第三章「旅立ち〜炎砂皇国アルザード編」(第19話〜第27話)まとめ
「無能の皇女」はもう、どこにもいなかった。
宝石国の城下町。民衆が広場を埋め尽くしている。
次期国王ラピス・ジュエルの即位を祝う式典——のはずだった。
だがラピスは、式典を中断した。
「少し、待ってください」
シュバルツ卿が眉をひそめる。式次第にない行動だ。
だがラピスは臆さなかった。
「今日は——内定の発表です。即位ではありません」
追加条文を一つ、国王に進言していた。
即位は二十歳。それまでの四年間は、ラピスが自力でこの国を立て直す猶予期間。
ただ座って待つだけの王にはならない、という宣言だった。
ざわめく広場に、杖をつく足音が響いた。
国王が——病床から姿を見せた。
シュバルツ卿が慌てる。「陛下、御身体が——」
「良いのじゃ」
「しかし——」
「そんな法律があるのじゃ。昨日から」
王は広場を見渡した。
声は老いていたが、震えてはいなかった。
「余は諦めた。怖かった。臆病者だった」
静寂が落ちる。
「帝国が動いている。その影が、既にこの国にまで及んでいた。この国に籠っているだけでは——生き残れん」
そして、王は落ちぶれたオスカーに目を向けた。
「お前のことを——ずっと、誤魔化してきた。本来なら——お前をラピスより先に、次期国王に据えるつもりだった」
オスカーの目が見開かれる。
知らなかった。父が自分に、そんな期待を寄せていたなんて。
「残した汚点は——栄光で塗りつぶせ」
「また、この国のために——私と頑張ってくれないか」
オスカーの膝が折れた。
声が震えていた。
「——御意」
かつて酒に溺れ、国庫を食い潰し、裸足で立ち尽くした男が、初めて真っ直ぐ頭を下げた。馬鹿は殺すより使え——アナの判断が、ここで花を開いた。
そしてラピスが民衆に向かって言った。
「私がここに立っていられるのは——一人の人間のおかげです」
「彼女は言いました。私利私欲で動いている、と。たまたまこの国の役に立っただけだ、と」
「失った故郷を彼女の手に取り戻したい。それだけです」
「勝利の女神に——感謝を」
民衆の視線がアナに集中する。
「女神様!」
「勝利の女神様!」
——は?
アナが逃げた。全力で逃げた。
民衆が追いかけた。
「女神様が脱走するぞ!!」
「逃すな!」
「サインをもらいそびれた!」
この国で一番危険な追跡劇が、始まってしまった。
(女神なんかじゃないわよ。私利私欲で動いてるだけ!)
でも誰も聞いてくれなかった。
旅立ちの前夜。
ジークは一人で城下町を歩いていた。
すれ違う女性たちに声をかけられる。ラピスの協力者を回っていた時に顔を覚えられたらしい。
路地裏で、オスカーと出くわした。
「モテるじゃん」
「うわっ」
オスカーが酒を差し出した。「座れば? 悩みがあるなら聞くよ」
ジークは座った。
アナのこと。ラピスのこと。自分の立場のこと。言葉にならない感情を、不器用に話し始めた。
「ラピス殿下が『アナ』と呼ぶようになって……なんというか……」
「焦ってる、と」
「……」
「ジーク、お前さ。アナのこと、好きなんじゃないの」
「違います!!」
即答。あまりにも速い即答。
「なんで即答できんの」
「……」
「それ、言い訳じゃん」
オスカーは杯を傾けて続けた。
「女の子って、考えないようにしてる時が一番考えてるんだよね。ジーク、今俺の話聞きながらアナのこと考えてたろ」
「……」
「好きなら伝えた方がいいよ。女の子ってさ、待ってるだけじゃ気づかないから。特にアナみたいなタイプは」
「お前が何もしなかったら、一生『騎士』で終わるよ」
その言葉が、ジークの胸に刺さった。
剣なら抜ける。敵なら斬れる。
だがこの感情は——まだ、鞘から抜けない。
翌朝。城門でアナが待っている。
「ぼーっとしてるの。馬の準備はできてる?」
ジークは「姫様」と呼びかけた。
「あの……」
「何?」
「……お気をつけて」
「それだけ? 何それ。あなたも一緒に行くんでしょ」
アナは怪訝な顔をして歩き出した。
ジークは——伝えられなかった。
炎砂皇国アルザード。
空気が変わった。乾いた熱風が、日差し以上に肌を灼く。
日干しレンガの建物。砂と岩の大地。香辛料の匂いと、客を呼ぶ声が溢れる市場。
宝石国の穏やかさとは何もかもが違う。
「占い、いかがですか? ガイドもやってますよ」
