第一話 邂逅。月の賢者
前後も左右も天地もない世界だった。
身体に纏わりつくような闇の中で、『彼』は静かに息を吐く。
いくら目を凝らしても、自分の手すら視認することが出来ない。
いくら手を伸ばしても、何も掴み取る事は出来ない。
けれど『彼』は取り乱して喚く事も、死に物狂いでもがく事もしなかった。
何処にどう動けばいいのかもはっきりしないこの状況――いたずらに体力を浪費するのは愚の骨頂だと早々に見切りをつけていたし、そもそも動くも何も、此処から抜け出そうとする意思すらありはしなかった。
『彼』が『彼』としての自我に目覚めたときには既に、この無音無明の――果てしなく続く漆黒の海を茫洋と漂っていた。
目覚めたのは百年前か或いは千年前か――もしかしたらほんの数秒前かもしれない。この世界では時間の感覚も曖昧で、そして『彼』にとっては、何時自分が自分として存在し始めたのかなど至極どうでもいい些細な問題だった。
『彼』は此処以外の世界を知らない。
元よりこの異界は『彼』以外は何物もない空間――外界の情報をもたらす奇特な存在など皆無であった。
此処は抜け出すべき狂気の地獄でも、縋りつくべき堕落の楽園でもない。
この平穏で平凡で平坦で、一切の変化のない世界。
そのあるがままを――全てを『彼』は空虚な思考で受け入れ続けていた。
そんな世界に一つの変化が起きたのは、『彼』が何千回目ともわからない眠りから覚めた直後の事。深海のような緩い流れに任せていた身体が、徐々に浮上し始めたのだ。
同時にはるか上方、針の穴ほどの小さな光を『彼』の両目が捉える。無限の闇を見続けていた眼は、けれど不思議な事に眩みも潰れもせず、一筋の光を容易く取り込んだ。
浮上する身体は、どうやら光に向かっているようだった。
気が付けば、光を掴み取ろうと右手を伸ばしていた。
浮上する速度が急激に上がる。やんわりと背中を押し上げる程度だったものが、伸ばした腕を力任せに引っ張るようなものへ。
最初に右腕が、続いて肩が、上半身がゆっくりと光に吸い込まれていく。
そして――
◆ ◆ ◆
そして『彼』は、深い深い穴底から新たな世界への一歩を踏み出した。
そこは夜が支配する世界だった。
鬱蒼と生い茂る木々が空を覆い隠し、草葉の陰では無数の虫たちが鳴いている。
暗いが、決して闇ではない。
此処には光があり、音があった。
目に映るもの、耳に入るもの全てが初めての世界で、好奇心が止め処なく、歯止めなく湧き上がると同時に、『彼』はその好奇心そのものに疑問を持つ。
「――――――!」
群生しているのは『樹木』であり『草花』だ。鳴いているのは『虫』で、番いを見つけて子孫を残すために羽を擦り合せて音を発しているのだと理解出来る。自分が踏みしめているのは『土』であり『地面』と呼ばれるもの。幾重にも『葉』と『枝』が覆っていて見えないが、頭上には『夜空』があり『星』が瞬き『月』が輝いているはずだ。そして時間が経てば『太陽』が顔を出して『朝』が訪れる。
――分かる。
(……そう。俺は知っている)
見た事も聞いた事もないはずの単語と意味と存在を、自分は確固たる知識として有し、完全に理解している。
「――――……い!」
「………………」
無言のまま『彼』は振り返る。
おそらく自分が這い出てきたであろう、ぽっかりと口を開けている大穴があった。
それは石造りの井戸だった。
大分古いものであるらしく苔生していて、大きさを揃えて組み上げた石壁も風雨に晒されて今にも朽ち果ててしまいそうだ。試しに小石を落としてみるが、水音も、それどころか底にぶつかる音すらない。
次に自分の身体を見る。
所有する知識にある、この星に生きるどの生物とも一線を画す異形の姿であった。
これは――骨だ。
黒地に赤いススキ模様をあしらった着流し。
