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東方妖骨遊行譚  作者: 久木篁
二章 竹取物騙編
24/51

第十九話 遭遇。向日葵畑の少女

 ――彼女は待つ。


 燦々と降り注ぐ陽の光の下。

 一様に火輪を見上げる花の海の中で。

 募る想いに身を焦がしながら。

 憤る心を懸命に律しながら。


 ――彼女は、待つ。



 ◆ ◆ ◆



 善は急げ。

 思い立ったが吉日。


 なんて験を担いだつもりはさらさらないが。

 輝夜姫様から微笑みと共に無理難題を頂戴してしまった二日後、早急に旅支度を整えた私は、風見幽香が居を構えているという花畑に運ばれていた。

 不肖私こと藤原不比等には、人様に顔向け出来ないようなやましい事なんて…………公私両方ともに心当たりが数えきれないくらいある身なので、刑場に連行される罪人さながらの剣呑かつ暗澹たる気分で緊張感に満ち満ちていたりするのである。身を乗り出して『私は無実だー』とか叫びたくなる衝動に駆られた。


 実際にやってみた。

 遠くから『嘘つけー』と返ってきたような気がする。

 全くもって、仰る通り。


 歩く、ではなく、運ぶ、と形容しているように、徒歩での移動ではない。何もこんな時まで形式美に拘らなくても良いじゃないかと思えるくらいに無駄に豪奢な牛車での移動である。大伴様から半ば強引に借りてきた代物なのだが、はっきり言って、周囲と全然合ってない。

 のどかな自然の風景の中を牛の歩みで進む金箔車。

 何かもう、色々と壊滅的な光景だった。

 ついでに言っておくと、大伴様が所有する数多くの牛車の中でも一番地味で小型で目立たないと思う物を選んだつもりだ。各方面から批判が殺到するだろう事は重々承知しているが、私にだって言い分くらいある。仕方ないじゃないか、これが一番マトモに見えたんだから。


「……父様と一緒に何処かへ出かけるの、初めてです」


 そして妹紅も一緒だったりする。

 この娘、私の妻であり伴侶であり奥さんでもある義母と折り合いが悪い。険悪と言っても過言ではない。義母――つまるところの私の奥方は『虚栄』と『唯我独尊』の骨に『傲慢』と『高飛車』で過剰に肉付けしたような、絵に書いたような典型的貴族の生まれなのだから無理もないと言えば無理もないが。外の女に産ませた子供と毎日仲良く顔を合わせて暮らしていける人間がいるとしたら、それこそ翁殿並みの善人くらいだろう。

 誰の責任かと考えれば、十人中十人に指差されるのは私である事が明白だ。出来れば他人事で通したいけれど、撒いた種というか身から出た錆というか。

 そんな訳で、義母や腹違いの兄弟姉妹に囲まれているよりは良いかなーなどともっともらしい理由をつけて妹紅を外に連れ出した。

 一人で乗れば丁度良くても、二人乗れば少し狭い。なのでいつものように、妹紅を膝に乗せた状態で車の揺れに身を任せている私なのだった。


「それで、一体どのようにして風見幽香の髪を切り取るおつもりなのですか?」

「実は全く考えてないでおじゃる」

「……だと思いました」


 語尾の茶目っ気を無視されてちょっと悲しいお父さんです。

 振り返り、こちらを半目の上目で見据える娘。その白桃のような頬をプニプニとつついて返答の代わりとした。代わりになってないが。

 考えてないと言ったのは別に嘘や悪ふざけではない。

 正直言って本当に、微塵も、これっぽっちも考えが浮かばないのだ。一応、非暴力非戦闘を表現するつもりで兵を用意しなかったけれど、そこから先がなぁ。今はただの貴族でしかない私にどうしろと仰るんだ。

 ……いやまあ、格好つけて『今は』と付属させてみたけど、過去や未来の私に風見幽香と対等に交渉出来るほど力があったりこれから得たりする訳じゃあ、ないんですがね。

 見事に、八方塞がりだった。


 独特の弾力を持つ妹紅の頬を指先で堪能しながら、私の脳味噌はそれとは全く関連性がない話題を、瞼の裏では出掛けに見た光景が再生させていく。


 噂話には事欠かない都だが、ここ最近は三月前から頻繁に発生している殺人事件の話題で持ちきりとなっていた。

 通り魔。辻斬り。あるいは鬼や魍魎の類。

 呼び方は人それぞれだが、夜間に、人気のない路地での襲撃という共通点から同じ犯人による凶行だと推測されている。ああそれと死因――襲われた全員が腹を切り開かれて臓物を喰われている事も共通点として挙げられるか。

