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東方妖骨遊行譚  作者: 久木篁
三章 邂逅別離編
29/51

第二十四話 逃走。そして放浪

妖山――『鬼の巣』における屍浪の立場は少々特殊なものだった。


 賓客にして賓客にあらず。

 食客にして食客にあらず。

 剣客にして剣客にあらず。


 もう百年以上も鬼達と衣食住を共にして好き勝手に暮らしているのだから、客扱いされなくなっても当然と言える。けれどしかし、そこに殺伐とした重苦しい空気はなく、余所者の癖にと疎まれる事も、差別される事もない。

 むしろ、その逆。

 狂骨という他種族でありながら、屍浪は鬼神ざくろに並ぶほどの発言力を有していた。寛容かつ豪放磊落な鬼が相手だから――と事情を知らぬ第三者ならば安直に考えるだろうが、真実はもう少しばかり複雑で、そして微笑ましいものなのであった。

 そもそも屍浪達一行が『鬼の巣』に長逗留するきっかけを作ったのは、ざくろの娘である伊吹萃香と星熊勇儀の二人。

 一本角と二本角を持つ、鬼の少女達。

 今でこそ古今東西怪力無双、抜山蓋世の大妖怪として遠方にまで名を馳せているが、幼い頃はとにかく屍浪にべったりだった。右腕にぶら下がったり頭に引っ付いたり背中にしがみ付いたり――幼児でも鬼は鬼、何度か力加減を間違えて屍浪を殺しかけ、その度に拳骨やら尻叩きやらの教育的指導を受けて大泣きして、それでも彼女らは手加減無用の白骨を嫌ったりはしなかった。

 何がどうしてそういう結果になったのか。

 妖怪も鳥獣も人間も関係なく、力で劣ってしまう幼子は、自分を庇護してくれる存在を見抜く能力に長けている。大抵は親兄弟――家族と相場は決まっているが、どうやら萃香や勇儀の場合は屍浪をその対象として捉えているらしかった。実の両親よりも祖父母や親類縁者を慕う場合もあるのだから、それ自体はよくある話だ。

 とは言え。

 萃香や勇儀のみならず、他の子鬼達全員から懐かれる――なんて展開は、流石の屍浪も予想してはいなかった。おそらくは『鬼ではない面白そうな何か』か、あるいは『よく遊んでくれるおじさん』的な立場にあったのだろうと今更ながら冷静に考察する。

 懐かれる。つまりは信頼されているとも言える。頼りにされているという事はすなわち、助けを乞われる事も多々ある訳で。

 毎晩毎晩、連日連夜――というほど頻繁にではなかったけれど、皆が寝静まった頃に揺すり起こされるのも、ある意味では屍浪の日課となっていた。

 今日は誰だ……と呆れつつ上体を起こせば、縋るようにこちらの顔色を窺う――情けなく半ベソ状態になった女の子鬼が一人。

 言葉は必要ない。

 子鬼が着ている衣服の、股の辺りがぐっしょりと盛大に濡れているのを見れば、何があったのか――何をどうしてほしいのかは一目瞭然。

 雑魚寝している他の連中を起こさないよう、足音やら気配やらを能力で誤魔化しながら、それまで子鬼が寝ていたであろう場所に歩み寄る。

 敷き布団代わりの毛皮に、大きな染みが出来ていた。

 形は――琵琶湖か。


 怒られるだろうから親には知られたくない。

 からかわれるから他の子にも知られたくない。

 つまりは、証拠隠滅してほしい――と。


 面白い事に、粗相をした誰も彼もが似たような台詞を吐く。

 後はいつもの通り。

 水場に連れて行き身体を洗うよう子鬼に指示して、その間に汚れた毛皮を焼却処分して、自分が使っていた分を敷き直して、戻って来た小便垂れの身体を丁寧に拭いてやって着替えさせて、『さっさと寝ろ』と言い放って自分も寝床に帰って横になる。子鬼が抱きついてくるのもいつもの事。

 其処まで引っ括めてが屍浪の一日。

 それが何年も何年も何年も何年も――何世代にも渡って続いたのだから、現在の『鬼の巣』の主力・中核を担う若い衆のほぼ全員が屍浪の『お世話』になっていると言っても過言ではない。


