第29話:海賊の流儀
ガルドという男の輪郭が、少しずつ見えてきます。
豪快で、粗野で、人の財布で酒を飲む最低な男。
でも——こういう奴ほど、クセになる。
夜中に目が覚めた。
喉が渇いた——のではない。
気配。
宿の窓の外に、獲物を値踏みするような視線が張りついている。
一つ、二つ——五つ。
(……来たわね)
私はベッドの上で薄く目を開けた。動かない。まだ、動く必要がない。
視線は探っているだけ。品定め。
帝国に売るなら生きたまま。殺すつもりならとっくに踏み込んでいる。
(金貨五百枚——私の値段としては安いわね)
ふと、別の気配に気づいた。
宿の入り口。
太い腕を組んで、壁にもたれている影。
ガルドだった。
眠っているように見える。だが——あの目は、閉じていない。
外の五つの気配が、一つ、また一つと消えていく。
ガルドは微動だにしない。ただそこに「いる」だけ。
それだけで、鼠は逃げた。
(……何のつもりかしら)
私は目を閉じた。
考えるのは明日でいい。今夜は——思いのほか、よく眠れそうだった。
***
翌朝。
「おい嬢ちゃん、朝飯まだか」
ガルドが、食堂の椅子にどかりと座っていた。
まるで最初からここに住んでいたような顔で。
「……あなた、昨夜ずっと入り口にいたわよね」
「は? 寝てただけだ。宿代払えねえから軒先借りてただけだろ」
嘘だ。
嘘だと知っていて、私は追及しなかった。
「ガルドさん、ほっぺにお煎餅の跡ついてるよ! 本当に寝てたんだね」
ナーガが笑いながらガルドの頬を指さす。
「うるせえ、寝相が悪いんだよ」
「寝相が悪い人は見張りに向かないのでは」
ジークが、静かに核心を突いた。
「だから見張りなんかしてねえっつってんだろ!」
ガルドが食卓を叩く。皿が跳ねた。
ラピスが跳ねた皿を静かに受け止めて、元の位置に戻す。
「……朝から賑やかだね」
この一行は、確実に何かが壊れ始めている。
ただ、直さなくてもいい気がしていた。
***
朝食の後、ガルドが地図を広げた。
「いいか、嬢ちゃん。昨日の連中は《黒潮》の下っ端だ。様子見。本命はまだ動いてねえ」
「本命?」
「バロッサの側近——《錨のドレイク》って野郎がいる。取引の実務は全部そいつが仕切ってる。帝国との窓口もな」
「帝国との——」
私の指が、無意識に食卓の端を掴んだ。
爪が白くなるほど、強く。
「あいつが動いたら本気だ。で、多分もう動いてる。昨夜の偵察がその前触れだろうよ」
「どうしてそこまで分かるの」
「俺が昔そっち側にいたからだ」
ガルドは、何でもないことのように言った。
「《黒潮》のやり方は知ってる。まず値踏み、次に脅し、それでも動かなきゃ力ずくだ。お前らが今いるのは——二番目と三番目の間くらいだな」
「呑気に解説してる場合?」
「呑気じゃねえよ。だから朝飯の前に逃げ道を三つ確認してきた」
——この男。
「ガルドさん、いつ寝たの?」
ナーガが不思議そうに首を傾げた。
「寝てねえよ」
「え」
「寝なくても死なねえだろ。俺は」
死ぬほど適当なことを言いながら、ガルドの目だけが笑っていなかった。
***
昼過ぎ。市場を歩いた。
食料の調達——というのは建前で、街の空気を読むためだ。
ガルドが、当然のように先頭を歩いている。
狭い路地では体で道を塞ぐように。広い通りでは視線を四方に配りながら。
(……無意識なのかしら)
まるで、小さな子供を連れた大人の歩き方だった。
「ガルドさん! これ見て、すっごい大きい魚!」
ナーガが、干物屋の前で目を輝かせた。
「おう、クロッサード鰤だ。塩焼きにすると美味えぞ。買うか?」
「お金ないよ」
「嬢ちゃんに出させろ」
「私の財布を何だと思っているの」
「みんなの財布」
ガルドが、真顔で言った。
(殴りたい)
ジークが、背後で小さくため息をついている。同志の気配がする。
「ガルド、一つ聞いていいかな」
ラピスが、ふと立ち止まった。
「あ?」
「どうして僕たちを助けるの?」
静かな声だった。責めているのではない。
ただ純粋に、知りたいのだと——その透き通った目が語っている。
ガルドは一瞬、黙った。
それから、干物を一匹ひっつかんで歯で千切りながら答えた。
「ガキが殺されるのを見るのは寝覚めが悪い。それだけだ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
