第28話:海賊の港と、馬鹿の王様
お金で買った自由は、さほど長くは続かない
潮の匂いが、砂の記憶を塗り潰した。
一歩、港に踏み込んだ瞬間——胃が鳴った。
(……この街、美味しそうね)
自由港クロッサード。
大陸南端に居座る、無法の港町。
どの国にも属さない。どの王にも跪かない。
ここでは金と拳だけが法律で、
それすら日替わりで変わる。
波止場には、大小の船がひしめいている。
商船、漁船、そして——明らかに略奪用の武装帆船。
堂々と停泊しているあたり、
この街の倫理観がよくわかる。
「すごい……! 海って初めて見た!」
ナーガが、目を輝かせて駆け出した。
砂漠育ちには、水平線という概念がそもそもないらしい。
波打ち際まで走っていき、しぶきを浴びて笑っている。
「ナーガ、荷物」
「あ、ごめん!」
ジークが、ため息混じりにナーガの鞄を拾い上げる。
旅に加わって三日。
すでに保護者の顔が板についていた。
ラピスが、静かに港を見渡している。
「……活気はあるけど、空気が濁っているね」
「濁ってるんじゃないわ」
私は、雑踏を見た。
笑い声の裏に、値踏みする視線が混じっている。
酒場の入口で賭博をする男たち。
路地裏から目だけを光らせる子供。
「腐ってるの。——でも、腐った果実ほど虫が集まるものよ」
「それは褒めているのですか」
ジークが訊いた。
「さあ。少なくとも——退屈はしなさそう」
港通りを歩く。
石畳は塩で白く曇り、
壁には落書きと剣傷が交互に刻まれている。
看板の半分は読めない文字で、
もう半分はそもそも壊れている。
ナーガが追いついてきた。
「ねえアナ、あの大きい建物なに?」
「さあ。ギルドの本部か何かじゃない?」
港の中央に、他を圧する石造りの館が建っていた。
壁に海蛇の紋章。窓には鉄格子。
(……ギルド、ね)
嗅ぎ覚えのある匂いがする。
権力が一箇所に溜まると、必ずこの匂いがする。
宝石国でも嗅いだ。アルザードでも嗅いだ。
腐った油と、乾いた血。
「ジーク」
「はい」
「この街、長居するかもしれないわ」
「——了解しました」
ジークの手が、無意識に腰の剣に触れる。
間合いを測る目。
騎士の本能が、すでに警戒を始めていた。
***
面倒事は、予想より早く来た。
露店で干し魚を物色していた時だった。
「おい、嬢ちゃん」
声。背後。三人。
振り返ると、体格のいい男たちが道を塞いでいた。
腰に刀。胸元に海蛇の刺青。
ギルドの構成員だとわかるのに一秒もかからない。
「見ない顔だな。通行税、知ってるか?」
真ん中の男が、にやにやと笑っている。
(通行税。笑わせるわね)
「知らないわ」
「銀貨十枚だ。一人頭な」
四人で四十枚。この街の宿代一ヶ月分。
ジークが前に出ようとした。
私は、手で制した。
「……高いわね。何の対価?」
「対価?」
男が笑った。
「この港で安全に歩けることへの対価だよ。嫌なら——」
男の目が、私の体を上から下まで舐めた。
「別の払い方もあるぜ? 赤毛の嬢ちゃん」
(……あら)
胃の底が、冷たく軋んだ。
飢餓感。
久しぶりに、本気で不快な味がする。
「ジーク」
「はい」
「——やっていいわよ」
ジークの剣が、鞘から半分抜けた瞬間——
横から、風が吹いた。
いや——風じゃない。
拳だ。
真ん中の男が、横殴りの一撃で三メートル吹っ飛んだ。石畳に転がり、干し魚の樽を巻き込んで派手に崩れる。
残りの二人が、剣に手をかける。
遅い。
二発目と三発目が、ほぼ同時に炸裂した。
一人は壁に叩きつけられ、
もう一人は露店のテントに突っ込んで消えた。
三秒。
静寂。
そして——笑い声。
