次の人生ゆき片道券(副題:置いていくのは、あなたの現在)
終電が吐き出した最後の客が自動改札を抜け、タクシー乗り場の赤い尾灯が角を曲がると、駅は水槽の中みたいに音を止めた。ホームの蛍光灯だけが白く滲み、売店のシャッターは半分だけ牙を見せている。
救急車を車庫に戻した帰りだった。胸のポケットで無線が眠っている。さっきまで胸骨圧迫のリズムを刻んでいた指先が、今も勝手に、押して離して、押して離して、を続けている。救えなかった少年の顔がまぶたの裏にこびりついて、駅の床の黒点模様が心電図のノイズに見えた。
売店の明かりは、言い忘れた言葉を照らすみたいに点いている。僕は喉の金属味を唾で流して、吸い寄せられるように近づいた。シャッターの向こうに白い指があり、指先は名刺より小さな紙片を一枚ずつ、整然と並べていく。
紙片には墨で、こう書かれていた。
「次の人生ゆき 片道券」
僕は笑った。喉が乾いて音が出ない。売店員は顔を上げず、レジのディスプレイだけが乱数のように数字を転がしている。
「乗るのは勝手、降りるのは勇気」
アナウンスみたいに、店員は言った。女とも男ともつかない声だ。僕は財布を出した。紙幣を一枚差し出すと、指は紙片を一枚、僕の方へ押し出した。レシートは出ない。
試しに買う。それくらいは、許されるだろう。
駅を出て自転車に乗って五分、玄関の小皿を見ると、合鍵が消えていた。背中に寒気が走る。上着のポケットをひっくり返しても、救急バッグの中身を床にぶちまけても、鍵はどこにもない。代わりに玄関の床の黒点がここでも心電図のノイズに見えた。
僕は靴を突っかけて、また駅へ走った。夜の空気は冷たく、喉の金属味に拍車をかける。改札を抜けると、ホームのベンチに銀色のものが載っている。僕の家の合鍵だった。触ると、体温が吸い取られるように冷たい。
売店のシャッターの隙間は、相変わらず半分だけ空いている。指は紙片を補充している。僕は鍵を握ったまま売店の前に立ち、紙片をもう一枚、買った。
帰宅すると、今度は指輪が消えていた。ふぞろいな跡が残る薬指は、喪失の形を忠実に覚えていて、空になった箇所に夜が入り込む。指輪は婚姻の証ではなく、もう少し別の何か、錘みたいなものになって久しかった。離婚協議書は机の引き出しにしまったままだ。僕は無言で駅へ戻る。ベンチに、光に縁取られた指輪が鎮座している。拾い上げた瞬間、背後の線路から風が這い上がってきて、僕の名を呼んだ気がした。
売店員は顔を上げない。レジの数字が七の形で止まった。七、という数字は用途が多すぎる。曜日、致死率、パッチのバージョン。
「順番は、今夜のあなたが見ないふりをしている順」
売店員が言った。僕は笑う。音が出ない。
三枚目の切符を買った。救急バッグの中に、救えなかった症例のメモが挟まっていたはずだ。三分経たずに僕の机の上から紙束が消え、ホームのベンチに現れるのが見えた。メモは夜汽車の出札のようにバラけ、白い紙の表面に押された病院名の朱色だけがやけに鮮やかで、見た瞬間、僕の頭の中の声がひとつ静かになった。
四枚目で、職員証が消えた。ベンチの上に、自分の顔写真がある。正面からこちらを見ている。痛みに鈍くなった表情だ。駅員の靴音が後ろから近づく。
「夜間は立入禁止です。終電は終わってます」
僕は職員証を握りしめ、ぼんやりと返事をした。駅員は僕の肩章を見て、「救急の方か」と目を伏せた。彼の目の下に、長い夜勤の黒い影がぶらさがっている。
「すぐ帰ります」
そう答えてから、僕は改札の向こうに小さな踊り場があることに気がついた。普段は閉まっている扉が、今日は開いている。灯りがひとつだけ点いて、中に掲示が見える。「乗り換え案内」と書かれていた。僕は職員証をポケットにしまい、踊り場へ足を踏み入れる。
狭い空間だ。天井が低く、唾を呑む音が反響する。ガラス面の向こうに路線図が映っている…ように見えるが、載っているのは地図ではなかった。行先は地名ではなく、単語だった。「和解」「離職」「転院」。それぞれの経路に、降り換えの手順が細かく書いてある。矢印は、僕の名前が入った書類の束を経由し、見慣れない診療科の扉を経由し、白い指のようなものを経由している。
指は売店にも、ここにもいる。ガラスの内側で、誰かの掠れた声が駅のアナウンスみたいに繰り返す。「乗るのは勝手、降りるのは勇気」。
僕は踊り場を出た。背中の汗が冷たい。外気に出るまでの数歩で、僕はもう一枚、切符を買っていた。五枚目。帰宅すると、スマホの写真フォルダから、特定のフォルダだけが丸ごと消えている。「小児—蘇生」。僕が作ったフォルダ名だ。消えた穴は、脳に空気が入ったみたいに軽く感じられる。あの子の母親の泣き声のデシベルが下がった気がする。僕はその軽さに、救いの形を見た。
