる者を安易に『人間』と判断すべきではない。咄嗟の事で散漫になっているにしても、少しばかり不注意が過ぎる。
「……で、俺が人間だったら何だってんだ?」
「好都合だって事よ!」
そう叫ぶや否や、少女は翼を翻して宙を舞う。
ぼんやり見上げる屍浪の視線の先で、少女は己の胸に右手を伸ばし――
直後にその『変身』は起きた。
いや。
果たしてそれを『変身』と呼んで良いのだろうか。
他の妖怪にあるような筋肉の肥大も骨格の形成もない。皮膚が裂ける音も爪牙が伸びる音もない。全ては無音不動のまま、あるのは『過程』をすっ飛ばした『結果』のみ。
頭部は猿、胴体は狸、四肢は虎、尻尾は蛇。
そんな奇妙奇天烈極まりない異形のモノが、深紅の瞳でこちらを睨む。
「さあ刮目しろ、そして恐れ戦き乱れ狂うがいい! 正体不明千変万化、轟く悪名数知れず! 音に聞こえた大妖怪――封獣ぬえとは、私の事だ!!」
左手があったら拍手してると思う。間違いなく。それほどの衝撃を受けた。もはや感激と言ってもいいかもしれない。
一体何年振りだろうか――こうも清々しくて面白過ぎる馬鹿に出会ったのは。
轟く悪名とか言われても、鬼族の宴の席で封獣ぬえなる妖怪の話題が出た事など一度もないし、本当に力のある大妖怪なら頭踏まれた挙句にくすぐられて呼吸困難になったりするものか。そもそも野垂れ死に一歩手前だった時点で説得力や信憑性などは完全に失われてしまっている。
とは言え、相手が盛大に見得を切って名乗っているのだから、こちらも何かしらの反応を返すのが妖怪なりの礼儀と言うものだろう。
なので屍浪は、
「……おおー」
と生返事をしてみた。
だが怪物は屍浪の態度がご不満であるらしく、
「何よその『頑張ってるっぽいからせめて形だけでも驚いてあげようか』みたいな顔は! 私が怖いはずでしょ? 正体が分からなくて恐ろしいはずでしょ!? そういう風に見えてるはずなのに、なのにどうしてあんたは平然としていられるのよ!」
「――って言われてもねぇ」
最初からその姿で、たとえば木の上からでもいきなり降って来たりとかすれば多少は驚くかも知れないけれど、さんざん弄られた後に取り繕うように変身されても『あ、なんか大きな猿になった』くらいにしか思わない。
少女の姿と怪物の姿、どちらが本当の姿なのかは分からない――少女の姿でぶっ倒れていたのだから十中八九そちらだろう――が、数百年も生きてない妖怪など屍浪を驚かすにはまだまだ迫力不足。こちとら伊達に年食っちゃいないのだ。
「ぐぬぬぬ……、な、舐めるなぁ!!」
言って、おそらくは咆哮を上げようとしたのだろう――怪物は大きく息を吸い上体を仰け反らせて、
ぐぎゅるるるるるるるるるるぅぅぅっ――……
鳴り響いた怪音によって、動きを強制的に停止させられた。
「………………」
「………………」
痛々しい沈黙。
ええと。
やはりこの場合、年長者として適切なフォローすべきか。しかし、恥らっている乙女に対して一体どんな言葉をかけてやればいいのやら。状況があまりに特異過ぎるため、長生きしてる屍浪おじさんにも全く分からない。分からないが、このまま黙っている訳にもいかない。今にも泣き出しそうな声が上から零れ落ちてくるし。
「わぁ――」
ひとまず、真面目に驚いてみようと考えて、
「なんて恐ろしい腹の虫なんだー」
あからさまな棒読み口調で言った。言ってしまった。
となれば当然、
「う――うわああああああああん!!」
ぬえの涙腺は容易く決壊した。大号泣である。何時の間にか変身も解けてしまい、少女の姿のまま地面にへたり込んで恥も外聞もなくひたすらに泣きじゃくる。
「ひっく……なんだよぅ、なんだよぅ! こういう時は黙ってそっとしておいてくれるのが大人の対応ってもんじゃないかぁ! どうしてわざわざ傷口抉ったりするのさぁ!」
「どうしてかと言われれば……面白い、から?」
「人でなし!!」
妖怪です。
◆ ◆ ◆
「ちったぁ落ち着いたかい?」
「むー……」