 だからこその発言力で。


 だからこそ――口が、滑ったのだ。


 子供が悪い夢を見て漏らすなど。

 屍浪にとっては、よくある出来事だったから。


 故に今――


「待っちなさああああああああいいっ!!」

「……それで待つ阿呆がいたらお目にかかりたいもんだ、と」


 迂闊過ぎる自分に一太刀浴びせてやりたいなどと、割と真剣に悔やみつつ、背後――上空高くから怒声と共に降り注ぐ風の礫を全走力で回避する羽目に陥っているのだった。



 ◆ ◆ ◆



 穿つ。

 穿つ。

 穿つ。


 数えきれないほどの風弾が葉を貫き、幹を削り、大地を抉る。

 限界まで強引に圧縮されて撃ち出される大気の塊。

 大きさこそ弾丸並み――超高密度、超極小サイズの嵐と言い換えた方が正しいそれは、しかし破壊力は微塵も減退する事なく、触れるもの全てを容易く喰らい裂いていく。

 威力も然る事ながら、問題はその数。

 十や二十程度ならば斬るなり打ち払うなりして防ぐ事も出来たのだろうが、百や二百となると流石の屍浪でも逃げの一手を取らざるを得ない。


 不幸の連続。


 文に刻み込んでしまったトラウマ(というより黒歴史)、そして自身の迂闊さを正当化する訳ではないが、それでも、そう吐き捨ててしまいたくなるくらいには悪い偶然が重なってしまっていた。

 数分前、天魔の屋敷で、


『――漏らしたのか』


 と、思わず口走ってしまった直後。

 濃密な殺気を感じ取った屍浪は、恥も外聞もない無様な体勢で、顔面から倒れるように床に伏せた。

 数瞬遅れて頭上を通過するのは見覚えのある両刃の剣。ズゴンッ! とおおよそ刀剣類とは思えない音を立てて壁に突き刺さる。

 投げたのは――言うまでもなく、文だった。


 殺す気か、と叫びたかった。

 こんなタイミングで来なくても、と嘆きたくもなった。


 しかし口から飛び出そうとした非難の言葉は、今にも涙腺が崩壊しそうな文の赤ら顔によって喉奥に叩き戻されてしまう。

 真っ赤も真っ赤。

 これ以上ないほどに真っ赤っ赤。

 怒りによるものなのか羞恥心によるものなのか――おそらくはその両方だったのだろうが、とにかく、上司であり実母である天魔の説得すら効果がないくらいに射命丸文は興奮していた。

 轟々と、文の背後で小さな竜巻がいくつも生み出される。

 螺旋を描く鋭き風。

 その矛先は、当然屍浪に向けられていて――


『――し』

『し?』

『死ねえええええええええええっ!!』


 と――いう訳で。


「いやもうホント、本気で怖くなったのって何年振りだぁ? 怒らせるとおっかないのは永琳サンだけだと思ってたが、この年になっても学ぶものが多いねぇ全く!」


 乙女の逆鱗に触れてしまった屍浪は、阿吽の呼吸で天魔が押し開けた執務室の窓からどうにか外へと逃げ出して、脇目も振らずただひたすらに逃げ続けていた。

 逃げ足にはそれなりの定評がある屍浪ではあったが、追いかけて来るのは数多いる妖怪の中でも最速を誇る天狗――純然たる速度の領域における最高位が相手では分が悪すぎる。加えて厄介な事に、文は『風を操る程度の能力』によって更に速度を上げてきているため、彼我の距離はだんだんと縮まりつつある。

 しかしまだ、追い着かれてはいない。

 かろうじて――ではあったが。

 枝から枝へと飛び移り、平面ではなく立体的に、縦横無尽に駆け回る。手頃な岩や倒木を盾にして攻撃を捌きながら、制空権という圧倒的アドバンテージを持つ烏天狗の少女を相手に、どうにかこうにか、つかず離れずの距離を維持する。


「二度目ってのが幸いしてんのかね」


 あの時。

 紫の能力の補助こそあったが。

 天狗の集団から逃げ果せた経験が今に活かされているからこそ、この一見不可能に思える逃走劇は、非常に危ういながらも現実としてあり続ける。

 とは言え、状況は考えうる限り最悪だ。

 鬱蒼と生い茂る木々が屍浪から反撃の手段を奪う。邪魅が支配する森でもあるまいし、この山林自体に攻撃力はないが、その反面――遮蔽物としての効果は十全過ぎるほどに機能しているのだ。

