第十四話 狂艷。鬼子母神・薬師尼ざくろ
だいぶ遅れてしまいました。
楽しみにしてくれてた方々、どうもスミマセンでした。
――天狗に会ったのだから、ついでに鬼にも会ってみよう。
そう最初に言い出したのは誰だったか。
幽香や紫じゃなかった事は確かだ。
幽香は屍浪達と一緒であれば行き先が何処であろうと文句はないようだし、紫は紫で新参者である事をまだ引け目に感じているらしく、自分の願いを面と向かって言おうとはしない。
となれば、自分か邪魅であるはず。
はてさてどちらだったのやら。
まあ、今となってはどうでもいい事ではあるのだが。
天狗の山から峰伝いに五日ほど歩いたところに、鬼が棲むと謂われる山脈はあった。緑よりも岩肌が目立つ険しい山々が連なっている。鬼の巣と呼ぶに相応しい禍々しさと荒々しさが感じられた。
天狗と鬼。
子連れが歩いて五日程度で踏破出来る距離――天狗であるならひとっ飛び、鬼であるならひとっ走りの距離に、異なる種族の縄張りが並んでいる事になる。
一見すると不自然なようにも思えるが、支配する者とされる者として見るならば、監視や使役など、雑務を行うには適度な距離ではあるのだろう。
「屍浪、呆けるな! 次が来るぞ!」
「へぇへぇ……」
思考を巡らせていた屍浪は、邪魅の一喝を受けて辟易しながらも意識を切り替えた。
正面に戻した視界の端、拳を振り被った筋骨隆々の大男がこちらに突っ込んで来る。
頭部に生えているのは、雄々しくねじれた猛牛を思わせる一対の角。背丈は長身の屍浪よりもさらに高い。その巨体が殺人的な威力を伴って襲い掛かってくる様は、正に圧巻の一言に尽きるものであった。
だが。
「……ハァ」
ため息一つ。
唸りと共に振り下ろされた右の剛拳を、身体を独楽のように回転させる事で受け流す。
拳の勢いを止め切れずに右半身を沈み込ませた鬼など最早――
「デケェ的だな。とりあえず、潰れとけ」
一閃。
白刃を神速で振るった次の瞬間、大鬼は白目を剥いて崩れ落ちた。
太刀傷などの目立った外傷はない。彼だけに限らず、屍浪の周囲に倒れ伏している鬼達も、外見だけは無傷であるように見えた。
しかし彼らは立ち上がれない。
呻き、歯を食いしばって何とか身を起こそうとするが、手足は意に背いてガクガクと震えるだけ。起き上がる事など、ましてや戦う事など出来る状態ではなかった。
「おじさん負けるなー!」
「頑張ってー!」
「応援はいいからしっかり隠れてろー」
「屍浪、きりきり働くのじゃー!」
「お前も少しは戦えー」
背後からの声援――最後のは声援なのか甚だ微妙だが――にヒラヒラと太刀持ちの手を振りながら投げやりに答えて、屍浪は前方、壁のように並び立つ鬼共を見据える。
天狗に比べると高身長で大柄な図体が目立つが、鬼もまた、人間に近い姿を持つ種族だった。口が耳まで裂けていたり目が三つあったりする訳でもなく、細身の女の鬼や好奇心丸出しでこちらを窺う子鬼もちらほらと。
「……大したものね。鬼の肉体の頑強さは数多いる妖怪の中でも随一なのに、それをこうも容易く打ち破るなんて」
口を開いたのはその内の一人、桃色の髪を肩まで伸ばした鬼の少女だ。
シニヨンキャップで隠しているのか角は見えない。右腕全体に包帯をグルグル巻きつけて、左手首に嵌めた鉄製の腕輪からは途切れた鎖が垂れている。
「馬鹿力があろうが死ぬほど硬かろうが、んなもん俺にゃあ関係ねぇよ。人間に近い姿を取ってるって事ぁ弱点も同じだって事だろうが。それに昔、鬼には一度手酷くやられたんでね、それなりの対策くらいは用意してるさ」
さぁて……と屍浪は太刀を肩に担ぎ、
「お次は誰だ? 嬢ちゃんが相手か?」
話し始めた直後から、他の鬼達は開戦前の静けさを取り戻していた。
茨模様の衣装を着るこの少女、余計な喧騒で水を差されない程度の実力と権威を併せ持っているのだと屍浪は判断する。
「嬢ちゃんは止めてくれない? 私には茨木華扇って立派な名前があるんだから」
「そうかい。じゃあ華扇、何故俺達を襲う? 最近の鬼共の間じゃ名乗りも警告もなくいきなり襲い掛かって来るのが主流なのか?」
侵入者への対処は天狗の方が紳士的なように思える。
