中村君シリーズ②『疲れた人しか入れない定食屋』
第1話 おつかれさま、空いてます
火曜の残業帰りは、月曜より少しだけ無口になる。
月曜はまだ、「最悪だ」と思う元気がある。
火曜は、そこまで言うのも面倒くさい。
中村はコンビニの冷蔵棚の前で、カフェオレを一本手に取った。
夕飯としては終わっている。
だが今日は、もうそれでいい気もした。
そこでふと、
「カフェオレを飯にするな」
と、どこかで聞いたのぶとい声を思い出した。
「……うるせえな、もう」
小さくつぶやいて、棚に戻す。
戻したところで、じゃあ何を買うのかと聞かれると困る。
おにぎりを見る。
弁当を見る。
総菜パンを見る。
どれも少し重かった。
結局、中村はいつものカフェオレを手に取った。
反省はした。
だが、改善は間に合わなかった。
夜風はぬるかった。
駅からアパートまでの道は毎日同じで、変わり映えがない。
信号は赤が続くだけで、妙に気持ちがざわつく。
仕事で疲れている日は、だいたい世の中ぜんぶ少しうるさい。
いつもの道の前方に、カップルがいた。
妙に楽しそうだった。
しかも距離が近い。近すぎる。
中村は手元のカフェオレを見た。
相棒みたいな顔をしているが、こいつは何も助けてくれない。
(今日はあの横を通ったら負けだ)
少し遠回りするだけ。
そう思って、細い路地に入った。
――はずだった。
「あれ」
細い路地の奥に、灯りが見えた。
こんなところに店なんてあっただろうか。
さっきまで負けた気分だったのに、
ちょっとだけ勝ちに変わりそうで、思わず手元のカフェオレを見る。
(やすっ……俺のプライド)
小さな明かり。
古びた木の引き戸。
軒先に揺れる、白いのれん。
そこには、こう書いてあった。
おつかれさま、空いてます
「なんか、言い方がやさしいな……」
中村は立ち止まった。
定食屋、らしい。
たぶん。
外から見えるカウンターは五席くらい。
店の前にはメニューも何も出ていない。
営業中なのかも、少し怪しい。
だが今の中村には、チェーン店の明るさより、こういう灯りの方がしっくりきた。
「……まあ、最悪カフェオレよりはマシか」
誰に言うでもなくつぶやいて、のれんをくぐる。
からん、と小さな音がした。
店の中は思ったより広くなかった。
カウンターが五席。二人用の小さな卓が二つ。
壁には色あせた短冊メニューが並んでいるのに、なぜかどれもよく見えない。
奥の厨房に、店主らしき男がいた。
年は五十代くらいだろうか。
白い割烹着。無表情。
静かに湯気を見ている姿が、妙に板についている。
中村が席に座ると、店主は顔を上げて言った。
「今日は味の濃い日だね」
「何がですか」
「おぬしが」
「診断みたいに言わないでください」
店主はそれ以上説明しなかった。
代わりに湯のみを置いた。
湯気の立つお茶だった。
「ご注文は?」
と聞かれるのかと思ったが、聞かれない。
中村が口を開くより先に、店主は言った。
「生姜焼きでいいね」
「いや、まだ何も頼んでないんですけど」
「頼む顔だった」
「どういう顔だよ」
店主はやはり説明しない。
火加減だけを見ている。
中村はカウンターにひじをつきかけて、やめた。
店の空気が妙にちゃんとしていて、なんとなく行儀よく座ってしまう。
奥の席では、先客がひとりだけいた。
三十代半ばくらいの女性。
スーツ姿で、テーブルに置いたスマホをぼんやり見ている。
綺麗な人だった。
派手ではないのに、なんとなく目に入る。
仕事帰りらしい少し疲れた顔まで、ちゃんとして見えた。
中村が視線をそらそうとした、その時だった。
「初めて?」
不意に声をかけられて、肩が少し跳ねた。
「え、あ、まあ」
情けない返事だった。
もっとこう、「そうですね」とか、少しは落ち着いた言い方があったはずなのに、脳が追いつかなかった。
女性は小さく笑った。
「そういう顔してる」
(そういうってどれ?)