破れた袖口から伸びるのは人体の前腕部と呼ばれる部位を形成する尺骨と橈骨、手の平となる手根骨と中指骨と手指骨。何度か握ったり開いたりを繰り返すが、カチャカチャと炭を擦ったような音が鳴る程度で特に支障は感じない。
裾から見える草鞋履きの両足も、腕と同様に肉が微塵もないツルリとした白骨だが、機能的な問題は見受けられなかった。
流石に自分の顔を視認する事は出来ないので、あとで池でも探して見てみようと考えて腰元に手をやる。太刀を帯に差していた。鞘も柄も灰色の無骨な拵え。見覚えはなかったが、試しに柄を握ると、まるで長年使いこんだ愛刀のように手に馴染んだ。
「…………ふむ」
ここでようやく、初めて『彼』は声らしい声を発した。
奇妙に木霊する老人でも若者でもない声。
井戸の縁に腰掛けて、腕を組む。
「――――……おるのか!!」
周囲の状況と自分の容姿については、まだまだ推測憶測の域ながらも概ねの理解と見当をつける。けれど『彼』にはまだ三つ、真っ先に解明しなければならない謎が残っていた。
一つ目は此処が『何処』なのか。
二つ目は自分が『何』なのか。
ありがちと言えばありがちで、定番と言えば定番すぎる疑問。
名前も過去も、あの闇の中を漂う以前の記憶がない。当初は覚えていたかもしれないが、誰かに名乗る必要もなかったために忘却してしまったのかもしれない。
それとも、或いは。
最初から自分には名前などないのか。
だとするなら、こうして頭を悩ませていること自体が無駄な労力となるのだが。
「おい妖怪! 我らの声が聞こえておらんのか!!」
まあ、それらしいのを適当に考えればいいか、と『彼』は結論付けて、先ほどから喧しく喚いている三つ目の問題に向き合った。
先の二つの疑問が定番中の定番であるならば、残りの一つも定番である。
すなわち。
「お前さん達は……一体誰なんだ?」
『彼』は現在、武器を構えた見知らぬ男達に包囲されていた。
◆ ◆ ◆
「お前さん達は……一体誰なんだ?」
八意永琳は兵士達の壁の間から、ある意味場違いとも言える質問を投げかけてきた妖怪をつぶさに観察する。
武器を突き付けられているにもかかわらず、臨戦態勢を取るでもなく敵意を露わにするでもなく、ただボンヤリと気怠げな雰囲気を放つ白骨の妖怪。
黒い着流し姿で腰には太刀を帯びている。亡霊か幽鬼の類にも見えるが、霊力をぶつければ霧散してしまうような儚い幽体ではなく、自分の足で地を踏みしめることが出来る実体を持っていたし、何より、両の眼窩から亡霊とは思えないほどの鋭い光を放っていた。
永琳とて国を代表する研究者――これまで何十匹もの妖怪を観察したし解剖もした。討伐隊に同行して、何千年も生きた巨山のような大妖怪が崩れ落ちて死に行く様を見届けた事だってある。
妖怪が人知を超えた存在として君臨していたのは遥か過去の話。他国の追随を許さない圧倒的な技術力と知識を持つ永琳達にとって、妖怪とは人間を襲って食らう野獣――生活を脅かす害獣程度の認識でしかなかった。
けれど、眼前でのんびりと井戸に腰掛けている妖怪は違う。
力の強弱も思考もまるで読み取れない。捉え所がなく、それこそ井戸のように底のない、暗く深い穴を覗き込んでいるかのような恐怖を呼び起す異形。
(怖い、怖くてたまらない……)
未知に対する原始的な恐怖。
いや、未知ではない。
これと同じ恐怖を抱かせる生物を、永琳はたった一種類だけ知っている。
――人間だ。
人化の術とかそんな生易しいものではなく、カリカリと白髪頭を掻いているこの妖怪はまるで昔はヒトであったかのように、幾多の表情や言葉を使って本心を覆い隠して生きている自分達のように、妙に人間じみているのだ。
ゴクリ、と誰かの生唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえた。
