第十六話 魔都。男は騙る
お試し。
新章タイトル『たけとりものがたり』と読んでくださいませ。
富貴と貧困。
愉悦と憎悪。
飽食と飢餓。
栄華と腐敗を極めたこの都は、陰陽思想を如実に体現していると言えた。
陰陽互根――互いが存在する事で己が成り立つという概念。
陰陽制約――陰陽が互いに均衡を保とうとする作用。
光強まれば闇深くなる――なんて月並みな喩えを一度は耳にした事があるだろう。
対極に位置する二つの要素は相反しながらも、まるで示し合わせたかのように――競い合うかのように、その力を増強させていく。
それは、人間と妖怪の場合においても例外ではない。
ゆえに。
人間の繁栄の象徴である都でヒトならざる化生の存在が跋扈するのも、ある意味では至極当然の結果なのであった。
◆ ◆ ◆
夜天の下。
都の一画、人通りが滅多にない道で、一つの命が消えようとしていた。
一目で公卿と分かる、身形の良い男だ。その顔は恐怖と苦痛で歪み、贅を凝らした衣装は己の血と返り血で真っ赤に染まっている。
周囲に散乱するのは、男が連れ立っていた従者達の成れの果て。腹を裂き開かれて無残に息絶えた彼ら。臓物を露出したその亡骸が暗示するのは、男にこれから訪れるであろう最悪の未来。
「…………だ、誰か――」
助けを求める声は闇夜に消えて何処にも届かない。もっとも、偶然通りかかった誰かが声を聞いて駆け付けたとしても、この場に屍がもう一つ増えただけで何も変わりはしなかっただろうが。
周囲に充満するのは、噎せ返るような血の匂い。
くちゃりくちゃりと不気味に響くのは、妖怪が屍肉を食む音だ。
腕や足ではなく、開いた腹に頭を突っ込んで、柔らかな内臓だけを無我夢中で食らっている。吐き気を催すほどの、世にも恐ろしい光景だった。
自分の従者が食われる様を見て震えながらも、しかし男の脳の一部はこの状況からどうやって逃げるべきかを冷静に考えている。
(――今なら、逃げられる……!)
妖怪が『食事』になっている今が好機。
幸いな事に『食料』はまだ二人分あった。
それらを全て食い終えて自分を狙うには、まだもう少し時間が掛かる。
そう判断した貴族の男は、かろうじて動く四肢に命令を送り、地べたをズルズルとさながら芋虫のように這い進む。泥と血に塗れた貴族にあるまじき無様な姿ではあったが、腸を食われて死ぬよりは何倍もマシだった。
音を立てないよう細心の注意を払いながら、どうにか牛車によじ登る。
(後は、牛を走らせれば――)
単純に遅い事を『牛の歩み』と表現するが、牛とて獣、暴走させればその限りではない。少なくとも、傷だらけの人間が這うよりは早く逃げられる。妖怪の足の速さは分からない。だが、兵が多く駐屯している都の中心部まで行けば何とか助かるだろう。
男はなけなしの力を振り絞り、拾っていた鞭で牛の尻を叩いた。
けれど、牛はぴくりとも動かなかった。
二度、三度と叩くが、走るどころか鳴き声一つ上げない。
(何故動かない! 何故、何故――!?)
そこで男はようやく気が付いた。
牛の首が斬り落とされて、血染めの地面に転がっている事に。
「……そんな所でなぁにしてんだ?」
頭上から降ってきた声に、男は反応すら出来なかった。
牛車の屋根を突き破って降ってきたのは、食事を続けているはずの妖怪。
「か……――ごっ!?」
声の代わりに、足で圧迫された首の骨が悲鳴を上げる。
「お前だけは絶対に逃がしゃしねぇさ。貴族の連中は他の人間と違って痩せてねぇ。だから内臓も脂がタップリのってて美味いんだよ。今までさんざん良い物食ってきたんだ、今度はアンタが俺のエサになれ」
気管が潰されて呼吸出来ない。
血の流れが阻害されて視界が暗くなっていく。
(いや、だ。死に、たくない――)
死にたくない、死にたくない死にたくない……!
