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〜無能で最弱の元プリンセスが、地獄の果てまで飲み込む復讐界隈の話〜 ミセス アナコンダ  作者: 大背戸智
第四章「自由港クロッサード編」

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第29話:海賊の流儀

ガルドという男の輪郭が、少しずつ見えてきます。

豪快で、粗野で、人の財布で酒を飲む最低な男。

でも——こういう奴ほど、クセになる。


夜中に目が覚めた。


喉が渇いた——のではない。


気配。


宿の窓の外に、獲物を値踏みするような視線が張りついている。


一つ、二つ——五つ。


(……来たわね)


私はベッドの上で薄く目を開けた。動かない。まだ、動く必要がない。


視線は探っているだけ。品定め。


帝国に売るなら生きたまま。殺すつもりならとっくに踏み込んでいる。


(金貨五百枚——私の値段としては安いわね)


ふと、別の気配に気づいた。


宿の入り口。


太い腕を組んで、壁にもたれている影。


ガルドだった。


眠っているように見える。だが——あの目は、閉じていない。


外の五つの気配が、一つ、また一つと消えていく。


ガルドは微動だにしない。ただそこに「いる」だけ。


それだけで、鼠は逃げた。


(……何のつもりかしら)


私は目を閉じた。


考えるのは明日でいい。今夜は——思いのほか、よく眠れそうだった。


***


翌朝。


「おい嬢ちゃん、朝飯まだか」


ガルドが、食堂の椅子にどかりと座っていた。


まるで最初からここに住んでいたような顔で。


「……あなた、昨夜ずっと入り口にいたわよね」

「は? 寝てただけだ。宿代払えねえから軒先借りてただけだろ」


嘘だ。


嘘だと知っていて、私は追及しなかった。


「ガルドさん、ほっぺにお煎餅の跡ついてるよ! 本当に寝てたんだね」

ナーガが笑いながらガルドの頬を指さす。


「うるせえ、寝相が悪いんだよ」

「寝相が悪い人は見張りに向かないのでは」

ジークが、静かに核心を突いた。


「だから見張りなんかしてねえっつってんだろ!」

ガルドが食卓を叩く。皿が跳ねた。


ラピスが跳ねた皿を静かに受け止めて、元の位置に戻す。

「……朝から賑やかだね」


この一行は、確実に何かが壊れ始めている。

ただ、直さなくてもいい気がしていた。



***



朝食の後、ガルドが地図を広げた。


「いいか、嬢ちゃん。昨日の連中は《黒潮》の下っ端だ。様子見。本命はまだ動いてねえ」

「本命?」

「バロッサの側近——《錨のドレイク》って野郎がいる。取引の実務は全部そいつが仕切ってる。帝国との窓口もな」


「帝国との——」


私の指が、無意識に食卓の端を掴んだ。


爪が白くなるほど、強く。


「あいつが動いたら本気だ。で、多分もう動いてる。昨夜の偵察がその前触れだろうよ」

「どうしてそこまで分かるの」

「俺が昔そっち側にいたからだ」


ガルドは、何でもないことのように言った。


「《黒潮》のやり方は知ってる。まず値踏み、次に脅し、それでも動かなきゃ力ずくだ。お前らが今いるのは——二番目と三番目の間くらいだな」

「呑気に解説してる場合?」

「呑気じゃねえよ。だから朝飯の前に逃げ道を三つ確認してきた」


——この男。


「ガルドさん、いつ寝たの?」


ナーガが不思議そうに首を傾げた。


「寝てねえよ」

「え」

「寝なくても死なねえだろ。俺は」


死ぬほど適当なことを言いながら、ガルドの目だけが笑っていなかった。



***



昼過ぎ。市場を歩いた。


食料の調達——というのは建前で、街の空気を読むためだ。


ガルドが、当然のように先頭を歩いている。


狭い路地では体で道を塞ぐように。広い通りでは視線を四方に配りながら。


(……無意識なのかしら)


まるで、小さな子供を連れた大人の歩き方だった。


「ガルドさん! これ見て、すっごい大きい魚!」


ナーガが、干物屋の前で目を輝かせた。


「おう、クロッサード鰤だ。塩焼きにすると美味えぞ。買うか?」

「お金ないよ」

「嬢ちゃんに出させろ」

「私の財布を何だと思っているの」

「みんなの財布」


ガルドが、真顔で言った。


(殴りたい)


ジークが、背後で小さくため息をついている。同志の気配がする。


「ガルド、一つ聞いていいかな」


ラピスが、ふと立ち止まった。


「あ?」


「どうして僕たちを助けるの?」


静かな声だった。責めているのではない。

ただ純粋に、知りたいのだと——その透き通った目が語っている。


ガルドは一瞬、黙った。


それから、干物を一匹ひっつかんで歯で千切りながら答えた。


「ガキが殺されるのを見るのは寝覚めが悪い。それだけだ」


「……それだけ?」


「それだけだ」


ガルドが歩き出す。背中が大きかった。


ナーガには兄のように。

ラピスには壁のように。

ジークには——認めたくないだろうが、頼もしく。


(——誰かを、重ねている)