「はーっはっは! 朝っぱらからガキに絡んでんじゃねえよ、ボケ共!」
声の主が、砂煙の向こうから姿を現した。
でかい。
ジークより頭一つ分でかい。日に焼けた肌。
潮風に晒されて色の抜けた茶髪。
開襟のシャツから覗く胸板には、古い傷跡がいくつも走っている。
年齢は——二十代後半か。目尻に笑い皺が深い。
男は、吹っ飛ばした三人を一瞥もせず、こっちを向いた。
「おう、ガキども。怪我ねえか?」
ジークが、剣を構えたまま動かない。
「……何者だ」
「何者って——見りゃわかんだろ。通りすがりの善良な市民だ」
嘘だ。
善良な市民は、人間を素手で三メートル飛ばさない。
(……強い)
私は、男を見た。
あの三人は、それなりに鍛えていた。
少なくとも、素人じゃない。
それを三秒で沈めた。力だけじゃない。
当て方を知っている。
急所を、角度を、タイミングを——全部わかった上で、
加減して殴っている。
殺せるのに殺さなかった。
「善良な市民が、ギルドの人間を殴るの?」
私が訊くと、男はにっと笑った。
歯が白い。海の男特有の、塩と日差しに磨かれた笑顔。
「ギルド? ああ、あいつらか。昔の同僚だな」
「同僚」
「元な。今は——まあ、自由業だ」
男は、倒れている三人の一人から財布を抜き取った。
「お、銀貨二十枚。今夜は飲めるな」
「……それ、強盗じゃないの」
「慰謝料だ。ガキに絡んだ罰金」
ナーガが、目を丸くしてこちらを見ている。
怖がっているかと思ったら——違った。
目が、きらきらしている。
「すっごい! あの人、素手で三人倒しちゃった!」
「ナーガ、近づかないで」
「えー、でもいい人だよ! だって——」
ナーガが、男の顔をじっと見た。
「笑ってる。目が笑ってる人に、悪い人はいないよ」
(……それは占いじゃなくてただの願望でしょう)
男が、ナーガを見た。
一瞬——ほんの一瞬だけ、何かが男の目をよぎった。
柔らかいもの。懐かしいもの。
すぐに消えた笑い皺の奥に、
飲み込まれるように消えていった何か。
「へえ」
男は、ナーガの頭をぽんと叩いた。
「砂漠の嬢ちゃんか。いい目してんな」
「ナーガだよ! あなたは?」
「ガルドだ。——覚えなくていいぜ、どうせすぐ忘れる」
「覚える! 絶対覚える!」
ガルドが、声を上げて笑った。
港中に響くような、腹の底から出る笑い声。
ジークが、まだ剣から手を離さない。
「……アナスタシア様。この男、信用できません」
「知ってるわ」
私は、ガルドを見た。
元ギルドの船長。離反者。
つまり——裏も表も知っている男。
(不味くは、ない)
むしろ——この街で動くなら、こういう駒が要る。
「ガルド、だったわね」
「おう」
「この街に詳しい?」
「詳しいなんてもんじゃねえよ。生まれも育ちもここだ。石畳の数まで知ってる」
「なら、案内して。報酬は出すわ」
ガルドが、私を見た。
上から下まで。値踏み——じゃない。品定めでもない。
もっと単純な何か。
「嬢ちゃん、いくつだ?」
「十六よ」
「十六」
ガルドが、後ろのジーク、ラピス、ナーガを順番に見た。
「お前ら——全員ガキじゃねえか」
「ガキで悪かったわね」
「悪かねえよ。ただ——」
ガルドが、腕を組んだ。
「ガキだけでこの街歩くのは、裸で嵐の海に飛び込むようなもんだ。三分で沈む」
「だから案内を頼んでるの」
「報酬はいくらだ」
「言い値でいいわ」
ガルドの眉が上がった。
「太っ腹だな、嬢ちゃん。——じゃあ、メシだ。腹が減ってんだよ」
(……食い意地が張ってるのね。気が合うじゃない)
「いいわ。この街で一番美味しい店に連れていって。それが報酬よ」
「話が早えな! 気に入った!」