鬼としての矜持なのか、背後から大勢で不意を打ってきたりはしなかった。
彼らは皆、遮蔽物がない岩の広場に横一列に並んで堂々と待ち構えていた。しかし口上や名乗りの類は一切なく、一人倒せばまた一人、続けて倒せばもう一人といった具合に、次から次へと絶え間なく襲い掛かって来た。
幸いにも一対一の構図ではあったが、相手は鬼。数もさる事ながら、休憩なしで捌き続けるには少し――いや、かなり骨が折れる種族だ。白骨であるがゆえの冗談ではない。念のため。
紫の能力で退散しようかとも考えたが、未だ発展途上であるせいか一度に大人数の意識の隙間には潜り込めないらしく。
仕方なく、不真面目に喧嘩をまとめ買いする道を選んだのだった。
「何の断りもなく縄張りに入って来る方が悪いと思うけど?」
「丁寧に挨拶すりゃあ素直に見学でもさせてくれたのか?」
「最上級のもてなしを用意したわ。もちろん鬼の流儀に沿ったものを、ね」
華扇の体勢はあくまで自然体だ。構えらしい構えもなく、ただ微笑んで佇むだけ。
対する屍浪も太刀を握った右腕をだらりと下げて余分な力を抜く。
双方ともに、無駄な構えを取らなくても即座に戦える事を無言で表していた。
針のように鋭い闘気が静かにぶつかり合い、誰かの喉がごくりと鳴ったところで――
「そこまでです」
声と共に、張り詰めていた空気が霧散した。
あれほど濃密だった闘気の渦は掻き消えて、あとに残ったのは奇妙な虚脱感。
華扇がやれやれとでも言うように首を振り、それに応えて屍浪も太刀を納める。
岩陰から飛び出して抱きつく幽香や紫の頭を撫でながら、寄り添うように隣に立つ邪魅と共に、改めて声の主を見た。
「この度はとんだ御無礼を……。子供達に代わってお詫び致します」
有髪僧形、きめ細やかな褐色の肌を持つ鬼女であった。
刀身のように緩やかに反った角が、額に二本。
妖艶に着崩した法衣を内から押し上げるのは、見事に成熟した肉体だ。仏門に身を置いているとはとても思えない色香を放っている。並大抵の雄ならば立ち居振る舞いだけで籠絡出来てしまうだろう。
「……アンタが、こいつらの親玉さんか?」
「如何にも、この山を統べる鬼子母神・薬師尼ざくろと申します。お見知りおきを」
こちらの警戒心を溶かそうとする、無垢な少女の如き笑み。
何かしらの思惑を感じるが、けれど屍浪は動じずに、
「自分のガキならしっかり目ぇ光らせとくんだな。山の二つや三つ簡単に吹っ飛ばせる数の単細胞共が野放しになってるなんざ、笑い話にもならんぜ」
そう言った。
無礼極まりない言動である。少なくとも、敵地の真っ只中、数の上では圧倒的に不利な状況で言い放つような台詞ではない。
邪魅や幽香、紫は既に気付いている。
屍浪がとても不機嫌である事に。
不快感を全面に押し出す白骨。
そして彼の暴言に、侮辱されたと殺気を放つ華扇や鬼達。
その渦中で、
「……ふふ。やはり、噂通りの御方ですね」
鬼子母神・薬師尼ざくろだけは笑みを深めて満足げに頷いた。
噂ねぇ……、と屍浪は小さく呟き、
「きっとロクなもんじゃねぇんだろうな」
「外つ国の軍神と祟り神の王を一撃で打ち倒した、狂刃を振るう修羅の骸。私はそう聞き存じております。往々にして噂には尾ヒレ背ビレが付くものですが、今回ばかりは虚言も誇張も皆無のようで安心しました」
「いやヒレだらけだろうよ、どう考えても」
事務的な口調とは裏腹に。
安堵――というよりは、明らかに歓喜の念が滲み出ていた。
彼女もまた、一人の鬼であるという事なのだろう。
「…………断る」
だから、次にやって来るであろう言葉も予想出来た屍浪は、ざくろが本題に入ろうとする前に先手を打ち、きっぱりと拒絶の意を示した。
当然、鬼女は中途半端に口を開いたまま固まる。
「ぇ――あの、まだ、何も言ってませんが……?」
「大方、俺とサシで戦りたいって言い出すつもりだったんだろ? その綺麗な顔にしっかり書いてあんぞ、美人さん?」
心なしか、腰に抱きついている幽香や紫の握力が強まったような。邪魅に至っては、隠そうともせずにげしげしと向こう脛を強めに蹴ってくる。
何なのか、何なのだろうか、このチビッ子さん達は。
これっぽっちも理由は分からないが、まあいいか、と思い直す屍浪を前に、