片膝を立てて座る屍浪に、ぬえは肉にかぶりついたまま唸り声を返した。まだ怒ってはいるようだが、不満を撒き散らすよりも食事を優先しているらしい。一心不乱に頬張り続けて、次から次へと休みなく肉を消費していく。
二人の間では焚き火がパチパチと火花を飛ばし、枝に刺して並べた獣肉を炙っている。溶けて零れた脂が炎や焼け石に落ちる度に、食欲を刺激する匂いと音が弾けた。
「んっ!」
「へいへい」
十個目の肉を食べ終えたぬえが、口をもぐもぐ動かしながら手を突き出す。早く次を寄越せと飢えた両目が雄弁に語る。屍浪は苦笑を浮かべつつ、程よく焼けた肉を数本まとめて差し出した。人間ならばとっくに満腹になっている量だが――さすがは人外と言うべきか、妖怪少女のペースは一向に衰える様子を見せない。
「もう少し味わって食ったらどうだ」
「むー、むいー、んぐぐっ!」
「いや何言ってんのかちっとも分からんし。つか口ん中にモノ詰め込んだまま話そうとしない。とにかく量ならまだあるんだから、そんなに急がなくても大丈夫だぞ?」
どの道、俺らだけじゃ食い切れんしな。
そう言う屍浪の背後には肉の塊が鎮座していた。
体長三メートル近くある巨大なヒグマ。
山の主とでも呼ばれて畏怖されそうな堂々たる体躯だが、妖怪である屍浪から見れば動いて吠えるだけの食料でしかない。出会った瞬間に命を刈り取られ、血抜きされて解体されて、火に炙られて二人の腹の中に納まるという哀れな末路を迎えたのだった。
「――にしても、わざわざ佐渡から海を渡ってやって来るとはねぇ。行動力があるっつーか無茶苦茶っつーか……若い奴はこれだから。おじさんにゃあ真似出来ねぇよ」
屍浪は言う。
筏に乗って中国往復旅行をした身の上だが、そんな事は完璧に棚上げして、無鉄砲な若者の顔を見ながら心底愉快そうにクククと笑う。
屍浪が妖怪である事も含めて色々と情報を交換した結果、ぬえは元々、日本海に浮かぶ島で仲間と共に人間を驚かせながら暮らしていた事が分かった。仲間――といっても同種族の鵺ではなく、二ツ岩マミゾウなる化け狸の頭領であるらしいのだが、それはともかくとして。
「別に島暮らしが嫌いになったとかそういう訳じゃないんだけど、何ていうかさ……試してみたくなったんだよねー。妖怪妖怪って恐れられてはいるけど、それは島の中だけの話でしょ? だから、外の世界にも興味あったし丁度良いかなぁって思って」
私の力を燻らせておくのも勿体ないし、とぬえは自信過剰とも取れる口調で言う。
「確かに、自分の力がどれほどなのか知ってて損はないわな」
「でしょでしょー? けどうちのマミゾウったら頭が鉄並みに固くてさー、『お前にはまだ早すぎるわぃ』とか偉そうに決めつけてくれちゃってんのよ? あんたは私の母親かっての。あんまり悔しいから黙って飛び出してきちゃった」
「至極まともな理屈を言ってると思うがねぇ俺は」
傍から見ている分には愉快で楽しいお馬鹿さんでしかないが、だからこそ身内――保護者のような立場にいるマミゾウとやらは心配で心配で仕方がなかったのだろう。事実、屍浪と出会わなければ、ぬえはそのまま餓死していた可能性だってあったのだ。
「それで、これからどうするつもりだ? 急ぐ旅でもねぇし、人間がいる所に行きたいってんなら都まで案内してやるが?」
また何処かでばったり倒れられても後味が悪い。とりあえず寝食に不自由しない場所まで送り届けてやろうと思い提案してみたのだが、それを聞いた途端、何故かぬえは苦虫を噛み潰したような――酷い仕打ちを受けた子供のような表情になった。裾を両手で握り締め、苛立たしげに屍浪を睨む。
「都には……もう行ってきた」
「は? ――いや待て待て、だったらどうしてこんな山奥で腹空かせてぶっ倒れたりしてたんだ? 向こうにゃ人間が大勢住んでるし食料だって腐るほどあったはずだろ。まさか中に入れなかったって訳じゃあるまいし」
「………………――のよ……」
「あぁ?」
「だぁかぁらぁ、入れなかったのよ都の中に! 見えない壁みたいなのに邪魔されて一歩も前に進めなくなったの! 進めないんじゃ戻るしかないでしょ文句ある!?」