(これ、試されてる?)
中村は一瞬だけ迷って、なぜか乗った。
「この店、そういうの流行ってるんですか」
言った瞬間、少し後悔した。
(やば……何それ。訳わからん返ししたな、俺)
女性はまた少しだけ笑った。
「ここでは、だいたいそう」
何がどうそうなのかは、やっぱりよくわからない。
ただ、綺麗な人に話しかけられたせいで、さっきまでより少しだけ背筋が伸びた。
少しして、カウンターに定食が置かれた。
生姜焼き。
白いご飯。
豆腐とねぎの味噌汁。
漬物。
小鉢がひとつ。
特別豪華ではない。
むしろ、かなり普通だ。
なのに、その湯気を見た瞬間、中村は少しだけ黙った。
「……ちゃんとしてる」
ぽろっと出たのは、そんな言葉だった。
店主はうなずいた。
「そういう日だ」
(おっ、店主、話に入ってきた……)
中村は少しだけ調子に乗った。
「今日はずっとそれで押し切るんですか」
「定食屋だからね」
「今の、今日いちばんまともでしたよ」
隣の女性が小さく吹き出した。
「大丈夫。ここのご飯はちゃんとしてるから」
「店主の説明が一番ちゃんとしてないんですけど」
「そこは諦めるところ」
中村は箸を取った。
生姜焼きをひと口。
少し濃いめの味。
でもくどくはない。
ご飯に合う。
というより、今の自分にちょうどよかった。
「……うま」
思わず出た声に、店主は何も言わない。
ただ、味噌汁の位置を少しだけ中村の手元に寄せた。
中村は生姜焼きをもうひと口食べて、ご飯を口に運ぶ。
味噌汁を飲む。
ああ、と小さく息が漏れた。
温かいものが胃に入ると、それだけで人は少し静かになるらしい。
「火曜は生姜焼きが効くんだよ」
先客の女性が言った。
「曜日で決まるんですか」
「疲れ方でね」
「怖いな、この店」
「でも効いてるでしょ」
「……まあ」
言い返せなかった。
効いている。
たぶん。
劇的に元気になったわけじゃない。
仕事のしんどさが消えたわけでもない。
部長が明日から真人間になるわけもない。
でも、コンビニでカフェオレ一本握っていた時の自分よりは、
明らかにこっちの方がマシだった。
「味噌汁は現実だよ」
女性がしみじみ言った。
「うわー、分かるな」
「やる気ないねぎが入ってないだけで、もう最高ですよ」
女性は少しだけ笑った。
「ほんとそれね」
「人もねぎも、やる気が大事よ」
「そこだけ妙に信用できるの腹立つな」
中村がそう言うと、女性は笑った。
店主は無言のまま、なぜか小鉢をもう一皿置いた。
「え、増えてません?」
「今日はそういう日だ」
「説明が雑だな、この店」
小鉢の中身は、ほうれん草のおひたしだった。
それもちゃんとうまい。
中村は定食を半分ほど食べたところで、ようやく肩のあたりが軽くなっていることに気づいた。
さっきまで、全部が少しだけうるさかった。
信号も、レジも、駅の放送も、自分の呼吸さえ面倒だった。
それが今は、味噌汁の湯気を見ていられる。
食べるだけで、そんなに変わるのか。
変わるのかもしれない。
食べ終わる頃には、店の中の静けさも悪くなかった。
会計をしようと席を立つと、店主が言った。
「また来るよ、おぬしは」
「俺が言う前に言わないでください」
「来ない顔ではない」
「どういう顔なんですか、それ」
店主は答えず、代わりにのれんの方をちらりと見た。
中村は財布を出しながら、小さく息を吐く。
「……まあ、たぶん来ますけど」
「うむ」
そこは満足そうにうなずくんだな、と思う。
店を出ると、夜風はさっきと同じぬるさだった。
道もたぶん同じだった。
明日が楽になる保証なんて、どこにもない。
それでも中村は、少しだけ歩く足が軽いことに気づいた。
明日が楽しみ、とまでは言わない。
でもまあ――今日よりは、少しマシな顔で会社に行ける気がした。
⸻
第2話 昼休みが、ぺちゃんこになった日
水曜の朝、中村はコンビニで少しだけ迷った。
いつものカフェオレ。