 犠牲者の数は昨日の時点で二桁を超えた。しかもその人数は貴族のみを数えたもの。巻き添えになった従者や、不運にも目撃して口封じされてしまったと思しき市民も含めるとはてさて一体何人になるのやら。連続殺人の皮切りとなった最初の犠牲者が老人である事実も、今となっては私を含めてほんの一部の人間しか覚えていない。

 ともあれ、気位の高い貴族――特に、帝のお膝元である都の警備や治安維持を一任された家柄の者達、それと、この手の怪事件に引っ張り出される陰陽師の連中にとっては、顔に泥を塗られて恥を晒し続けているに等しい大失態だ。汚名返上すべく警備兵の増員や夜間の見回りの徹底などを敢行して躍起になっているが、今のところ犯行防止の効果は見受けられない。

 唯一の生存者であり目撃者である私にも捜査協力の文が届けられたが、現在も犯行が続いている点から見て、返事の文に記した情報が役立っているとは到底思えなかった。


 以上、現実逃避――終了。

 さぁてこれからどうしよう。



 ◆ ◆ ◆



「お二人とも、着きましたよ」


 いつの間にか牛車の揺れは止まっていた。

 下げられている前方のすだれの隙間から、道案内を買って出た輝夜姫の養父――讃岐造の声が車内に入り込んでくる。それと同時に簾が巻き上げられて、薄暗闇に慣れていた妹紅の視界を目が眩むような黄色が染め上げた。


「へぇ……こいつは」

「……すごい」


 無意識の内に、そう呟いていた。

 そこは一面の花畑だった。

 見た事もない黄色の花が咲き乱れている。妹紅よりも背が高く、それらの全てが太陽に顔を向けている様は圧巻の一言に尽きる。他の花のような強い匂いこそしなかったが、妹紅は確かに陽光にも似た香りを嗅ぎ取っていた。

 つい最近まで――八年近くも屋敷内で軟禁同然の扱いを受けていた妹紅。初めて目にしたと言っても良いその光景は世間知らずの彼女の心を掻きたてるには十分で、けれどどうしてか、その温かな色とは裏腹に、寒気を伴った言いようのない恐怖に襲われた。


「此処が……風見幽香が居を構えているという花畑です」

「讃岐造様は、何故この場所を御存じなのですか?」


 差し出がましいとは思ったが、問わずにはいられなかった。


「いやはやお恥ずかしながら、この年までしぶとく生き永らえていると、知らなくても良い事まで知ってしまうものなのですよ」


 柔和な笑みを浮かべてはぐらかす翁。

 そもそも、どうしてこの老人まで一緒について来たのか。その理由が妹紅には推測すら出来ない。

 出発の当日、父が用意したという牛車の前に何時の間にか音もなく立っていたのだ。


 ――自分が呼んだのではない。


 父が怪訝な表情のままそう言ったのを覚えている。

 妹紅はこの老人が好きにはなれなかった。あの輝夜姫の養父だからとか、そんな幼稚な理由ではない。あの見合いの席で見た時から――いや、傷を負った父を迎えに行ったあの日、屋敷で初めて会った時から、胸騒ぎというか虫の知らせというか、そういう類の危機感にも似た――敵意。

