ある占い師の話
昔の話をしようと思う。上司と派手に言い争って、辞表を提出した日のことを。私はまだ、働き盛りの四十二歳だった。
どうしてそこへたどり着いたのか、残念ながら覚えていない。その夜私はひどく酔っていて、覚束無い足取りでネオンの瞬く夜の街を彷徨っていたのだ。タクシーに乗ってから財布のないことに気がつき、運転手に放り出された。路上でうたたねしている間にすられてしまったらしい。もうどうにでもなれと、看板や電柱に喧嘩を売っていた。危うく野良犬に喧嘩を売ろうとしたそのときである。酒で濁った私の目に、神秘な輝きが飛び込んだ。もっとも、酒の悪戯で感傷的になっていたこともあろうし、そう考えると、なぜみんな素通りするのだといぶかしんだことさえ驚くには値しない。しかしまばゆいその光がこの胸になにかしらの感慨を湧き出せたことは真実である。何人もの通行人にぶつかりながら、私は光源へ歩み寄った。
そこにいたのは、占い師だった。決して珍しい存在ではない。白いテーブルと老人のセットは、昼夜問わず点在している。その老人が光り輝いていたわけではない。私の目を引き付けたのは、いかがわしい街の照明を跳ね返す、水晶の神々しい光だった。専門的な占いの館でならまだしも、街中で見かける彼らの大半は手相術を生業としている。水晶は珍しい。
面白い。ちょいと絡んでやろうじゃないか。
強気になっていた私は、木彫りの椅子にどっかと腰かけて爺と向き合った。昔の小学校の理科室にありそうな、飾り気のない小さな椅子だった。爺はおもむろに顔を上げ、「その匂いはやけ酒かね、お若いの?」と喘ぐように尋ねた。かすれた小さな声が、不思議と喧騒の壁を抜けて私の耳に届いた。決して若くはないのだが、否定せずにおいた。なにせ爺と来たら、薄い白髪を腰まで伸ばして、顔中皺だらけなのである。世間ずれした風貌もさることながら、年齢もとうに三桁を越しているように見えた。彼から見れば、大抵の者は若いだろう。
「わかりますか」
私は膝に拳を当てて身を乗り出した。知りたがり屋な子供のように。爺がぜいぜいと笑い、黄ばんだ二本の歯が覗いた。
「あんたらもよく使うだろう。第六勘とか、虫の知らせとか言うあれさ。さて、なにがあったかね?」
かなり怪しげではあったが、私はその時点で、自分がこれ以上不幸になるなどあり得ないと思っていた。しょせん相手は老人である。奇妙な安心感に背中を押されて、身の回りの不幸を洗いざらいぶちまけた。幼少からの偏頭痛、冷え切った夫婦仲、家出したきり帰らない娘、私にだけなつかないチワワ、薄くなり始めた毛髪、長年に渡る上司からのいびり……数え上げればきりがない。
会社への不満で終わり、腕時計に目を移すと、日付が変わろうとしていた。かれこれ三時間は話していたことになる。
「すると君は辞表を提出してきたわけか」
どこかおどけた口調で爺が言った。
「ええ、もうよかったんですよ、後悔なんかしちゃいません」
「ならば言わせてもらうがな、後悔していないというなら、どうしてそんなになるまで飲んだ」
呂律も上手く回っとらんよ、と付け加えて爺はさも楽しそうに私の顔を覗き込んだ。私は急にこの爺が憎らしくなった。爺が楽しそうなのが頭に来たし、なにより的確に言い当てられたのが悔しくてならなかったのだ。爺の言うとおり、辞めた会社に未練があった。陰険な上司に負けを認めたのである。そうして目を背けるようにして飲んだ酒が、爺に真実を悟らせた。
くたばれ、この爺い――