その隣に、鮭おにぎり。
三秒ほど考えて、両方取る。
「成長したな、俺……」
誰も褒めてくれないので、自分で言っておいた。
昨日の夜、あの定食屋でちゃんとした飯を食べた。
そのせいか、今朝は少しだけ顔がマシだった。
劇的に元気というわけではない。
でも、靴をそろえて家を出るくらいの余裕はある。
人間、たぶんそれくらいで十分な朝もある。
会社に着く。
席に座る。
メールを開く。
三分で帰りたくなった。
部長が朝一で言う。
「これ、しもじもがやれ」
「これ、何が難しいの?」
また始まった。
こっちは三日前から段取りして動いてるのに、一言で雑に踏まれる。
部下のやる気を削る才能だけは安定している。
「はあ……」
「朝から深いため息だな」
隣の席の先輩が笑う。
「だって、現場のこと見えてないですよ。あの発言」
「まあまあ。今日はいつもより機嫌悪いな。気にするな」
「今日は昼ちゃんと食べようと思ってるんで」
「急にどうした」
「ちょっと人として立て直し期間なんです」
「何それ」
「こっちの話です」
引き出しの中には、さっき買った鮭おにぎり。
昼になったら食べる。
今日はちゃんと食べる。
たったそれだけのことなのに、妙に大事な予定みたいに感じた。
十二時になった。
よし、昼だ。
今日は勝った。
そう思った瞬間だった。
「中村、これ先に頼む」
「中村、その件電話きてる」
「中村、印刷機詰まった」
立て続けに三方向から呼ばれた。
「昼って知ってます?」
もちろん誰にも届かなかった。
電話を取る。
資料を確認する。
印刷機のふたを開ける。
紙を引っ張る。
また電話が鳴る。
昼休みは、ぺしゃっと潰れた。
気づけば一時を回っていた。
席に戻る。
引き出しを開ける。
そこには、鮭おにぎりがひとつ。
書類の端とファイルに挟まれて、静かにぺちゃんこになっていた。
「……終わったな」
誰に言うでもなく、そうつぶやく。
中身が少し横に寄っている。
ラベルも少しよれている。
朝の自分の、ささやかなやる気がそのまま圧縮されたみたいだった。
先輩が横からのぞきこんでくる。
「食べないのか?」
「食べますよ。食べますけど」
「けど?」
「なんかもう、心が負けた感じがして」
「おにぎりに?」
「昼休みにです」
先輩はちょっと笑って、自分の席へ戻っていった。
結局、そのおにぎりは午後三時すぎに食べた。
食べたというより、口に入れた。
ぺちゃんこになった鮭は、朝より少しだけしょっぱく感じた。
午後も、だいたいそんな感じだった。
特別ひどいわけじゃない。
誰かに怒鳴られたわけでもない。
でも、全部がじわじわ削ってくる。
こういう日の疲れは、目立たないくせにしつこい。
帰り道、コンビニに寄る。
カフェオレを取る。
反射だった。
そのままレジへ行きかけて、止まる。
「……それは飯ではない」
どこかで聞いたような声が頭の中でした。
「うるせえな、もう」
小さくつぶやいて、カフェオレを棚に戻す。
戻したところで、別に勝った気もしない。
むしろ今日は、朝から何度も負けている。
ぺちゃんこのおにぎり。
潰れた昼休み。
意味不明な部長。
ずっと座っていたせいで、肩も妙に重い。
そのとき、生姜焼きの湯気がふっと頭に浮かんだ。
木の引き戸。
白いのれん。
「おつかれさま、空いてます」。
中村は少しだけ考えて、コンビニを出た。
昨日と同じ路地に入る。
今日は迷わなかった。
細い路地の奥に、あの灯りはちゃんとあった。
「……助かる」
誰に言うでもなくそうつぶやいて、のれんをくぐる。
からん、と小さな音。
店主は昨日と同じ場所にいた。
白い割烹着。無表情。
相変わらず、湯気の似合う顔をしている。
中村が席に座ると、店主はちらりと見て言った。
「今日は、つぶれたおにぎりの顔してるね」
「顔に出るタイプの事故なんですか、それ」
店主は答えない。
答えないくせに、ちょっとだけうなずいた。