武器を携えた百戦錬磨の兵士達も、この妖怪の前では夜影に怯える子供同然だった。
妖怪も見られている事にようやく気が付いたのか、永琳をジィッと見つめ返してくる。眼球などないのに。
痛いほどの視線をどうにか堪えつつ、永琳はこうなってしまって経緯を思い返す。
微弱だが他とは異なる独特の妖気が観測されたのは昨日の夕暮れ、今日の夕飯は何にしようかなぁ、などと呑気に考えを巡らせていた時の事だ。
発生源は彼女が住む国から五十キロほど西方にある広大な森林地帯――大妖の森。
報告を受けた途端、国の上層部は揃って苦々しい表情を浮かべた。
意見を聞くために召集された永琳もその内の一人だ。
大妖の森はその名の通り、有象無象の魑魅魍魎が跋扈しており、人間など滅多なことでは立ち入ることを許されない第一級の危険区域に指定されている。国法を破ってまで足を踏み入れる者など、それこそ余程の命知らずか阿呆か、もしくは妖獣に食い殺されることを望む自殺志願者くらいのものだった。
――誰も行かないしても、危険な場所である事に変わりはない。
――兵器か薬品でも使って焦土に変えてしまえばいいのではないか。
大多数の市民からたびたび寄せられた意見である。
勿論、非力を補って余りある英知をもってすれば十分に可能であっただろう。
しかし上層部が――永琳が危惧したのは可能か不可能かではなく、むしろ焼き払った後に起こりうる事態についてだ。
住む場所を奪われた獣が辿る末路は決まっている。
飢えて死ぬか、他所へ移るかだ。
だが万が一、そのどちらの道にも進まない妖怪がいたら?
そしてそれが一匹ではなく、何十匹、何百匹といたら?
永琳達ほどではないにしても、人間と同等の知能を持つ妖怪も極めて少数ではあるが確認されている。
身の丈十尺を超える大鬼。
千年を生きた大蛇。
血肉を好む妖樹の精。
いずれも大妖の森では名が轟いている剛の者達。
普段は縄張り争いなどで互いにいがみ合っている間柄だが、それだけに徒党を組んでしまった場合は力量が読めない空前絶後の脅威となる。人間という共通の敵と戦うために同盟を結ぶ可能性もゼロではない。
幸いにも彼らは森の外の世界には興味がないらしく、それがせめてもの救いだった。だからこそ、森に棲む妖怪達を不用意に刺激しないように法律まで作って立ち入り禁止にしたのだ。
これまではその程度の対策でも平穏に暮らしていく事が出来た。
だが、その場しのぎの案など些細な出来事で容易く崩壊する。
微弱な妖気を観測した。
楽観的で無能な上司は、だからどうしたんだと脂肪だらけの首を傾げていたが、永琳からしてみれば早急に対策会議を開かなければならないほどの重大事件だった。
先も述べた通り、大妖の森には数多の妖怪が生息している。『塵も積もれば山となる』なんて言葉があるように、一匹一匹が発する妖気は微々たる物だが、森全体で考えると馬鹿にならない。言ってしまえば、森そのものが巨大な妖気の塊と化している。何十色も混ぜた絵の具の中から元の一種類の色を取り出す事が不可能であるように、個々の妖気を一つ一つ観測するなど理論上は絶対に不可能なはずなのだ。
何度計測を繰り返しても得られる結果は同じ。
今までも、そして、これからも。
そのはずだった。
まるで先人達の研究成果を嘲笑うかのように、紙に落とした一滴の墨の如く小さく、けれどはっきりと己の存在を主張する『何か』が森にいる。
何らかの原因で、弱小妖怪の内の一匹の妖気を偶然観測したのならまだ良い。
問題は、本当の力を隠して潜伏している場合だ。
力を蓄えた『何か』が勝手気ままに動き回り、妖怪達の縄張りや生態系を狂わせてしまったら、近い将来、まず間違いなく人間も甚大な被害を被る事になる。
――そんな最悪の結末を未然に防ぐためにも可及的速やかに人員を招集し、現地で詳しい調査を行う必要があります!