 とにかく妹紅は、この人の良さそうな老人が信用出来ずにいた。


「…………妹紅様、そんな顔をなさらないでください。心配なさらなくても、私はこうなってしまった責任を取りたいだけなのですよ」

「責任……ですか?」


 ええ、と翁は頷き、


「実は、輝夜に風見幽香の話を教えたのは私なのです。この老体の身では娘の相手をするにも骨が折れましてなぁ、それであの子の退屈を紛らわすために仕方なく」

「それでも、もう少し話題を選ぶ事も出来たでしょうに……」

「いやはや全く、耳が痛いばかりで」


 呆れ混じりの父の言葉に、老人は心から詫びるように頭を下げる。しかしその姿を見ても、妹紅は彼を信じる事など到底出来なかった。

 翁と、父の顔が。

 互いの腹の内を探り合い、試しているかのような笑みの形に歪んでいたからだ。

 もっとも、それを目の当たりにしたところで自分がどうこう出来る訳もない。なので妹紅はこれ以上何も言わず、小さく嘆息するだけに留めた。


 そして――思った。


 迂闊にも、思ってしまった。

 さっさと用件を済ませて帰りたい、と。

 その願望が何を意味しているのか、深く考えもせずに。



「……誰か来たと花達が騒いでるからわざわざ出向いてみれば、今回はまた随分と可愛らしいお客がいるようね」



 鈴のような。

 清涼感すらある力強くも静かな声音。

 妹紅も、父も翁も動きを止めた。

 頬を撫でる一陣の風は冷たく、冷や汗が吹き出た妹紅の身体をよりいっそう凍りつかせていく。恐怖に錆びた首を懸命に動かして、戦慄に震えながらも、妹紅は声のした方を見やった。


「男と、老人と、女の子……ねぇ。まあ、汗臭い男共が武器持ってわんさかやって来るよりはいいけど」


 風にたなびく、若葉の如き鮮やかな色の緑髪。

 愉悦に輝く瞳は深紅。

 顔立ちは端正でとても美しく、それ故に畏怖の念を呼び起こす。

 赤と白を基調とした衣服は異国を思わせる意匠で、纏う者が人間の範疇を超えた存在である事を言外に表している。


 噂に名高き花畑の主。

 女子姿の大妖怪。


 風見幽香が――其処にいた。


「あ、あ……」


 あまりに唐突な遭遇に、妹紅は悲鳴を上げる事すらままならない。逃げ出そうにも足が動かず、歯がカチカチと鳴るばかり。視界が急激に狭まって、意識が朦朧とし始める。それでも失神しなかっただけ僥倖と言えるだろう。

 そんな彼女を救ったのは、


「妹紅様、不比等様の後ろへ」


 この場においても落ち着きを感じさせる、しわがれた声。

 妹紅は弾かれたように幽香から距離を取り、父親と、その隣に立つ翁の背中の陰に身体を滑り込ませて縋り付く。

 生まれて初めて体験した死の恐怖。

 身体の震えが止まらない。


「こいつぁ何とも、流石にいきなり過ぎる……」


 静かに呟かれた父の声が、妙に遠くにあるように聞こえた。


「それで? 私の向日葵畑に一体どんな用があるというのかしら?」


 

 ◆ ◆ ◆



 髪を一房、切り取らせてはもらえないか。

 いつもの来客――自分の討伐、あるいは腕試しを目的とした武装兵や陰陽師達とは少々毛色が違う、親子連れにも見える風変わりな三人組は、畏まった挨拶もそこそこにそう切り出してきた。

 髪の毛なんて一体何に使うのだろう、と幽香は疑問に思う。

 詳しく話を聞くと、どうやら三人組の中の男――総白髪だが若い、隠れてしまった子供の父親と思しき男に原因があるようだった。求婚を受ける条件として、自分の髪を切り取ってくる事を要求されたらしい。都一の美少女だか何だか知らないが、傍迷惑にもほどがある。

 たかが髪、されど髪だ。

『髪は女の命』なんて気障ったらしい戯言を宣うつもりはないが、髪一房でも自分の一部、見ず知らずの他人に素直に分けてやるほど自分はお人好しではない。

 呪術や妖術の中には髪を媒体として使用するものも多く存在する。そういう意味では、髪の譲渡は己の命を預ける行為に等しい。目の前の三人がその手の知識を持ち合わせているようには見えないが、それでも万が一の可能性を考慮しなければならない。今回のような、他人の手に渡る事が前提の『お願い』であるなら尚更だ。

 故に。

 相手にどのような理由があろうと、幽香の答えは決まっていた。


(でも……)