逆ギレされた。
何だか、似たような会話を随分昔にしたような。
ぬえの目元には小さな小さな水溜りが二つ。
一度は治まったはずの涙が再び零れ落ちようとしている。
「あんなのズルイよ聞いてないよ! 人間は自由に出入り出来るのに妖怪だけ入れないなんて反則じゃないのさぁ! あれさえなければ私だって――!」
「見えない壁……ねぇ」
不可視の障壁。
――結界か。
かつて屍浪が暮らしていた――人間に化けて紛れ込んでいた藤原京には存在しなかった代物。物理的な塀や壁で囲まれた町など珍しくもない。しかし、都全体をすっぽり覆う規模の結界となると話は別だ。
昼夜を問わず張り巡らされた霊的な防御壁。
何時、誰が、一体何のために。
どれほど堅牢なのか。自分にも破れないほどなのか。
俯いて地面にのの字を書き始めたぬえには悪いが、
(中々に、面白そうだ)
と、なれば。
「……何とかしてやろうか?」
「ぐすっ――何とかって……何を?」
「結界さえ抜ければお前さん一人でも何とかなると思ってるんだろ? 俺もその見えない壁ってのに興味が湧いた。手ぇ貸してやるよ、封獣ぬえ」
立ち上がり、屍浪は不敵に邪悪に嗤う。
目指すは都。
人間ひしめく、平安京。
◆ ◆ ◆
……。
…………。
………………。
夜。
京の夜。
「たぁすけてええええええええええっ!!」
ぬえ――封獣ぬえ。
自らを『正体不明千変万化の大妖怪』と称する、素敵で愉快な空飛ぶ少女。そんな彼女の叫び声が、闇色の空に木霊し続ける。手にした三叉槍を振るう事も己の能力を駆使して追手を嘲笑う事もなく、蟻の如く群がる陰陽師の集団相手に、ただただひたすら逃げ回るばかり。
井の中の蛙。
その一言に尽きる状況。
「なんで!? なんでなんでなんで!? どうして私の能力が効かないのさぁ!?」
能力を使わない訳ではない。使えない訳でもない。使っても意味がない――と言い表すのが正解だった。
ぬえが持つ『正体を判らなくする程度の能力』。対象に『正体不明の種』を埋め込む事で認識を掻き乱す能力だが、これには穴があった。ぬえがまだまだ未熟であり、己の力を過信しているが故の欠点が。
種を埋め込んだ対象固有の情報を奪い、正体不明にする。どのように見えるかは、見た者の先入観やイメージに左右される。
なるほど確かに、誰かを驚かせたり騙したりして恐怖させるにはうってつけの能力だ。
だが、その真価が発揮されるのは一対一の場合のみ。相手によって姿形が変わってしまうという事は、個々の見え方が違うという事。ある者には虎に見え、ある者には猿に見える。互いにどう見えるかを報告し合い、情報の補強さえ行えば、いつかは勘の鋭い者がその奇妙な矛盾点とカラクリに気付く――気付かれてしまう。
つまりは、自分達が見ている物がマヤカシである事に。
そうなってしまえば、ぬえの能力など無意味と化す。
「来ないでってばああああっ!!」
矢やら呪符やらの攻撃を必死に躱すしかない。
「……予想通りっちゃ予想通りだな」
その光景を、少し離れた屋根の上で傍観する影。
屍浪である。
胡坐を掻き、頬杖を突いて、悲鳴を上げつつ飛び回るぬえに対して溜め息を吐く。
結果だけを述べるなら、この都の結界は拍子抜けするほど呆気なく破る事が出来た。東西南北の四方に聖獣を見立てて展開した代物だが、小さな綻びが見落とされがちで監視も杜撰。あまりに巨大で管理が難しいのは分かるが、守護くらいはもう少し徹底すべきなんじゃないかと思う。
問答無用に全てを遮る文字通りの壁であったなら、流石の屍浪でも手をこまねくしかない。けれど幸運な事に、結界には明らかな指向性――『妖怪や怨霊を通さない』という条件が設定されていた。裏を返せば『それ以外ならば通っても構わない』訳で、結界の認識さえ騙してしまえば簡単に入り込めるのだった。
「いやあああああああっ!!」
それにしても、本当にあの娘は詰めが甘すぎる。下手に行動を起こせばこうなる事くらい想像がついただろうに。