椅子に踏ん反り返る上司を蹴倒した永琳の正義感溢れる主張により、すぐに大隊規模の調査隊が編成された。彼女にとって想定外だったのは、その調査隊に同行するようにとの厳命が下された事だ。
いくら弓の心得があると言っても、自分は軍人ではなく科学者だ。戦闘やサバイバルの訓練など一切受けていない。ましてや行き先は妖怪の森、さっさと遺書書いて死んできなさいと言われているようなものだった。
なんで!? どーして!? と思わず子供のように反論する永琳だが、顔に靴跡を残す肥満上司の目がはっきりとこう語っていた。
だってアナタ、言い出しっぺじゃん、と。
◆ ◆ ◆
こちらを見ていた人間の女が、いきなり顔を俯けてブツブツと何事か呟き始めた。
注意深く聞いていると『あのぜい肉ダヌキが……』と怨嗟に満ち満ちた声が、さながら呪詛の如く足元まで這い寄ってくる。内容は意味不明だが、とりあえず自分に向けたものではないなと『彼』は推測した。だって自分、肉ないし。
全部で十人いる男共は皆一様に鎧具足姿で面白味がないが、女の方は暗闇でも一際目につく服装だった。
赤と青を基調とした服は腰に巻いた帯を境に左右逆の配色となっていて、星座がいくつか描かれている。使い込まれた弓を背負い、三つ編みにした銀の長髪の上にちょこんと帽子を載せていた。整った顔立ちと起伏に富んだ体型は、常識や美的感覚に乏しい『彼』すらも美しいと唸らせるほどだ。
けれどそんな美貌も、彼女自身が漂わせている負の感情で台無しだった。
「え、永琳様、大丈夫ですか!? お気を確かに!?」
兵士達も突如雰囲気が豹変した女――永琳と言う名前らしい――にどう接すれば良いのか戸惑っているようで、『彼』に武器を向けるのも忘れてただオロオロと視線を彷徨わせる。
だから『彼』以外誰も気付けなかった。
いつの間にか虫の鳴き声が止み、周囲から生物の気配が消え去っていた事に。
「――逃げろっ!!」
背中に走る悪寒。
叫ぶと同時に『彼』は後方へ大きく跳躍していた。
そして、見た。
おびただしい数の根が地面を突き破って姿を現し、前後不覚に陥った兵士共に大蛇の如く巻き付く様を。
「な……何だこれはっ!?」
「ひぃ、た、助け――」
屈強な男達がなす術もなく呑み込まれていく。
悲鳴が木霊して、それもすぐに収まる。代わりにグジュグジュと何かを啜るような音が生まれて、後に残ったのは赤黒い液体を隙間から搾り漏らす人間大の根の塊だけ。
状況把握能力と危機回避能力は男共よりも上だったらしく、永琳は仲間の無残な姿にも動じることはなかった。すぐに我に返り、応戦すべく弓を手に取った。
手に取った。
しかし、そこまでだった。
空いている方の手を腰の後ろに伸ばしたまま、彼女はどういう訳か一向に矢を番える素振りを見せない。それどころか愕然とした表情で動きを止めてしまう始末。
何をやっているんだと叱咤する暇も最善策を考える余裕もない。
永琳の足元の地面が、獲物を狙う蛇のように盛り上がり始めたからだ。
根が飛び出す前兆。
このままでは彼女もエサになってしまう。
「――くそっ!!」
『彼』は近くの幹に地面と垂直に着地して。
カエルのように四肢を目いっぱい折り曲げて。
キシキシと身体が悲鳴を上げるほどの妖力を込めて。
助けるために――跳躍。
引き裂かれた衣の切れ端が舞い、甲高い悲鳴が響き渡った。