 ただ要求をつっぱねるだけでは、面白くない。

 開きかけていた口を噤み、愛用の日傘をくるくると弄びながら花妖は思案する。紅玉の如く輝く視線の先にいるのは、父親の陰からこちらを覗く人間の少女。

 縋って、甘えて、守られて。

 それが幽香にはとても羨ましく、妬ましい。


(……いいわよねぇ貴女は。守ってくれる人がいつも傍にいるんだから)


 守ってくれる人。

 救ってくれる人。

 一緒にいて、安らぎを与えてくれる人。


(私は独りになったのに、どうして……)


 おじさん、と声なき声で小さく漏らす。

 半年という期間は、妖怪にとってはほんの一瞬だ。しかし幽香の場合は違う。

 屍浪が姿を消して半年。彼を探すために紫や邪魅――鬼の巣から離れて半年。

 孤独に慣れているつもりだった。花達さえいれば乗り越えられると思っていた。そんな半端で未熟な自信など、家族同然に暮らしてきた年月によってとうの昔に砕かれていたというのに。

 だから、妬ましい。

 自分は会いたくても会えないのに。

 思う存分父親を頼る事が出来るあの少女が。


「私の髪が欲しいと言うのなら、あげてもいいわ。ただし――」


 指を少女に突きつけて、言う。


「その子の命と引き換えよ」

「――っ」

「……理由を伺っても、構いませんかな?」


 父親らしき男が眉を僅かに動かし。

 目を細めた老人が冷静に問う。


「人間の貴方達には分からないでしょうけど、妖怪の髪はそれほどの価値があるわ。それにこの花畑の花達は人間の血肉、特に若い女子供の生き血を糧にしているの。その子くらい若ければ……とても綺麗に咲いてくれるでしょうねぇ」


 少女の顔は絶望に染まり、今にも気絶してしまいそうなくらいに青褪めていく。

 ほくそ笑みながら、内心では馬鹿馬鹿しいと自分を嘲る。

 あまりに不釣り合いな対価。

 もちろん、本当に命を奪うつもりなどない。花の糧に生き血を使っているというのも真っ赤な嘘だ。無理難題を押し付けて、彼らが慌てふためくのを見たかっただけ。暗く湿った愉悦に浸って、孤独を誤魔化そうとしているだけ。

 そんな事は分かっている。


(けど、こうでもしないと……)


 自分が、保てない。

 自己嫌悪に陥りつつも、少女を怯えさせるために言葉を紡ごうとして――



『……幽香、それくらいにしておけ。その嬢ちゃんを脅かしても意味なんざねぇよ』



 声。


 あれほど待ち望んだ、あの人の声。

 同時に、何かがヒビ割れたような音と共に、幽香の世界が一転した。

 空が、木々が、向日葵が色を失い、景色の全てが黒白に塗り潰されていく。

 さらに、 


(時間まで――)


 風が止み、音が止み、人間達の動きも止まっている。普段通りに動かせるのは自分の肉体のみ。明らかに尋常ではないが、今となってはそんな些細な異常などどうでも良くなっていた。

 幽香にとって一番重要なのは、これが屍浪の能力による現象であるという事。


「おじさん、何処に……いるの?」

『お前さんのすぐ傍に、ってな』


 視線を巡らせるが花畑の周りに彼の姿はない。しかし声は幽香のすぐ近くから聞こえてくる。背後から肩を抱かれている――と、そう思えるくらいの至近距離。

 けれど、見えない。

 感じられない。

 それがとてもじれったくて、半年振りだというのに謝罪の言葉もなく平然と話す彼に無性に腹が立ってきて、


「心配、したのに……」

『あ?』

「いきなりいなくなって、私、とっても心配したのに! 紫も、平気な顔してたけど邪魅だって、おじさんの事心配してたのに!」


 言葉を吐き出すたびに、頬を伝う熱いものがある。

 幽香は涙を流していた。スカートを握り締めて堪えようとしても止められない。後から後から、絶え間なく溢れ出てくる。


『あー……いや、何っつーか、俺にも色々あってだな』

「それは私達には言えない事なの!?」


 この人は何時だってそうだ。

 自分達に相談する事もなく、頼ったりする事もなく、面倒だ面倒だとぶつくさ文句を言いながら、それでも誰かのために自分一人で全部背負い込もうとする。


「私達だっておじさんの力になりたい! そのために強くなったのに、おじさんが頼ってくれなきゃ、こっちを向いてくれなきゃどうにもならないじゃない! ただ黙って見てるだけなんてもう嫌なの! 何も出来ずに、おじさんがボロボロになっていくのを見てるだけなんて嫌なの!」