必死に願うが、もう何も出来ないし、やって来ない。
薄れゆく意識の中で男が見たのは、銀色の、緩やかな弧を描く刃のような『何か』を振り上げる妖怪の姿。
ボロ布を纏った人型で背が高く――片腕がなかった。
「じゃあ、死ねよ人間」
男の脳天目掛けて、銀色の『何か』が振り下ろされ。
そして――
◆ ◆ ◆
そして私は目を覚ました。
夜着と呼ばれる布団代わりの着物を蹴り飛ばし、弾かれたように上体を起こす。
年甲斐もなく『ひいいいいいっ!』とか『ぎゃああああっ!』とか、まあそんな感じの悲鳴を上げたような気がする。いやはや、恥ずかしい悲鳴で耳を汚してしまい申し訳ない限りである。ならば恥ずかしくない悲鳴とは何のなのか問われても返答に窮するので、この話題はこれ以上掘り下げるのはやめよう。男ならば雄々しく『ぐわああああっ!』とかが妥当だろう、多分。
閑話休題。
うん、耳心地の良い響きである。
好奇心に負けて何となく使ってみたが、思わず依存してしまうそうな四字熟語だ。多用するのはなるべく控えなければいけないな、これは。
閑話休題。
とにかく無様に飛び起きた私は、着替えた覚えのない白無地の寝巻きを纏っていた。それは大量の汗で湿り、肌にべったりと張り付いてしまっている。
気持ち悪い。非常に気持ち悪い。
自分の体内から分泌された液体である事は百も承知なのに、体外に出てしまうとどうしてこうも汚らしく思えてしまうのだろうか?
「此処は――つっ!?」
見覚えのない部屋だ、などと考える余裕はない。
引き裂くような、刺し貫くような、とにかく形容しがたい途方もない激痛が全身を襲い始めたのだ。唇を噛み、身体を折り曲げる事でどうにか痛みを押し殺そうと努める。あまり効果はなかったが、狂わなかっただけでも僥倖と言えただろう。
胎児のように身体を丸めて、ゲホガハと胃液を吐き出す私。
そんな私の背を、優しく擦る者がいる。
痛みでぐにゃりと歪む視界の端、躊躇いがちな表情を浮かべているのは、六、七歳ほどの少女だった。
白磁の肌とか鴉の濡れ羽色の髪とか、見目麗しい、絶世の、なんてありふれた表現が霞んでしまう、このまま育てば傾国の美女と呼ばれるようになる事間違いなしと確信出来るほどの美貌。
十にも満たない子供相手にらしくないと自分でも思うが、不覚にも見惚れてしまった。ついでに背中を擦ってもらってじんわりしてしまった。気分は孫に気遣われるおじいちゃんである。立場は寝たきり老人と大差ないが。
たどたどしく、弱々しく、けれど労わるように。
少女の紅葉のような小さい手が背中を擦るたびに、身体の痛みが徐々にではあるが引いていく。
彼女の手に謎の力が宿っているのか、それとも美少女に撫でてもらった興奮で痛みを一時的に忘れたのか。おそらく後者なんだろうなぁ、と自己嫌悪。
「……有り難う。もう、大丈夫だ」
思った以上に涸れた声が喉から出た。
胃液で焼かれただけにしては随分とカッサカサだ。枯れ葉を擦り合わせた方がまだ瑞々しい音を出せるのではないかと思えるくらいに。
とりあえず言葉は通じたようで、少女は手を引っ込めてそそくさと、まるで逃げるように部屋から出て行った。……どうやら驚かせてしまったらしい。知らない男にこんな声でいきなり話し掛けられたらそりゃ驚きもするか。入り口の端から少女の着物の裾が覗いているのだが、それについては触れない事にしよう。
気を取り直し、改めて、寝かされていた部屋を見回す。
それほど広くはないが、掃除の行き届いている部屋だった。縁側から、これまた手入れの行き届いた庭が見える。池で泳いでいる鯉が美味しそうだ――じゃなくて。
「おお、気が付かれましたか!」
しわがれた――と言っても、今の私の砂嵐のごとき声よりは十分に張りのある声。
入口に、山中を歩くのに適していそうな――つまりは動きやすそうな服装の老人が立っていた。腰は少し曲がり気味だが、足取りは軽く矍鑠とした雰囲気を放ってる。一言で言えば、普通。敢えて、強いて挙げるなら十人中十人が『人が良さそう』と形容しそうなのほほんとした笑顔くらいしか特徴がない。
まあ、個性豊かにド派手な衣装で登場されても対処に困るから普通で良いのだけれど。
「いやあ良かった、本当に良かった。五日も眠ってらしたのでこのまま目覚めないのではないかと心配していたところだったのですよ」
「なるほど、道理でこんな声に」
五日も眠り続けていれば喉が渇いて当然だ。
分かった途端、今度は猛烈な空腹感が胃を突いてきた。獣の唸り声のような重低音が部屋に木霊する。腹の音を聞かれて恥じるような繊細な神経こそ持ち合わせてはいないが、我が身ながら本当に正直で困ったものである。
「……失礼」
「ほっほっ、無理もありますまい。さあ、湯漬けを用意したので召し上がってくだされ。口に合うかは分かりませんが、何も口にしないよりは良いでしょう?」
湯気が立つお椀を眼前に突き出された。
……良い人だ。ものすごく良い人だ。騙されないか心配なくらい良い人だ!