陰陽師の仕事は祈祷や占術などが主ではあるが、そればかりで生計を立てられるほど世の中は甘くない。名のある貴族の専属となるか、修練の果てに他を凌駕する力を手に入れるか。どちらにしろ、『本当の陰陽師』として大成するのはほんの一握りの人間のみだ。
奸計、謀略、果ては呪詛。
富と名声を得るためならば、人間は妖怪以上に残虐になれる。その歪んだ願いを叶えるための力が――陰陽道があるのなら尚更だ。
そんな中に、結界を抜けた妖怪が堂々と姿を現したらどうなるか。
まず間違いなく、今のぬえと同じ状況になるだろう。それなりに堅強な結界に守られているからこそ、この平安京において妖怪の襲撃とは稀に見る大事であり――
「滅多にないから名を上げるにゃ絶好の機会って訳だ」
妬み嫉みで同類を呪い殺すよりも、明確な『災厄』と認識している妖怪退治の方が大手を振って自慢出来るし世間受けも良い。たとえ強大な力を有した妖怪だったとしても、数の暴力で強引に押し切ってしまえばいいのだから。
ともあれ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいもうしないから許してえええっ!!」
「……ま、助けてやるか」
そろそろ限界みたいだし。
言って、屍浪は跳躍する。
太刀を鞘に納めたまま、鬼気迫る表情でぬえを追う陰陽師達の前に、ふわりと音もなく降り立って。
「なっ……だ――」
――れだお前は、と問いかける暇すら与えずに、全員の額を軽く小突いて脳を騙す。廃人にするつもりはない。突き落として見せるのは数分も経てば覚めるような軽い夢。しばらくの間、金持ちになった夢でも見ていてもらおう。
屍浪は振り返り、
「大海を知った気分はどうだ? 蛙のお嬢ちゃん」
「あ、あんた、最初からこうなると分かっててわざと……」
三叉槍を杖代わりにしてぜぇぜぇと喘ぐぬえ。
「そりゃ勿論。お前さんの性格じゃあ、言ったところでどうせ聞きゃしなかったろ? 百聞は一見にしかず、一度痛い目見せた方が手っ取り早い」
「い、今のはちょっと油断しただけよ! 次は絶対に――」
そこでぬえの言葉は途切れる。
屍浪の掌が彼女の顔を覆い、強引に口を塞いだのだ。やんわりと包み込むように――痛みこそなかったが、どういう訳か振りほどく事が出来ない。
「驕るなよ餓鬼が。こんなにわか共の相手もろくに出来ねぇ癖に」
指の隙間、いや、骨の隙間から見えるのは、表情の一切が消え失せた狂骨の姿。
「む――ぐっ……」
「自分の力を過信している大馬鹿野郎に『次』なんかありゃしねぇよ。同じような失敗を繰り返して悲惨に無様に殺されるだけだ。逃げ切る事も反撃する事も出来ずに延々と追いかけ回されやがって。結界さえなければどうにかなる? ふざけんな、馬鹿馬鹿し過ぎて笑う気にもなれねぇ。今のままじゃ一月もしない内に間違いなく殺されるぞ?」
だから、逃げるぬえを黙って見ていた。
無力である事を刻み付けるために。
思い上がった性根を叩き直すために。
――生かすために。
「良く聞けクソ餓鬼。お前さんが何処で無茶して野垂れ死にしようが退治されようが俺には関係ないし御自由にどうぞと言いたいけどな、お前さんが死んだら悲しむ誰かがいるって事ぐらい覚えとけアホンダラ」
「………………」
今この時も、自分の身を案じる誰かがいる。
屍浪自身をも苛むその言葉。
何も言わずに震えるぬえ。
流れる涙は恐怖か、それとも――
そんな彼女の頭をくしゃくしゃ撫でて、
「分かったら一度佐渡に戻れ。そしてマミゾウってのに一から戦い方を教えてもらえ。人間を驚かすためじゃなく、自分の身を守り、最期まで生き抜くための戦い方を。お前さんはまだまだ若いし、俺達妖怪には時間なんざいくらでもあるんだ、百年や二百年修行してもどうって事ねぇだろ」
最後にぽん、と一つ叩いて。
「さ、結界の外まで送ってやる。寄り道せずに真っ直ぐ帰って、まずは黙って飛び出してきた事を精一杯謝るこったな」
帰れと言われても、まだまだぬえは出続けます。
どんな立場でかは次の話で。
次回予告とかもやってみるべきですかねー。