奥の席には、昨日の女性がいた。
今日もスーツ姿で、やっぱりちゃんとしている。
中村に気づくと、少しだけ口元をゆるめた。
「昼、食べ損ねた?」
「なんでわかるんですか」
「座り方が浅い」
「この店、診断が雑なのに当たるな……」
女性は小さく笑った。
「ここ、そういう店だから」
「まだそこふわっとしてるんですね」
「説明されると逆に困るでしょ」
「それは……たしかに」
言い返せない。
少しして、カウンターに定食が置かれた。
豚汁。
大きめの茶碗の白飯。
焼いた鮭。
卵焼き。
漬物。
そして、小皿に小さなじゃがいもの煮っころがし。
「今日は汁がいる日だね」
店主が言う。
「そういうの、どこで見てるんですか」
「顔と肩」
「健康診断よりざっくりしてるな」
中村が箸を持つと、女性が向こうから言った。
「昼抜いた日は、汁物が効くよ」
「理屈があるんですね」
「たまにはね」
「たまになんだ……」
豚汁をひと口飲む。
「あー……」
声が出た。
だしが濃い。
味噌はやわらかい。
豚肉の脂がちょうどいい。
大根もにんじんも、ちゃんと温かい。
胃が「あ、今そういうの欲しかったです」と言っている気がした。
「うまい」
「そうだろう」
「そこは即答なんですね」
「豚汁は裏切らないからね」
「その理屈はちょっとわかるな……」
鮭を崩す。
白飯を食べる。
卵焼きをひと口。
どれも派手じゃない。
でも、ぺちゃんこのおにぎりで終わった昼の続きを、今ちゃんと食べ直してる感じがした。
「食べ損ねた日は、食べ直せばいい」
店主が、鍋の方を見たまま言った。
中村は箸を止める。
「……そういう問題でもない気もしますけど」
「でも、少しはそういう問題だよ」
奥の女性が言った。
中村は少しだけ黙って、それから豚汁をもうひと口飲んだ。
「……まあ」
「うん」
「ちょっと救われますね、それ」
「でしょ」
女性は湯のみを持ったまま、中村を見た。
「あなた、気になる人とかいないの?」
「え」
あまりに急で、変な声が出た。
一瞬だけ、白石さんの笑顔が浮かぶ。
いやいや、と中村は心の中で首を振った。
「……いないです」
女性は少しだけ目を細めた。
「ふうん。あなた、整ってきたらちゃんと見られるタイプなのに。もったいないわね」
「急に何の評価なんですか」
「定食屋の雑談」
「雑すぎるな、この店」
店主は無言で、中村の前に小鉢をもう一皿置いた。
「え、また増えてません?」
小皿には、きんぴらごぼうが入っていた。
「今日はそういう日だ」
「便利だな、その言葉」
「定食屋だからね」
「そこに全部寄せる気だな、この店」
女性が吹き出す。
中村も少しだけ笑った。
笑ったところで、仕事がなくなるわけじゃない。
明日の予定が減るわけでもない。
部長が急に優しくなることもない。
でも少なくとも、今日は昼休みの続きをここで食べている。
それだけで、だいぶ違った。
会計を済ませて、店を出る。
夜風は相変わらずぬるかった。
でも、店に入る前ほどざわざわしない。
帰り道、コンビニの前で一瞬だけ止まる。
カフェオレを手に取る。
その隣のおにぎりを見る。
少し考えて、両方持った。
「……今日は、ぺちゃんこにはさせないでおくか」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
今日はそれでいい気がした。
⸻
第3話 ちゃんとした顔で、前に立つ日
木曜の朝は、目が覚めた瞬間から少し胃が重い。
午後の重要会議のせいだった。
発表するわけじゃない。
主役でもない。
中村の役目は、営業会議の議事録を取ることだけだ。
だけ、のはずなのに、そういう役目ほど妙に神経を使う。
誰が何を言ったか。
何が決まって、何が保留なのか。
飛び交う言葉の中から、後で使える形だけを拾い続ける。
しかも途中で集中を切らしたら終わる。
そういうタイプの仕事は、だいたい胃に来る。