 遮蔽物。

 目くらましとも言う。


「軽く幻覚でも見せて動きを止めさえすればこっちの勝ちなんだが……見てもらわねぇ事にはどうしようもないわな」


 顔を上に向けても見えるのは枝葉ばかり。

 濃く深く厚い緑の天井がこちらの視界から文を完全に覆い隠す。明確な敵がいるとすれば、それは文ではなくこの大自然そのもの。

 屍浪の能力とて万能ではない。

 相手が注目してくれなければ騙す意味がない。観客がいるかどうかも分からないまま、密閉された箱の中で手品を披露するようなものだ。


「――だが……」


 同時に、疑問も湧き上がる。

 屍浪からは文が見えない。


「と、いう事は」


 文からも屍浪が見えないのではないか。

 しかし、ならば、どうして文はこうも的確に屍浪を攻撃出来る? 

 まだ当たってこそいないが――当たりたくもないが――彼女の攻撃は明らかに屍浪を狙って繰り出されている。勘で適当にばら撒いていると判断するにはいささか狙いが正確過ぎるのだ。

 母親譲りの神眼か。

 それとも、あるいは――


「見える誰かが他にいるのか」


 可能性は――後者の方が高い。


「だとすると、確かめなきゃならんよなぁ、やっぱり」


 追いかけ回されるのも、いい加減飽きてきた。たとえ事の発端の原因が自分にあるのだとしても、蜂の巣にされるのはまっぴら御免被る。相手方の隙を突ける何らかの糸口があるのなら、多少の危険を冒してでも見つけ出すべきだろう。

 方向性さえ決まれば最早屍浪に迷いはない。

 足裏を掛けた枝から、頭上に伸びる別の枝へと、跳ぶ。

 上へ――鬱陶しい緑の、その向こう目掛けて、跳ぶ。


 かくして。


 枝葉の天幕を突き破った屍浪は。

 空を舞う彼女を――否、彼女達を発見したのであった。


「……ふぅん」


 射命丸文と、もう一人。

 鴉の濡れ羽色の髪を持つ文とは対照的な、雪のような白色が目立つ少女。

 単なるくせっ毛なのか、それとも本物なのか――屍浪には判別がつかないが、獣耳が生えているようにも見えるため全体的に犬っぽい印象を受ける。両刃の剣と山伏風の帽子は文と似通っているが、犬耳天狗少女は更に紅葉が描かれた盾を所持していた。

 犬耳少女と屍浪の視線が交錯する。


「飛び出す前から、俺が見えてたってぇ感じだな」


 どのような能力なのかは今のところ皆目見当もつかないが、とりあえず、あの白い少女が文の『目』の代わりをしていると考えてまず間違いないだろう。

 あくまで希望的観測に過ぎないけれど。

 試してみるだけの――価値はある。


「――ククッ」


 口端が吊り上り、噛み殺し損ねた笑いが零れる。

 双眸を細めて少女達を見据えるその表情は、戯れに獲物を狙う魔獣のようであり、何処からどう見ても悪役以外の何物でもないのであった。

 重力に引っ張られ、緑の海に身を沈めつつ、


「さて――さてさてさて、ただ逃げるだけってのも性に合わんし、少しくらいは大人の意地を見せてやるとしますか」



 ◆ ◆ ◆



 見ず知らずの他人から『あ、なんか犬っぽい』と、ある意味では正鵠を射ている評価をされてしまった件の少女――その名を犬走椛という。


(……何だろう。今、ものすごく不愉快になりました)


 まーた誰かさんが私を犬扱いしてるんですかねーなどと、心当たりを何人か――いや何十人か思い浮かべながら、諦めを含んだ声音で独りごちる椛。

 名字こそ『犬走』と諺の如く体を現しまくっている気もするが、椛は犬ではない。先祖代々から脈々と受け継がれてきた血統正しき白狼天狗の一族である。

 首まわりを撫でられると気持ち良くなってしまうけれど。

 驚くと『わふっ!?』と叫んでしまう事があるけれど。

 嬉しくなると尻尾がパタパタ揺れたりするけれど。

 断じて、所構わず自分の臭いをつけて縄張りを主張するような犬っころなどではない。ないったらない。あってたまるものか。女の子だもん。


(子どもって自覚がないから残酷な事でも平気な顔して言うんですよねー。『此処でマーキングしてみろ』とか、今だったら天魔様から問答無用でお仕置きされて女衆全員から村八分ですよ?)