褐色の肌。長い編み込みの髪。明るい目。
ナーガ。占い師にしてガイド。
「この街、初めてでしょ? ぼったくりの露店とか、迷宮みたいな路地とか——知らないと大変だよ」
銀貨二枚でガイドを頼んだ。
ナーガはジークの手相を取った。両手で包むように触れて、目を閉じる。
「あなた。もう——溢れ出てきそうね」
ジークが石になった。
「大事にしなよ。そういう気持ち、一生に何度もないから」
ジークの耳が赤い。ラピスが「何のこと?」と首を傾げる。アナだけが腕を組んで無言だった。
ナーガの案内は完璧だった。
香辛料が香る大通り。色鮮やかな布が並ぶ市場。活気ある食堂。
——綺麗な場所だけを、見せてくれた。
でも裏道には、一度も入らなかった。
アナは気づいていた。最初から。
「綺麗な場所。美味い飯屋。活気のある大通り。全部——良いものだけだった」
この女は、この街の「見せたくないもの」を隠している。
翌日。アナは銀貨を五枚、テーブルに並べた。
「五枚でしか見せない景色を、見せて」
「……多すぎるよ」
「最初から、わかってたわ。あなたが何かを隠してることくらい」
ナーガの顔から観光客用の笑顔が剥がれた。
代わりに浮かんだのは、覚悟を決めた目。
「わかった」
裏路地に入る。
洗濯物が干された狭い通り。子供たちが駆け回る。
ナーガを見つけた子供が叫んだ。
「ナーガ姉ちゃん!」
ここではナーガは「占い師」じゃなかった。「姉ちゃん」だった。
薬草を配り、子供の頭を撫で、大人たちに「今日も来てくれたかい」と声をかけられる。
ジークとラピスが下町の子供たちに相撲を挑まれた。
「はっけよい——のこった!!」
二人とも全力で相手をした。手を抜かない。でも威張らない。
下町に笑い声が広がった。
「驚かないでよ」
ナーガが路地の奥の扉を開けた。
聞こえてきたのは——子供たちの声。
孤児院。
ナーガが一人で面倒を見ている、親のいない子供たち。
リナ、コル、タス、サラ。
限られた食事。狭い部屋。
それでも子供たちは笑っていた。ナーガがいるから。
「明日は来なくていいよ。銀貨五枚分は十分案内したから」
「明日も来るわ」
「なんで?」
「まだ見ていない場所があるでしょ」
アナは三日間、通った。
毎日ガイド料の名目で銀貨を払い、ついでに食べ物を持ち込んだ。
ナーガが気づいた。
「あなた、さりげなく子供たちに食べ物持ってきてるよね」
「気のせいでしょ」
「気のせいじゃない。リナが喜んでた」
「……」
「あなた、いい人だね」
「違うわ」
「そういうとこが、いい人なんだよ」
——この女は、どうしてこういうことを平気で言えるのだろう。
アナの心に、蜃気楼のように揺れる何かが生まれていた。
施しじゃない。対価だと言い張っている。でも——子供たちの笑い声が、意外と嫌じゃないことに気づいてしまった。
四日目の朝。孤児院に駆け込んできたコルが叫んだ。
「姉ちゃんが昨日の夜、チンピラが来て追い払おうとしたら何かを飲まされて——」
「サラが、連れていかれた」
ナーガが倒れていた。
顔が青白い。呼吸が浅い。
七十二時間で死ぬ特製毒を盛られていた。
闇商人。下町を潰してコロッセオを建設する計画。貧民を労働力として使い捨てにする。ナーガは邪魔だった。子供を人質に取れば、ナーガは動けない。
アナの中で、何かが切れた。
胃の底から這い上がる飢餓感。好きなものを傷つけられた時の、あの感覚。
ナーガがかすれた声で言った。
「サラを——お願い」
アナが立ち上がる。
「ジーク、行くわよ」
「ラピスはここに残って。ナーガと子供たちを守って」
「必ず、連れて帰ってください」——ラピスの声が震えていた。
「当たり前でしょ」
路地裏で情報屋を締め上げた。影の蛇を巻きつけると、三秒で喋った。
「ひぃっ——な、なんだこれ——離せ離せ離せ——!!」
「虚勢というのは、崩れる時が早いのよ」
廃工場。十二人の手下。影が地面を這い、一瞬で全員を制圧した。
だが奥の部屋で盗み聞きした会話が、アナの血を凍らせた。
「コロッセオの建設用地として、あのエリアは最適です」
「毒を飲ませた。帝国の商人から仕入れたレシピで作った特製品です。持って後二日でしょう」
「子供も一人、確保してある。これでナーガが生きていても動けない」
帝国の商人から仕入れた毒のレシピ——?