洗面所で顔を洗いながら、中村は鏡の中の自分を見た。
昨日よりはマシだ。
少なくとも、今にも机に突っ伏しそうな顔ではない。
それでも今日は、顔の問題ではない気がした。
「……はあ」
小さく息を吐く。
そのあとで、自分で自分に少しだけ腹が立った。
ため息はまだ早い。
会議は始まってもいない。
コンビニで、カフェオレを一本手に取る。
少し迷って、その横におにぎりも置いた。
「成長したな、俺……」
誰も褒めてくれないので、今日も自分で言っておく。
会社に着いてすぐ、給湯室へ向かった。
朝のうちに胃薬を飲んでおきたかった。
小さな紙コップに水を注ぎ、錠剤を口に入れたところで、後ろから声がした。
「大丈夫ですか?」
中村は危うく薬を変なところに送るところだった。
振り向く。
白石さんだった。
社内一の美人である。
と、いまだにそう思う。
今日は淡い色のブラウスに、細いストライプのジャケット。
仕事前の静かな顔まで、ちゃんとして見えた。
「いやー……見られたくないとこ見せましたね」
白石さんは少しだけ笑った。
「午後から会議でしたっけ」
「うん。会議というか、議事録係なんですけど」
「それ、逆にいちばん気が抜けないやつじゃないですか」
「そうなんですよ。分からない言葉も全部拾わないといけないし」
「大変そう」
「録音AIに全部まとめさせたいです、ほんと」
白石さんは小さく首をかしげた。
「でも、私は中村くんがまとめた議事録、ちょっと見てみたいです」
「え」
思ったより間抜けな声が出た。
「ちゃんとしてそうだから」
そこで中村は、胃薬より先に別のところが少しだけざわついた。
「……それ、今日の俺にかなり効く言葉ですね」
「効いてください」
「素直だなあ」
「大事な日っぽいので」
そう言って、白石さんは先に給湯室を出ていった。
中村は少しだけその場に残った。
胃の重さはまだある。
でも、さっきよりは少しだけましだった。
午後一時。
会議室の空気は、始まる前からだいぶ会議だった。
資料。
ノートPC。
録音用の端末。
ペン。
メモ。
座席表。
中村が細かく並べていると、部長が後ろから言った。
「で、ちゃんと拾えるんだろうな」
「拾いますよ」
「落とすなよ。あとで困るのはこっちだからな」
できるかどうかじゃなく、今それを言うんだ、と思った。
「はい」
「声が細い」
「胃に優しくしてください」
「何だそれ」
部長はそこで笑いもしなかった。
そういうところが余計に腹立たしい。
会議が始まった。
十分。
三十分。
一時間。
話す人が変わるたび、単語の温度が変わる。
数字。部署名。略語。未確定の話。確定事項。確認事項。宿題事項。
誰の発言で、何が決まって、どこが曖昧なのか。
いまの主語は誰だ。
それ、決定でいいのか。
いや、まだ確認か。
雑談っぽい入りだったのに、途中から大事な話になったな。
それ先に言ってくれよ。
中村の頭の中では、ずっとそんなことが流れていた。
開始一時間半を過ぎたあたりで、頭の中に豚汁が湯気を立て始めた。
現実逃避としてはだいぶ健康的だった。
二時間。
三時間。
四時間。
誰かが早口になるたびに、中村の指も早くなる。
誰かが話を戻すたびに、さっき消した一文を書き直したくなる。
会議というより、言葉の波に沈まないようにしている感じだった。
終盤にはもう、背中から首まで全部が会議になっていた。
五時間後。
「では、以上で」
その一言と同時に、中村は椅子の背にもたれた。
終わった。
終わったが、終わったことしかわからない。
会議室を出た瞬間、同僚が言った。
「おい、中村。死んでないか」
「あー……無理」
「そんなに?」
「内容多すぎるし、もうだいぶ終わった」
「五時間とか集中できるわけないだろ……」
同僚は笑った。
「どんまい中村」
「軽いな」
「でも生きてるじゃん」
「たしかに、それだけはそう」