 犬だ犬だとからかわれる度に『違うもん違うもん!』と躍起になって否定したものだが、それも昔の話だ。知り合いの幼子から『犬のおねーちゃん!』と無邪気な笑みで呼ばれた時点で、何かもう、全てがどうでも良くなってしまった。妙な悟りを開いてしまったと言えなくもない。


「あーもうっ! いい加減当たりなさいってのコラー!」

「無茶苦茶言いますね……」


 そんな彼女は現在、射命丸文の仕事の手伝いをしていた。

 不審な男を追跡する任務だと説明を受けてはいるが、山林への被害も鑑みずに暴風をいくつも撃ち放つ文を見て、果たしてこれは本当に仕事なのだろうかと疑問にも思う。

 そもそも、文の態度からしていつもの彼女らしくない。

 普段ならば一時拘束なり何なりして天魔の判断を仰ぎそうなものなのだが、どういう訳か今回はいきなり攻勢に出ている。どちらかと言えば非好戦的な性格であるはずなのに。


「椛! 見失ってないでしょうね!?」

「御心配なく。ちゃんと捕捉してますよー」


 投げやりに答える。

 任務そのものもおおよそ疑わしい内容ではあったが、それでもきっちりかっちりこなすのが己の美点だと椛は自負している。ゆえに眼下――木々の合間を駆け逃げる侵入者、文が血相を変えて追う黒衣の男の現在地を、能力を使って把握し続けていた。


『千里先まで見通す程度の能力』


 つまりは千里眼。

 哨戒を主な仕事とする椛にはうってつけの能力である。

 繁茂する緑の屋根も、倒木や岩などの身を隠せそうな遮蔽物も、この能力の前では一切合切が無に等しくなる。流石に天魔のような過去視や虚偽看破の効果はないけれど、索敵範囲の一点だけで比べるならば天狗の中でも随一と言えるだろう。


 敵を見逃さない。


 それが――椛の矜持。

 決して乗り気ではないけれど、それでも。

 一度視界に捉えた相手は絶対に逃がしはしない

 それが白狼天狗の――狼の誇り。


「――っ、目標止まりました!」


 それまで全力疾走を続けていた男が、唐突に、足を止めた。

 こちらに背を向けたまま、直立の態勢で微動だにしない。

 苦し紛れに迎撃しようとする素振りすら見せない。


「……ふ、ふふ、くふふふふ――」


 不気味な笑い声。

 隣を見やれば、顔を俯けて不気味に肩を震わせる文の姿。垂れた前髪に隠れて表情は窺い知れないが、全身からドス黒い陽炎がおどろおどろしく溢れ出ている。


「あ、文様? 大丈夫ですか?」

「くふふふ、とうとう観念したようですねぇ……」


 文は答えない。

 くふふうふふと壊れたように嗤いながら、右腕を高く掲げるだけ。その手に握るのは剣ではなく、彼女が愛用する葉団扇――よほどの相手でもない限り使用を控えている、射命丸文が誇る最大最強の武器。


「その意気に免じて、一瞬で散らして差し上げますよぅ」


 物騒な台詞と共に、葉団扇を回す。

 生み出されるのは、巨大な岩ほどもある風の塊。くるりくるりと頭上で葉団扇を回すたびに、ひび割れるような砕けるような――風らしからぬ音を立てて凝縮されていく。

 七度の圧縮工程を経て完成する風の爆弾。

 威力も範囲も桁外れな広域殲滅用の大技だが、直撃すれば五体が吹き飛ぶどころか消滅してしまうような代物を、たった一人相手に使おうというのか。


「あの……何もそこまでする必要はないんじゃ」

「甘いわ椛!!」


 こちらを見る文は涙目で、心なしか顔も赤い。


「あれは乙女の敵――不倶戴天の怨敵よ! 今ここで消しておかないと、また不幸な犠牲者が出るに決まってるわ! 主に私のような!」

「何をどうすればここまで恨まれるんでしょうかねー」


 と。

 椛が少なからず男に同情した、その時。

 乙女の敵が、動いた。

 全力疾走。

 だが、逃げたのではない。


「な……?」


 驚きを禁じ得ない。

 当然だ。

 確かに隻腕黒衣の男は走り出したのだけれど、しかしそれは逃げるためではなく、真逆も真逆、文字通りの逆方向へ――あろうことか、こちらに向かって一直線に突っ走って来たのだから。