 言外に、役に立たないと言われているようで辛かった。

 ただ其処にいるだけの自分が不甲斐なかった。

 後ろにではなく、隣に立ちたい。

 力をつけたと認めてもらいたい。

 だから、お願いだから、


「もっとちゃんと、私達の事を見てよぉ……」


 恥も外聞もなく、幽香はその場に泣き崩れる。大声で泣き叫ぶ。今の自分が、彼に対して唯一出来る訴え方だったから。

 赤子のように、精一杯泣き続ける。


『その……スマン、悪かった。今回はちょっとばかし急がにゃならん面倒事で、お前さんらに話す余裕がなかったんだ』


 響くのは謝罪の言葉。珍しく狼狽しているような声。

 ガシガシと、見えない手で不器用に頭を撫でられている――そんな気がした。


『何も言わずに消えて悪かった。心配かけて済まなかった』

「………………」

『けど今はまだ、もう少しだけ我慢してくれ。今度こういう事になったら、そん時はお前さんや紫を頼りにするから』

「…………絶対?」

『ああ、約束する』


 クシャリと一際大きく撫でられて、彼の声はそれ以上聞こえなくなった。


 そして、


「――し、もし? 大丈夫ですかな?」


 老人の声で、幽香の意識は現実へと戻された。

 世界の色合いは元通りになり、時間も正常に流れている。あれだけ泣いたのに、幽香の顔に涙の跡はないし目も腫れていない。

 まるで――白昼夢。

 幻でも見ていたかのような。


(でも間違いなく、おじさんは此処にいた)


 ほんの微かにだが、自分の周囲にはまだ屍浪の妖気が漂っている。

 傍にいてくれていた。それさえ確かなら、それでいい。

 孤独を紛らわすための虚勢も、鬱憤を晴らすための嘘も、もう必要ない。

 子供の命が必要だなんて笑えない冗談も必要ない。


「…………なーんて、ね。冗談よ」

「え……」

「髪が欲しいならあげるわ。少しくらい切ったところで、またすぐに元通りになるし」


 爪の先で髪を切り落とす。

 人差し指ほどの長さのそれを少女に手渡し、彼女の頬を優しく撫でて、


「怖がらせちゃって、御免なさいね」


 憂いの消えた、本当の笑みを幽香は浮かべるのだった。



 ◆ ◆ ◆



「噂に聞いていたよりも、優しい妖怪でしたね」


 帰路に着く牛車の中。

 妹紅は紙に包んだ幽香の髪を大事に抱えながらぽつりと言った。

 返すのは牛の手綱を引く翁で、


「そうでございますなぁ。中々に可愛らしい御姿をしておりました」


 あれが冷酷非道と悪名高い妖怪だというのなら、皺だらけの私の方がよっぽど妖怪らしいですなぁ――と、簾の向こうで翁は笑う。


「……とにかくこれで片方。後はもう一方なんだが……」


 父の、珍しく疲れたような声。

 妹紅は達成感に浸って高揚していたが、それでもまだ半分だ。難題はもう一つ残っている。

 少しばかり肝を冷やしたが、輝夜姫に要求された品の一つをどうにか手に入れる事が出来た。残るは蓬莱の玉の枝だが、ある意味では、風見幽香の髪以上に入手困難なように思える。


「この年まで生きておりますが、そのような名を耳にした事はありませんな」

「じゃあ、輝夜姫が口から出任せを?」

「とも限らんよ。本当は知らないか、本当に知っているかのどちらかだ」


 父は考えを巡らせているようだったが、やがて面倒くさそうに、


「まあ、無理なら無理でいいけどね。どうせ帝に頼まれた形だけの求婚だし、俺が集めなくても他の連中が必死になって集めるだろうさ」

「そう……でしょうか」

「とにかく今日は疲れた。もう何も考えたかぁない」


 そう言って目を閉じ、屋敷に到着するまで口を開く事はなかった。

次話、あの人が降りてきます。

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