危険な衝動に駆られたその時、立ち上がりかけた私を抑圧するように「ほっほう!」と爺が奇声を上げた。見れば両手を突き出して、体を前後に動かしているではないか。それはちょうど水晶の上だった。私は度肝を抜かれて、軋む椅子に再び腰を下ろした。爺の目はらんらんと輝き、なにか神がかり的なものを期待させた。
「見える……見えるぞ、あんたの未来が」
今にして思うと、挙動不審な爺に足を止めたギャラリーが数人はいたかも知れない。しかし興奮気味の私には、辺りを見渡す余裕はなかった。
「どうなんです? いったい何が見えるんです?」
テーブルをひっくり返さんばかりの勢いで迫る私に、爺は皺だらけの顔をさらに皺だらけにして満面の笑みを浮かべた。
「いやはや、これは驚きましたな。あんたは未来の大富豪じゃよ」
私は天からのお告げでも頂戴するように、一言一句聞き漏らすまいと爺の言葉に耳を傾けた。それというのも私の目には水晶の中にテーブルクロスの白しか見えなかったからである。それなのに爺がやおら驚いた声を発するからには、やはり彼は凡人には持ち得ない特別な力で未来を覗いたに違いないと考えたのだ。
「あんたの選択は正しかった。速やかに事業を興されよ! さすれば万事うまくいくであろう」
なんていい加減な神託だ、とは思わなかった。傷心しきった私の心に、爺の甘言はいとも容易く滑り込んだのである。
なんとも言えぬ安堵に包まれ、気がつけば財布をすられたベンチに横たわっていた。朝日が輝き、小鳥までさえずっている。見るからに非力そうなあの爺が私をここまで運んだのだとすれば、これはもう仙人の類ではあるまいか。起き上がると、どうやら二日酔いらしい頭に激痛が走った。しかし、心は軽かった。
万事うまくいく。
胸の中に、爺の言葉がこだました。
ところが一箇月後、私はまたぐでんぐでんに酔っ払って、爺の姿を探しているのだった。記憶を頼りに路地という路地すべてを歩いても、爺だけは一向に見つからなかった。やはり夢だったかと諦めかけた時、私を嘲笑うかのように、水晶がきらめいたのだった。
「またやけ酒かね、お若いの」
黄ばんだ歯を剥きだして笑う爺に、私は今度こそ本当に飛びかかった。胸ぐらを掴まれても爺は特に慌てる様子もなく、老人にしては強い力で押し返しつつ私をなだめた。それが余計に私の神経を逆撫でした。
「あんたのいんちきのせいで俺は破産だ! なにが未来だ。なにが大富豪だ。このもうろくじじいめが! でたらめばかり抜かしやがって!」
罵詈雑言の限りを浴びせ、私はわざと、道行く人が振り返るほどの大声で爺の無能振りを罵った。が、そんなことなど一向意に介さない様子で、爺は私に椅子を勧めた。
こんないかさま師が占いをしていいはずがない。
ある種の責任感のようなものを感じて、私は老人を占い台から引きずり出そうと思った。
「当たるも八卦当たらぬも八卦とは、よう言ったもんですなあ――」
ははあ、と私は顎を上げた。
「騙したあげくに開き直ろうってのか?」
「お若いの」
老人はやおら神妙な顔立ちで、ずいと身を乗り出した。
「おまえさんは不運な人生を歩んできた。その上さらに真実を語るのは酷というもの。そう判断してやむを得ず嘘をついたんじゃ。だがもし望むというなら、教えてしんぜよう」
頼まれもしないうちに、爺は水晶を覗き込んだ。このとき私の理性は、爺に呆れ、速やかにその場を離れようとしていた。ところが実際の私は、爺の前に突っ立ったまま、一歩も動けずにいた。ひょっとしたら二度目は、と虫のいい考えが離れなかったのである。その間にも、善良なる私の理性は叫んでいた。お前は騙されてばかりだ、不幸を上塗りしたいのか、と。それでも私の目はあいかわらず水晶に釘付けである。心のどこかでは、もう一度だけ安心を与えて欲しいと望んでいた。もし当てになりそうにもない助言であれば、聞かなければいいのだ……。