ガルドが歩き出す。背中が大きかった。
ナーガには兄のように。
ラピスには壁のように。
ジークには——認めたくないだろうが、頼もしく。
(——誰かを、重ねている)
私は気づいてしまった。
この男の目は時折、私たちを見ていない。
私たちの向こう側にいる、別の誰かを見ている。
でも、踏み込まなかった。
他人の腹の中を覗く趣味はない。
少なくとも、踏み込みすぎなければ仲間でいてくれる。
***
夕暮れ。
宿に戻る路地で——待ち伏せされた。
八人。
全員が、腰に曲刀を差している。
先頭に立つ男は、左腕に錨の刺青。
「帝国第一皇女アナスタシア——だな」
(ドレイク。思ったより早い)
「金貨五百枚のお姫様が、こんなドブ臭え街に何の用だ?」
ドレイクが薄く笑った。
「理由は関係ねえか。帝国が欲しがってんだ。大人しくついて来い」
ジークが、一歩前に出た。
剣の柄に手をかけている。間合いを測る目。八人を相手に、どう捌くかをすでに計算している。
「——待ちなよ」
ナーガが、ジークの袖を引いた。
「ナーガ?」
「あのね、占いの結果——」
ナーガが微笑んだ。
「後ろから来るよ」
直後。
轟音。
路地の壁が、内側から砕けた。
瓦礫の中から現れたのは——ガルドだった。
「よう」
煉瓦の粉をまとい、壁の破片を肩で払いながら。
「壁を壊して登場する必要ありました?」
ジークの声が、かつてないほど冷たい。
「主役は遅れてくるんだよ」
「あなたは主役の器じゃないわ」
「クロッサード鰤捌いてもらう間に、なんで勝手に行くんだよ」
「あなたが勝手に私のお金で買っただけでしょ」
ドレイクの部下たちが動揺している。ガルドの名は、この街では——まだ重い。
「お前ら、舐めてんのか」
「ガルド——お前、《黒潮》に逆らうのか」
「逆らうも何も、俺はとっくに辞めてんだろ。年賀状もお中元も出してねえ」
「……ガキどもに肩入れして、何になる」
「何にもならねえよ」
ガルドが、首を鳴らした。
ごきり、と。路地に骨の音が響く。
「ただ——寝覚めが悪いんだよ。ガキを売り飛ばす商売は」
ドレイクの目が、細くなった。
「後悔するぞ」
「しねえよ。俺はな——」
ガルドが、笑った。
夕陽を背に。瓦礫の粉塵の中で。
まるで、この瞬間を楽しんでいるかのように。
「後悔ってのは、やらなかった奴がするもんだ。やった奴は——前に進むしかねえんだよ」
ドレイクが、舌打ちをした。
「……覚えてろ。次はバロッサが直接来る」
八人が、潮が引くように消えていった。
***
夜。
宿の屋上で、潮風に吹かれていた。
星が出ている。砂漠の星とは違う。海の上の星は、どこか湿っている。
「眠らないの?」
屋上に上がってきたのは、ナーガだった。
「あなたこそ」
「なんか、目が冴えちゃって」
ナーガが隣に座った。
しばらく、二人で海を見た。
「ねえ、アナ」
「何」
「ガルドさん——いい人だね」
「いい人かどうかは知らないわ。ただ——」
「ただ?」
「……面倒な人ではあるわね」
ナーガが、くすくす笑った。
「ねえ、ガルドさんに聞いたんだ。どうしてそんなに強いのって」
「何て言ってた」
「『弱い奴のそばにいたら、強くなるしかねえだろ』って」
ナーガが、少し黙った。
「……私のこと言われてるのかと思ったけど、なんか——違う気がした。もっと昔の、別の誰かのこと言ってるみたいで」
風が吹いた。
潮の匂いが、髪を攫っていく。
(——やっぱり)
この男には、守れなかった誰かがいる。
それを誰にも言わず、軒先で眠ったふりをしながら、見張りをしている。
面倒な男。
(でも——嫌いじゃないわ。その不器用さは)
「ナーガ」
「うん?」
「明日からもっと忙しくなるわ。寝なさい」
「アナも」
「ええ——」
私は、階下を見た。
宿の入り口に、またガルドの影がある。
壁にもたれて、腕を組んで。
今夜も、眠る気がないらしい。
(……誰の夢を、見ているのかしら)
星が一つ、海に落ちた。
階下で、ガルドが小さく欠伸をした。
——その背中に、「バロッサが動いた」という報せが届くのは、翌朝のことだった。
ガルドは宿の軒先で眠ったふりをしています。
誰のためとも言わずに。この男の不器用な優しさ。
そんな男になりたかったです。
次回、バロッサが動きます。
次回更新は3/28 19時〜を予定しております。