「理解がお早いようで。では――何故ですか?」
「何故って……そりゃあなぁ」
屍浪は肩を竦めて、つい、とざくろの腹を骨指で示し、
「どんな理由があろうと――仮に、万が一、アンタがどうしようもなく、斬り殺したくなるほどに外道で下種な俺の敵だったとしても、腹ん中に赤ん坊抱えてる女と戦り合う趣味はねぇんだよ」
彼女の腹は、何時陣痛が始まってもおかしくないくらいに膨らんでいた。
◆ ◆ ◆
一触即発の危機的状況から一転して。
数百人はゆうに寝転べそうな広い洞窟内、鬼達が呑めや唄えやと騒ぐ中。
どういう訳か、招かれざる客であるはずの屍浪は、
「にゅへへへー、おーじーさんっ♪」
「撫でて、撫でてー」
酔っ払いと化した幽香と紫に、盛大に絡まれていた。
絡まれているというよりは抱きつかれている、いや――それ以上か。両手足と全身を使って、蛇のように巻き付かれていると言い表した方が的を射ているのかもしれない。
小さな口から漏れる吐息は酒臭く、矮躯は赤く染まって熱を持っている。
「……鬱陶しいなぁ、おい」
お酒は二十歳になってから――なぁんて法律はこの時代にはないが、それでも、割と常識的な価値観を持っている屍浪個人の問題として、子供が堂々と飲酒している姿を見るのはあまり気持ちのいいものではなかった。
さりとて止めようともせず、されるがままになっている屍浪の右隣で、
「そうぼやくな、二人もそれなりに色々と我慢しておったのだ。酒の力とはいえ、こんな時くらいは好きに甘えさせてやるのが男の甲斐性だぞ?」
子供に何でもダメ、は酷だしの。
言って、何杯目とも分からない酒杯を口に運ぶ邪魅。
童女姿でも年季が違うらしく、頬こそほんのりと朱に染まっているが、呂律ははっきりしていて酔っているようには見えない。
「甲斐性云々はこの際どうでもいいが、実質、被害を被っているのは俺だぜ?」
「その状況を被害と言うとる時点で、後ろからメッタ刺しにされても文句は言えんと思うぞ儂は。……のう、お主もそう思わんか?」
「……そうね。女として言わせてもらうなら、私も同意見よ」
同意を求められて答えたのは、左隣に座っていた華扇だ。
彼女も静かに盃を傾けているが、その眼は不機嫌そうに屍浪を睨み付けていて、
「「このロリコンのすけこまし」」
「……お前さんら、事前に口裏合わせたりとかしてないよな?」
謂れなき中傷を受けた身としては断じて違うと早々に否定したいところだが、客観的に見れば少女四人を侍らせてる光景以外の何物でもなかったため、屍浪は仕方なく、両隣からの非難の視線を甘んじて受け入れるのであった。
「まったく、ざくろも何を考えているのかしら。こんな何処の馬の骨とも知れない男のために宴を開くなんて……」
「馬じゃなくて人の骨だよ俺ぁ。……でもまあ、確かに無茶苦茶ではあるよな」
仕合えないのならば、せめてもの詫びに宴を開きます――
薬師尼ざくろの申し出はあまりに突拍子もないものであった。
何かしらの意図が――屍浪を引き留めようとする思惑がありありと感じられた。引き留めて何をするつもりなのかは、流石の屍浪にも皆目見当が付かなかったが。
「それにしても、子を宿しておるとはな。……華扇よ、まさかこの山の鬼は……?」
「察しが良いわね。ええその通り、大半がざくろが産んだ息子や娘達よ。私みたいに他所からやって来た鬼はほんの一握りしかいないわ」
「……父親も鬼なのか?」
今度は屍浪が問う。
「そういう時もあるわね。でも、父親のほとんどはこの山に迷い込んだり腕試しにやって来た他の種族の雄よ。彼女はそれなりの強さを持っていれば種族なんて関係ないって考えてるみたいだから」
鬼の女からは鬼しか生まれない。
だから父親が何であろうと構わない。
説明した華扇は、何処か悲しんでいるようでもあった。杯の中の酒を飲み干し、彼女はそれっきり黙り込んでしまう。
友を蔑むような事をこれ以上話したくないのだろう。
「……それで屍浪、これからどうする? お主の事じゃ、まさか、このままのんびりと酒に浸っているつもりでもあるまい?」