ガルドが、どかどかと歩き出す。
ナーガが嬉しそうについていく。
ジークが渋い顔で追う。ラピスが、私の横に並んだ。
「……面白い人だね」
「面白い、かしら」
「少なくとも——原石だと思う。何の石かは、まだわからないけれど」
私は、ガルドの背中を見た。
広い背中。傷だらけのシャツ。
大股で歩く足取りに、迷いがない。
この男は——何かを背負っている。
それが何かは、まだ見えない。
獲物の姿が暗がりに隠れているように、輪郭だけがちらついている。
(まあ、いいわ。いずれ——見えるでしょう)
今は、腹を満たすのが先だ。
***
ガルドが案内した店は、港の外れにある掘っ建て小屋だった。
看板すらない。壁は塩で白く、扉は蝶番が外れかけている。
「……ここが、一番美味しい店?」
「見た目で判断すんなよ、嬢ちゃん。メシは舌で食うもんだ」
中に入ると、魚介の焼ける匂いが鼻腔を殴った。
——美味しい匂い。
認めたくないが、腹の虫が正直に反応する。
カウンターだけの店。席は八つ。
奥で老婆が一人、黙々と魚を捌いている。
「よう、ばあちゃん。五人分」
老婆は振り返りもせず、包丁を動かし続けた。
「ガルド。また金がないんだろう」
「今日はあるぜ。——他人の金だけどな」
「……変わらないねえ、お前は」
出てきたのは、焼き魚と貝の蒸し物、それに荒削りのパン。
一口——噛んだ。
(……っ)
美味い。
白身の魚が、皮ごと炭火で焼かれている。
外は焦げるほどに香ばしく、
中は海水の塩気だけで味付けされた、透き通った旨味。
貝は、白ワインと香草で蒸されている。殻を開けると、磯の香りが湯気と一緒に立ち上る。
「どうだ?」
ガルドが、にやにやとこちらを見ている。
「……悪くないわね」
「素直じゃねえな」
「素直よ。私が『悪くない』と言ったら、それは最上級の褒め言葉なの」
ガルドが、また笑った。
ナーガは貝の蒸し物を三皿おかわりしていた。
ジークは黙々と食べている。
ラピスが、小さな貝殻を光に透かして眺めていた。
「きれい……。海の宝石だね」
「食えよ、宝石」
ガルドが突っ込む。
ラピスが、少し恥ずかしそうに貝を口に運んだ。
(……悪くない空気ね)
砂漠を出てから、ずっと張り詰めていた糸が、少しだけ緩む。
食後の余韻なのか。この街の海風のせいなのか。
心なしか空気が温かい。
——でも、油断はしない。
この街には、
まだ飲み込まないといけないものがありそうな気がする。
***
その夜。
海蛇のギルド本部。
薄暗い部屋の奥で、男が報告を受けていた。
「——昼間、構成員三名がやられました」
「ガルドか」
「はい。それと——」
報告者が、一枚の紙を差し出した。
手配書。
深紅の髪。翡翠の瞳。
『帝国第一皇女 アナスタシア・ヴェルディナ・クロイツ。捕獲者には金貨五百枚を支給する』
男が——笑った。
「金貨五百枚か。随分と高いご馳走が、向こうから歩いてきたもんだ」
手配書が、机の上に置かれる。
蝋燭の炎が、深紅の髪を照らしていた。
4時間くらい、予約投稿時間でアップした日時がタイトルになってました。すみません。
新章【自由港クロッサード編】、開幕です。
ガルドという男が現れました。豪快で、うるさくて、他人の財布で飯を食う。最低で——最高に気持ちのいい男です。
ナーガがすでに懐いているのが不安でしかありません。ジークの胃が持つかどうか心配です。
さて、アナの正体は早くもギルドの耳に届いてしまいました。金貨五百枚の皇女。この街で「自由」でいられる時間は、そう長くなさそうです。
次回更新は3/27 19時〜を予定しております。