私は気づいてしまった。


この男の目は時折、私たちを見ていない。

私たちの向こう側にいる、別の誰かを見ている。


でも、踏み込まなかった。

他人の腹の中を覗く趣味はない。

少なくとも、踏み込みすぎなければ仲間でいてくれる。


***


夕暮れ。


宿に戻る路地で——待ち伏せされた。


八人。


全員が、腰に曲刀を差している。


先頭に立つ男は、左腕に錨の刺青。


「帝国第一皇女アナスタシア——だな」


(ドレイク。思ったより早い)


「金貨五百枚のお姫様が、こんなドブ臭え街に何の用だ?」


ドレイクが薄く笑った。


「理由は関係ねえか。帝国が欲しがってんだ。大人しくついて来い」


ジークが、一歩前に出た。


剣の柄に手をかけている。間合いを測る目。八人を相手に、どう捌くかをすでに計算している。


「——待ちなよ」


ナーガが、ジークの袖を引いた。


「ナーガ?」


「あのね、占いの結果——」


ナーガが微笑んだ。


「後ろから来るよ」


直後。


轟音。


路地の壁が、内側から砕けた。


瓦礫の中から現れたのは——ガルドだった。


「よう」


煉瓦の粉をまとい、壁の破片を肩で払いながら。


「壁を壊して登場する必要ありました?」


ジークの声が、かつてないほど冷たい。


「主役は遅れてくるんだよ」

「あなたは主役の器じゃないわ」

「クロッサード鰤捌いてもらう間に、なんで勝手に行くんだよ」

「あなたが勝手に私のお金で買っただけでしょ」


ドレイクの部下たちが動揺している。ガルドの名は、この街では——まだ重い。


「お前ら、舐めてんのか」

「ガルド——お前、《黒潮》に逆らうのか」

「逆らうも何も、俺はとっくに辞めてんだろ。年賀状もお中元も出してねえ」

「……ガキどもに肩入れして、何になる」

「何にもならねえよ」


ガルドが、首を鳴らした。


ごきり、と。路地に骨の音が響く。


「ただ——寝覚めが悪いんだよ。ガキを売り飛ばす商売は」


ドレイクの目が、細くなった。


「後悔するぞ」

「しねえよ。俺はな——」


ガルドが、笑った。

夕陽を背に。瓦礫の粉塵の中で。

まるで、この瞬間を楽しんでいるかのように。


「後悔ってのは、やらなかった奴がするもんだ。やった奴は——前に進むしかねえんだよ」


ドレイクが、舌打ちをした。


「……覚えてろ。次はバロッサが直接来る」


八人が、潮が引くように消えていった。


***


夜。


宿の屋上で、潮風に吹かれていた。


星が出ている。砂漠の星とは違う。海の上の星は、どこか湿っている。


「眠らないの?」


屋上に上がってきたのは、ナーガだった。


「あなたこそ」


「なんか、目が冴えちゃって」


ナーガが隣に座った。


しばらく、二人で海を見た。


「ねえ、アナ」

「何」

「ガルドさん——いい人だね」

「いい人かどうかは知らないわ。ただ——」

「ただ?」

「……面倒な人ではあるわね」


ナーガが、くすくす笑った。


「ねえ、ガルドさんに聞いたんだ。どうしてそんなに強いのって」

「何て言ってた」

「『弱い奴のそばにいたら、強くなるしかねえだろ』って」


ナーガが、少し黙った。


「……私のこと言われてるのかと思ったけど、なんか——違う気がした。もっと昔の、別の誰かのこと言ってるみたいで」


風が吹いた。


潮の匂いが、髪を攫っていく。


(——やっぱり)


この男には、守れなかった誰かがいる。

それを誰にも言わず、軒先で眠ったふりをしながら、見張りをしている。

面倒な男。


(でも——嫌いじゃないわ。その不器用さは)


「ナーガ」

「うん?」

「明日からもっと忙しくなるわ。寝なさい」

「アナも」

「ええ——」


私は、階下を見た。


宿の入り口に、またガルドの影がある。


壁にもたれて、腕を組んで。


今夜も、眠る気がないらしい。


(……誰の夢を、見ているのかしら)


星が一つ、海に落ちた。


階下で、ガルドが小さく欠伸をした。


——その背中に、「バロッサが動いた」という報せが届くのは、翌朝のことだった。



ガルドは宿の軒先で眠ったふりをしています。

誰のためとも言わずに。この男の不器用な優しさ。

そんな男になりたかったです。

次回、バロッサが動きます。

次回更新は3/28 19時〜を予定しております。

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