「――っつってもなぁ、うちのチビ共もこの有様だし、あちらさんの考えが分からねぇ以上、下手に動く訳にもいかねぇだろ。てか邪魅、お前さんコレ起こせんの?」
いつの間にか、幽香と紫は屍浪の膝の上で丸くなり、すやすやと寝息を立ててしまっていた。黙って何処かへ行かないように――とでも言わんばかりに、屍浪の着流しをそれぞれの両手でしっかりと握ったままの状態で、だ。
幸せそうに緩んでいる幼い寝顔を壊すのは、いくら年経た歴戦の樹妖であっても、
「……無理じゃね♪」
「でしょうよ。少なくとも、こいつらが起きるまで俺は動けねぇやね。まあ今は、あの美人さんが何もしてこねぇ事を祈るしか――」
「おや、私がどうかしましたか?」
噂をすれば影とは言うが、何もこんなベストなタイミングで現れなくてもいいのでは、と屍浪は辟易しながら戦闘狂女の声がした方を振り返り――
「……アンタ」
そして、驚愕した。
驚いたのは屍浪だけではない。邪魅も瞠目し、華扇も口元に手を当てて絶句している。
「ざくろ……貴女そのお腹!!」
何とか言葉を絞り出した華扇が言うように。
薬師尼ざくろの腹は――凹んでいた。
いや、凹んでしまったのではない。腹の中に入っていた物がなくなり、元の――彼女本来の引き締まった体型に戻っていたのだ。
では。
腹の中に入っていた物は、何処に行った?
「ざくろ、腹の子はどうしたの? 何処にやったの!?」
「……ああ、仲間が減るかもしれないと恐れているのですね? 慌てなくても心配ありませんよ華扇。だって私の子供達ですもの――」
あの程度の事で死んだりはしませんよ、と。
そう言って、壮絶に笑むざくろ。
暗い洞窟の中、僅かな明かりに照らされてようやく分かった事だが、ざくろの法衣は腹から股下までが血によって赤黒く変色していた。
誰の血なのかは考えるまでもなかった。
「さあ屍浪様、これで拒む理由はなくなりました。私と、仕合うてくださいますね?」
潤んだ瞳に宿るのは狂気。
呼吸は荒く乱れて、玉のような汗が肌に浮かぶ。
身体を掻き抱くその姿は酷く艶めかしい。
何を言っても無駄な事は明白だった。
「…………そうだなぁ、確かにアンタを斬れねぇ理由はなくなった」
生まれは覚えてはいないが、おそらく初めてだ。
こんなにも――女を斬り捨てたいと思ったのは。
寝入った幽香と紫を起こさぬように身体から外し、太刀の柄に手を掛けて屍浪は立ち上がろうとした。
だが、
「待て……屍浪」
着流しの裾を座ったままの邪魅が掴んで引き留めた。
浅く俯いた顔は、前髪に隠れて表情が窺えない。
「儂が、やる」
「……正気か?」
本気か? ではなく、正気か? と屍浪は尋ねた。
無理もないと言えよう。昔ならばともかく、今の邪魅の力は幼女そのままなのだ。鬼神に勝てる可能性など、万に一つもあり得ないと断言出来る。
そんな事は本人が一番自覚しているはずだ。
「頼む。あの女だけは、儂にやらせてくれ」
それでも邪魅の決意は揺らがなかった。
屍浪は知っている。分かっている。邪魅がどうして怒っているのかを。
だから確認は一度だけだった。
もう、言う事はない。
「そうかい。……じゃあ、行って来い」
彼女の手を取り、立ち上がらせて、屍浪は送り出した。
信念を貫こうとする相棒のために、ほんのささやかな妖力を授けて。
「んっ……あっ」
邪魅の身体が、ぶるりと震えた。
ハァ――と悩ましげな吐息が漏れるのと同時に、変化は起きた。
手足が細く長く伸びて、胴体もそれに比例して均整のとれた完璧なものへと変わっていく。可愛らしく幼かった顔つきは消え去り、代わりに現れるのは、白磁の肌を持つ絶世の美貌。
かつて、白骨に恨み言を残して散った森の女王が。
再びこの世に顕現した。
「――余計な事をしおって」
長い睫毛の双眸を細めて、紅の口唇を開く。
怒っているような、けれど喜んでもいるような声音。
でも、と彼女は屍浪に背を向けたまま言葉を続けて、
「ありがとう、屍浪」
誰にでも、譲れない何かがある。
それは物であったり信念であったりと様々だ。
だから、邪魅は。
はるか昔、母と呼ばれ慕われた記憶と想いをその胸に宿して、母である事の責任と幸福を叩き込むために、神の名を持つ存在と相対する。
大人の邪魅さん、やるときゃやります。