差し出す速度があまりに勢いよかったので、実は老眼で距離感が掴めていなんじゃないかこのジーサンと被害妄想気味に用心してみたが、白湯まみれの白米が顔面を強襲する事もなく、私の雀の涙ほどの良心がガリガリと削られただけで済んだ。つまりこれで私の良心は塵芥ほどの取るに足らない存在になった訳だが、そもそも私に良心なんて仰々しい代物があったのかと自問すると真夏に雪が降る確率と同程度の答えが返ってくるのは明白なのでそろそろこの話題を止めてもいいだろうか?
収拾がつかなくなった戯言を脳裏の奥に押し遣って、
「いただきます」
礼を言い、お椀を受け取った私は、そこで動きを止めた。止めざるを得なかった。無意識の内に右手で受け取ってしまったため、匙を受け取ろうとするまで気付かなかったのだが、何と言うか、簡潔に述べると……左腕が動かない。動かないどころか、左肩から先まで一切の感覚がない。
目覚めた早々に職務放棄されて、お椀片手に途方に暮れる私が此処に完成した。
白湯浸しの白米、無応答の左腕、正面の壁と視線を彷徨わせて原因が見つかったら大したものだと微塵も期待せず眼球だけをウロウロキョロキョロ。
「如何なされた?」
床の上で硬直した私に老人が声で――ついでに入口の陰に隠れたままの少女も目線で問うてくる。
いえいえいえ如何もなされませぬよと不適切な言語を用いてまだ出されてもいないお茶を濁し、お椀を一旦置いて木製の匙を受け取り直す。
くったくたに煮られた白米は口に含むとほのかに甘く、だからと言って何杯でもいける訳ではないけれど、熱さを忘れて一気に流し込める程度には美味と感じられた。
『食べる』よりは『飲む』が正しい食事を終えて一息つき、ようやく本題に入る準備が整った。
「それで、私は何故此処に?」
「屋敷の前に血塗れで倒れていたのですよ。それはもう目も当てられないほどの大きな傷で、何故生きているのか薬師も不思議がっておりました」
医者も首を捻る大怪我。なのに左腕にそっぽ向かれながらもこうしてのうのうと生きている私。美幼女に撫でられただけで痛みが引いたり湯漬けを丸呑みにしたりと、つくづくデタラメな身体だ。
呆れて、そこでおや……? と全く別の思考が脳を支配する。
私、自己紹介してないし、されてないんじゃね?
「私は――」
「おっと」
話の脈略を盛大に無視して名乗ろうとすると、シワだらけで節くれ立つ手で制されてしまった。路線変更の出鼻を挫きやがったゴツゴツの手の平にはいくつかのタコ。
……ふむ、屋敷暮らしにしては中々に使い込まれた手をしていらっしゃるようで。
「名乗らずとも結構。名のある公卿の御方である事は分かっております。しかし折角助かった命、無理はせず、今は傷を癒す事に専念してくだされ」
命の恩人にそう言われてしまっては仕方がない。
とりあえずこの老人は『翁殿』、隠れている美幼女は格好と雰囲気から『姫様』と呼ぶ事にする。
上半身だけではあるが、二人に向かって深々と頭を下げて、
「有り難う、ございます。では、歩けるようになるまで御厄介になります」
感謝の言葉を述べつつ、頭は斜め上に逸れた問題の解決に努める。
怪我はその内治るから良いとして。
左手どうしようね、ホント。
◆ ◆ ◆
……ああ、申し遅れた。
と言うより、翁殿に名乗れなかったので此処で名乗らせて欲しい。
私の名前は藤原不比等。
翁殿の言葉を借りるなら、ちょっとは名のあるらしい貴族だ。
不本意ながら、この短くも胡散臭い物語の騙り部を担う事になった。
初見の方はこんにちは、知ってる方はどうもどうも。
さてまあそれじゃあ、毒にも薬にもならない自己紹介を終えたところで。
真実なんぞ微塵もないこの物騙りを始めるとしよう。
新章開幕。
決してジジイルートではないのでご安心を。
そして何故かロリになるあの姫様。