それだけ言って、中村は壁に肩を預けた。
しばらくして、廊下の向こうから白石さんがやってきた。
「中村くん」
「……はい」
「大丈夫ですか。顔、だいぶ会議でしたよ」
「顔に出るタイプらしいです」
「そうみたいですね」
白石さんは少しだけ笑った。
「でも、議事録、見やすかったです」
「え」
「途中で少し見せてもらったんですけど。ちゃんとまとまってました」
「……それ、今日いちばん効くかもしれないです」
「じゃあ、言ってよかったです」
ほんの数秒の会話だった。
でも、その一言だけで、中村の中の何かが少しだけ起き上がった。
帰り道、コンビニの明かりが見えても、今日は先に路地の方へ足が向いた。
考えたというより、体がそうした。
細い路地の奥に、あの灯りは今日もあった。
「……ある」
それだけで、少しだけ安心した。
のれんをくぐる。
からん、と小さな音。
店主はいつもの場所で湯気を見ていた。
奥の席には、あの女性もいる。
今日もスーツで、やっぱりちゃんとしていた。
中村が座ると、店主がちらりと見て言った。
「今日は、文字数の多い顔してるね」
「新しい診断きましたね」
店主は答えず、お茶を置いた。
奥の女性が笑う。
「今日はちゃんと頑張った顔してる」
「顔でバレる人生なんですかね」
「この店ではだいたいそう」
「そこ、もう少し曖昧にしてほしいな」
少しして、定食が置かれた。
鯖の味噌煮。
白いご飯。
豆腐とわかめの味噌汁。
ほうれん草のおひたし。
だし巻き卵。
漬物。
「今日は、噛める日だね」
店主が言う。
「それも顔と肩で見るんですか」
「今日は文字数と胃だね」
「診断項目が増えてるな」
「会議?」
と女性。
「うん。五時間」
「うわ、それは汁がいる」
「やっぱり汁なんですね」
「頭を使いすぎた日は、汁が効くのよ」
「この店、液体への信頼が厚いな……」
中村は箸を取った。
鯖をひと口。
甘すぎない味噌。
白飯。
味噌汁。
だし巻き。
うまかった。
派手な味ではない。
でも、疲れて空っぽになった体の隙間に、ちゃんと入ってくる感じがした。
「……うまい」
「そうだろう」
「そこは即答なんですね」
「鯖は裏切らないからね」
「豚汁に続いて、魚までそっち側なんだ」
「定食屋だからね」
「便利だな、その言葉」
女性が小さく笑った。
中村は味噌汁を飲みながら、今日の会議のことを少しだけ思い出した。
嫌だった。
長かった。
正直、途中で何回か帰りたかった。
でも、ちゃんと最後まで座って、ちゃんと取った。
「勝たなくていい。空で行くな」
店主が鍋を見たまま言った。
中村は箸を止めた。
「それ、定食屋が言うと妙に効きますね」
「定食屋だからね」
「そこは毎回職業で押し切るんだな」
女性が湯のみを持ち上げる。
「ちゃんとやった日は、ちゃんと食べていいのよ」
「……それ、今日ちょっと沁みます」
「でしょ」
「はい」
その返事は、自分でも少し素直すぎると思った。
でも、今日はそれでよかった。
会計を済ませて店を出る。
夜風は相変わらずぬるい。
明日も仕事はある。
部長もたぶん変わらない。
会議のまとめも、明日まだ少し残る。
それでも中村は、コンビニでカフェオレを一本取って、その隣におにぎりを一つ置いた。
少し考えて、さらに水も一本持つ。
「……まあ、このくらいはな」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
大きく何かが変わったわけじゃない。
明日もたぶん、そこそこだるい。
でも今日は、ちゃんとやった。
ちゃんと疲れた。
だから、ちゃんと食べて帰る。
そういう一歩なら、悪くなかった。
本作は『退勤妖精、居候中』の続編です。
前作から読んでいただくと、より楽しめる形になっています。
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