「こっちに走って来ます! 死ぬ気ですかあの人!?」

「……覚悟ありですか、なら――お望み通りにしてあげますよ!!」


 振り下ろされた文の腕に合わせて、ギチギチギチギチ――と今にも張り裂けそうな怪音を立てながら、暴風の爆弾が地上目掛けて堕ちていく。

 対して、男の取った行動は。

 椛を再び驚愕させるには十分な奇行だった。


 ――跳んだ!?


 まるで爆弾と擦れ違うようなタイミングで空中へと躍り出る。

 男は空へ、風爆は地上へ。

 直後に――大爆発。

 まさに爆発としか形容出来ない衝撃と轟音ではあったが、爆炎や黒煙が上がる事はない。あるのはただただ単純簡潔で圧倒的な破壊のみ。ひしめく巨木を根こそぎ薙ぎ払い、大地を揺らして掬い取る風の暴力は凄まじいの一言に尽きるもので――


 屍浪の目論見を達成させるには十分な威力があった。


 背後での爆発。

 それが何を意味するのか。




「よう」




 今度は、驚く暇すらなかった。

 決して届くはずのない高空に。

 文と椛の眼前に。

 不敵に笑う隻腕の影が在る。

 爆破の衝撃に背中を押される形で、屍浪は束の間の――偽りの速度と高度を獲得した。天狗が支配する領域にまで吹き飛ばされて、強引に昇りつめたのだ。

 椛が呆然とする横で、男の掌が文の頭部を鷲掴む。


「このっ、放しなさい!」

「まずは一名様ご案内、っと」

「くっ――あ、ああ……ああああぁぁぁぁ…………ぁ」


 声が漏れ、文の四肢から力が抜けていく。


「文様――!」

「心配しなくても、傷つけるような真似はしねぇよ」


 振るった剣はいとも容易く躱されて。

 文と同じく、大きな掌で頭部を鷲掴まれる。

 掴む、と言うよりは、覆う、と言い表すべきか――視界をやんわりと優しく覆い隠されているだけなので痛みは感じられない。


「おや、想像以上にもふもふ」

「な、何ですか、何者なんですか貴方はぁ!?」

「何者ですか、か。俺としては単なる使いっ走りのつもりだったんだが……まあ、悪者扱いされるのは慣れてるから良いんだが、そろそろ俺もお暇したい訳だ。だから――」


 少しばかり、眠ってもらおうか。


 そんな男の台詞と同時に、椛の脳内に幻が這入り込んで来る。視界がぐるりと暗転し、五感の全てが偽りの世界に塗り潰され、沈んでいく。


「そんなに気張らんでも、なるべく楽しい幻覚にしてやるから安心してくれて大丈夫だと思う――かも知れない、たぶん、おそらく、きっと……何とかなるさ」


 ――全然安心できませんよぉ!?


 犬っぽい犬っぽいと定評のある椛だが。


「それじゃあまあ、行ってらっしゃい見てらっしゃい」

「にゃああああああああっ!?」


 悲鳴は猫のようだった。



 ◆ ◆ ◆



「……一応、言われた通りに酒は届けたぞ。祝いの挨拶だけでろくに話も出来なかったが、まあ、親書も一緒に置いて来たからこっちの用件は伝わってるだろ」

『ご苦労様でした』


 天狗の縄張りからさほど離れてない山中。

 一組の男女の声が生まれる。

 片や、少々疲労の色が滲んだ男の声。

 片や、壁越しに響くような女の声。


『――うふふ。しかしそれにしても、随分とまあボロボロですね』

「言いなさんなよ。妖怪の世界も人間に負けず劣らず日進月歩ってな。若いのが元気に育つってのは良い事だが、全力で付き合ってやるにゃあちと辛い」


 少し頑張るとこのザマだ。

 そう、自嘲気味に笑う屍浪。

 着流しはところどころが綻びていて、草履も足首も泥だらけ。ぼさぼさの白髪はいつも通りだが、細めた両目は気怠げに濁っている。外面もそうだが内面はそれ以上に疲弊しているようだった。