爺は水晶から身を起こし、疲れたように椅子にもたれた。
「あんたは、死ぬかもしれん」
爺のお告げに、私はしばし固まるより他なかった。色を失った私へ、「嘘ではない。水晶がそう告げたんじゃ」と爺はさらに追い討ちをかけた。今の生活を改善してくれるような都合のいいお告げを期待していただけに、私は体中が冷えるのを感じた。
「だったら運勢を変えてくださいよ」
私は丁寧な口調で頼んだ。
「それは無理だね。私にできるのは見ることだけさ。まあお若いの、そう気を落とさずに。当たるも八卦、当たらぬも八卦じゃよ」
水晶が見せただけならば、爺を責めるわけにもいかない。どうしていいかわからず、私は茫然自失の体で占い台から後ずさった。爺がなにか言ったような気もしたが、私の耳にはもやがかかっていた。鋭いブレーキ音のあと目の眩む光に照らされ、衝撃と共に体が吹き飛んだところまでは覚えている。
目を開けると、白い壁があった。そこが病院であることは、私を見下ろす点滴が教えてくれた。頭を締め付ける布は包帯らしい。まるでドラマだ、とぼんやりした頭で考えた。
案の定、ノックされたドアの向こうには、白衣の青年がいた。彼は、私の怪我の状態や投与している薬を簡潔に話して聞かせてくれた。退院予定についての説明にさしかかろうという時、私の頭に一つの疑問が浮上した。当たり前の、至極平凡な疑問である。
「あのう、私はどうしてここへ?」
青年はカルテから顔を上げ、申し訳なさそうな顔をした。
「事故ですよ。あなたは道路を飛び出して、バイクに撥ねられたんです。運転手の方は無傷で、先程もお見舞いにいらしていたのですが、あなたがまだ――どうしました? 気分が悪いですか?」
私はもう、青年の話など聞いていなかった。
事故!
その一単語だけでも、あの恐ろしい瞬間を思い起こさせるには十分なものだった。そしてよみがえる爺のあの言葉。
「助けてくれ! 殺される!」
私は狂ったように叫んだ。若い医師は、私の異様な慌てぶりに眉をひそめた。
「本当なんだ、信じてくれ! あいつが予言したんだ! 私は死ぬ! いや、殺されるんだ!」
喚きながらシーツを払いのけ、力任せに点滴を倒す。勢いよく針が抜かれ、血の玉が飛び散った。
「落ち着いてください」
青年は私の手首を掴み、仰向けに押さえ付けた。喚きながら頭をかきむしったのか、枕元には大量の髪が抜け落ちていた。目をぎょろつかせて荒い息をつく私に、青年は言った。
「死ぬ気になれば、人間なんだってできるものじゃよ」
なあ、お若いの――
そして黄ばんだ三本の歯を剥き出してにやりと、およそ清潔感の求められる医師らしくない笑みを見せた。
ぅわあああああああああああぁぁぁ
私の意識は闇へと消えた。
いったいどういうわけなのか、私が目を開けると、そこは公園のベンチだった。日は高く昇り、砂場には遊ぶ子供の姿があった。いやに胸がどきどきしている。恐る恐る触れた頭に包帯はなく、肘にあるはずの点滴の跡さえ見つからなかった。
どこまでが真実でどこまでが虚構だったのか、老いた今でもわからない。爺の勧めで始めた事業の借金も、夢の中の話だった。私は再就職し、定年退職を迎え、静かに余生を送っている。これ以上ないほど平凡な、しかし幸せな人生である。
必死に探したにも関わらず、爺を見かけることは二度となかった。私の人生に爺が幾許かの影響を与えたかというと、それも頷けない。私になにかを伝えようとしていたのであれば、私は見事その意図をすくい損ねたことになる。
ただ時々、私は爺を思い出し、そして呟くのだ。
「やはり仙人の類だったに違いない」と。
fin