バイパーの手が、こんなところまで伸びている。
ボスが振り向いた。
「俺の能力は毒生成だ。七十二時間で死ぬ。もう半分以上経ってる。お前らには止められない」
「その毒——あなたが作れるなら、解毒薬も作れるはずでしょ」
「俺には無理だ。帝国の商人のレシピ通りに作っただけだ」
ボスが毒霧を直接アナの顔に浴びせた。
「特製の毒霧だ! 直接顔にかけりゃ、どんな毒耐性も——」
意識が沈む。暗闇が迫る。
——あら。
内側から、声が聞こえた。あの甘い声。
「この毒は、どこかで嗅いだことがあるわ」
帝国の禁術。バイパーの毒霧と同じ系統。
「この毒——飲み込めるでしょう?」
喰らえ。
毒を飲み込んだ。養分に変えた。
音もなく。苦しみもなく。蛇が慣れた手つきで古い皮を脱ぐように——静かに、自然に。
そしてボスの魔力ごと、毒を生み出す力そのものを捕食した。
「毒は——私の養分よ」
毒生成。暴食アナコンダの新スキル。
毒を作れるということは——解毒剤も作れる。
アナは走った。
孤児院へ。手のひらに淡い青の霧を生成し、ナーガの口に流し込んだ。
一分。二分。
ナーガの呼吸が——深くなり始めた。
顔に、かすかに色が戻った。
「……ん」
「なんか、すごく眠かった」
「寝てなさい。まだ毒が抜けきってないわ」
「アナ……ありがとう」
「感謝はいらないわ。対価よ。あなたの占い、まだ使うんだから」
ナーガが笑った。毒でぼろぼろの身体で、笑った。
「私たち、友だちでしょ?」
アナが固まった。
「友だち」。
その言葉が、思ったより——深いところに刺さった。
宝石国の民が「女神」と呼んだ時より。ラピスが「約束を守れた」と笑った時より。
「……そ、そういうことを簡単に言わないでよ」
「なんで? 友だちじゃないの?」
「……うるさいわ」
ジークとラピスが笑った。
「笑わないでよ!!」
夜の砂漠を、満天の星が見守っていた。
回復したナーガは、止まらなかった。
アナとナーガは二人で港の倉庫に潜入し、闇商人と役人の癒着の証拠——取引帳簿、署名入りの密約書——を奪い取った。
ナーガの占いが倉庫の場所を嗅ぎ当て、アナの影の蛇が守衛四人を一瞬で沈めた。
ナーガが初めてアナの能力を見た。
「今、何したの?」
「何も」
「絶対、何かした」
「乙女に秘密はつきものよ」
「お姫に秘密は何個あるの?」
「さあ。数えたことないわ」
ナーガは笑った。「絶対カウントする」と。
そしてナーガは広場に立った。
「この街で——何が起きていたか。全部、話します」
ナーガの声が、広場の空気を裂いていく。
闇商人と役人の癒着。コロッセオ建設計画。下町の人間を労働力に使い捨てにする計画。
証拠を突きつけられた役人三人が拘束された。闇商人は姿を消した。
コロッセオ計画は白紙に戻った。
「この街は——私たちの街です! 奪わせない。——絶対に」
アナは舞台裏から見ていた。
表に立ったのはナーガだ。アナは影から支えただけ。
宝石国と同じ。表に立つのは、いつもアナ以外の誰かだ。
数日後。ナーガは子供たちを宝石国のラピスに託すと決めた。
「みんな、泣いてたけど」——それだけ言って、ナーガは前を向いた。
「安全に暮らしたいわけじゃないんだ」
「私、もっと強くなりたい」
「砂を掬っても、指の間から零れ落ちていく。全部を守るには、私はまだ何も知らなすぎる」
「アナたちと一緒に旅をさせて」
アナは腕を組んで、ナーガを見た。
「あなたのその純粋さは、時として毒より厄介ね」
「いいわ。ただし——私の足手まといになったら、砂漠の真ん中に置いていくから」
四人になった。
アナ。ジーク。ラピス。ナーガ。
旅は続く。次の目的地は——南。海賊の港、自由港クロッサード。
▶ 第三章のキーワード
毒生成——暴食アナコンダの新スキル。毒を作り、解毒剤も作れる。ナーガの命を七十二時間の期限から奪い返した力。
「私たち、友だちでしょ?」——ナーガの一言。皇女でも捕食者でもなく「アナ」として受け入れた。アナが一番照れた瞬間。
銀貨五枚の景色——通常のガイド料では見せない、アルザードの裏側。ナーガの本当の顔。
「残した汚点は栄光で塗りつぶせ」——王がオスカーにかけた言葉。馬鹿を殺さず残したアナの判断が、王の最後の言葉として結実する。
ジークの鞘から抜けない剣——オスカーに「一生『騎士』で終わるよ」と突きつけられても、城門で「お気をつけて」としか言えなかった男。
帝国の禁術毒——アルザードの闇商人が持っていた、バイパーと同じ系統の毒。帝国の影は大陸中に伸びている。
▶ 次章予告
自由港クロッサード。金と拳だけが法律の、海賊の街。
そこでアナは——「父親」を手に入れる。
口には出さない。出す気もない。でも確かに、そう感じてしまう男。
その男の名は、ガルド。