「それで、俺の御遣いは終わった訳だが」


 声は確かに二人分。

 しかし屍浪の周囲に人影はない。

 とても湖沼とは呼べぬほどに小さな――いっそ水溜まりと形容しても差し支えない水面を前に、まるで独り言のように呟く。


『そうですねぇ、ご褒美でも差し上げましょうか?』


 女の声は水の中から響く。

 水面の縁に立つのは屍浪のみ。ゆえに当然――映り込むのは隻腕の男であるはずなのだが、そんな自然の摂理を真っ向から否定するかのように水の中で微笑むのは――褐色肌を持つ有髪尼僧姿の鬼女だった。


 妖術――『水鏡』。


 知識と妖力さえあれば誰にでも可能な――屍浪や鬼神であるざくろからすれば、呼吸をするよりも簡単に使用出来る遠距離連絡用の術だ。

 もっとも。

 この世界、この時代に限定して言うなら。

 人間ならば数百年後にようやく発明・確立した、遠方にいる相手と連絡が取れる方法を容易く行っているという事実は驚愕以外の何物でもないのだが、今この場においては、当事者達からしてみれば取るに足らない些細で稚拙な連絡手段でしかなかった。


「ご褒美――か。んなもん貰って喜ぶような年じゃあねぇが、まあ、願いを叶えてくれるってんなら、このまま俺が戻らねぇ事を黙っててくれれば嬉しいねぇ」

『……やはり、そのつもりでしたか』


 にやりと笑い、屍浪は言う。


「そもそもが長居し過ぎたんだよ。萃香も勇儀も独り立ちしたし、紫も幽香もそれぞれやりたい事を見つけて一丁前に大妖怪って呼ばれるようになったし、そっちだってもう俺がいなくたって問題はねぇだろ? いい加減、そろそろ頃合いだと思ってたところだ」


 また根無し草に戻るにはな。

 そう言って、屍浪は踵を返す。

 引き留める者はない。

 代わりとばかりに背に降るのは、何処か悲しげな鬼女の声。


『邪魅はどうするつもりですか?』

「アイツの本体である鞘は俺が腰に差してる。まあ居場所はすぐに感知されるだろうが、ほとぼりが冷めた頃にこっちに呼び出すなり何なりしてご機嫌取りでもするさ」


 水面から遠ざかるにつれて、ざくろの声も小さくなっていく。


『怖いから……全てから逃げ出すのですか?』

「………………」

『貴方は心の底から嫌悪しているのでしょう? 偽る事でしか「強さ」を示せない自分自身を。欺かなければ「家族」と接する事すら出来ない己自身を』

「………………」

『だから貴方は逃げ出して、置いていくのでしょう? 逃げて逃げて逃げ続けて、進んで孤独になろうとする。かつての私のように、口から出る言葉が、浮かべる感情が、己を包む全てが嘘に思えて――怖くて怖くて仕方がならないから。邪魅を、紫を、幽香を、萃香を、勇儀を、子供達を、大切な者達を騙している事が辛くて苦しくて仕方がないから』

「………………」

『だから貴方は逃げ出すのでしょう? ですが屍浪様、貴方は――』


 ちゃぽん――と。

 屍浪の放った小石が軽い音を立てて水底に沈む。それと同時にざくろの声は止み、草土を踏む足音だけが山中に小さく響く。

 屍浪は何も言わない。言う必要などない。全てがざくろの言う通りであり、弁解の余地も言い訳のしようもない――こればかりは偽る事も欺く事も出来ない屍浪の本心だったからである。

 だから屍浪は歩を進める。

 何処でもない方角に向けて。

 新たな孤独の旅の一歩を、踏み出そうとして――




「――ふぎゅっ!?」




 地面に倒れ伏していた少女っぽいものを踏んづけた。

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