六枚目。連絡先の一覧から、「真知」のスレッドが消えた。既読も未読も、記録が消える。二人で行った居酒屋の写真、彼女の靴の踵の擦り減り具合、僕が嘘をついた時の間合い。全部、白い空白になった。代わりに、ホームのベンチに彼女の名前と時間だけが印字された切符の半券がぽつんと置かれた。日付は今夜だ。
七枚目。無線のサブ端末が消えた。僕は駅へ走る。ベンチの上に、黒いプラスチックが冷たく鎮座している。売店のレジの数字が、きれいな七で止まっていた。売店員がようやく顔を上げる。目はガラス玉のように色がない。
「七つまで。そこから先は、“物”じゃなくなる」
「じゃあ、ここでやめればいいんだ」
僕は息を切らしながら言った。売店員は首を振らない。ただ、シャッターの向こうで、指が八の形をゆっくり描いた。
ホームの端に、ホームレス風の男が座っているのに気づいた。駅のベンチで眠る人のすすけた匂いが風に乗る。男は僕の手の中の半券を見て、笑った。歯が何本か抜けている。
「戻る手順、知ってるか」
掠れた声だが、舌足らずに聞こえるのは酒のせいではない。音がときどき抜ける。
「半券と、小道具を、同じ数、そろえるんだ。やりなお…できる。ただ、もどっても、…て、しまう」
「何が」
男は鼻を指した。次に喉を指した。ひゅう、と空気の漏れる音がした。「におい」と言いたいらしいが、言えない。代わりに彼の目が湿っている。彼は鼻を失い、言葉を数音落としている。
僕は笑ってしまった。笑い声は硬い。男は笑わない。「七つ目を過ぎてからは、“機能”が剥がれる」。売店員の声が頭の中で繰り返される。
八枚目。僕は買った。手の震えを自分でも笑う。売店員が目線だけで「やめろ」と言った気がしたが、それは僕の内側のアナウンスかもしれない。家へ戻る途中、救急の要請が入った。意識障害、搬送要請。僕はハンドルを握りながら口を開いた。
「胸……胸骨……、あの、圧迫、圧…迫」
言葉がひっかかる。いつもなら滑らかに出る定型句が、口腔内にひっかかって剥がれない。僕は舌の裏に薄い紙が貼りついたように感じる。隊長が代わりに指示を出す。現場の湿った空気に、金属と血の匂いが混ざっている。僕は匂いを探す。だが、匂いは思い出になった。鼻孔の中に真空パックされたような空洞ができている。
手は動く。圧迫の深度は適切だ。AEDの音が鳴る。僕は「ショック適応」を言おうとする。しかし口から出たのは、「ショッ…て…」までだった。隊長が冷たい目で僕を見る。その目の奥に、僕のための乗り換え案内が点灯するのが見える。
患者は搬送先で死亡した。死亡診断書の白さが、駅のベンチの白と重なる。僕は署名し、隊長の肩越しに壁の時計を見た。針は夜の中腹に立っている。
売店は僕を待っていた。シャッターの隙間から漏れる光は、血のついていないまな板の色だ。僕は九枚目を買った。売店員の目は何色でもない。
九枚目で、僕は「救急」という二文字の一部を失った。人に説明するとき、僕はいつも「救急です」と名乗る。だが今、電話の向こうに、「きゅ……」で途切れる音が漂い、自分の声が知らない男のものに聞こえる。ホームレス男が遠くで笑う。笑いは咳になり、咳は無音になった。
改札の向こうの踊り場。僕は吸い寄せられた。乗り換え案内は、前よりも文字が少ない。色も少ない。光が減ったわけではないのに、減ったように見える。「和解駅」「離職駅」「転院駅」は消えていた。代わりに、一枚だけカードのようなものが表になっている。そこに書かれているのは、「降り直し」。説明はない。矢印はない。僕自身が矢印になれ、という意味かもしれない。
踊り場は狭い。ガラスの向こう側に白い指がある。指は動かない。この静止は、死んだ患者の無呼吸とよく似ている。僕は頷いた。自分の頷きが誰のものでもないことに驚く。僕はここで降り直すのだ、と理解する。
戻る手順を試すこともできる。半券はポケットに何枚も入っている。ベンチに置かれた小道具は、僕の周囲に集めればいい。だが、戻っても完全ではないことは、ホームレス男の鼻が証明していた。僕は鼻をさすってみる。そこにまだ皮膚があることに、遅い安堵が来る。しかし匂いは戻っていない。匂いのない世界は、影のない昼間のように平坦だ。
十枚目。指が動いた。僕の手首を掴んだのは売店員ではなかった。改札のラッチに取り付けられた黒いゴムの部品が、蛇のように僕の腕を巻いた。皮膚が冷たい。僕はまた笑った。笑いは呼気に溶ける。紙片が僕の指の間に挟まる。僕はそれを財布の中にしまう仕草をするが、すでに財布はない。いつ消えたのか思い出せない。
駅員が遠くで電話をしている。表情は緊張で固まり、口の動きが早い。僕は読唇する。「不審者」「深夜」「通報」。その単語たちは僕の方へ向かう矢印だ。僕は踊り場に入り込み、ガラスの前に立った。
そこは冷たく、光は均一で、影ははっきりしていない。乗り換え案内の板面には、見慣れたフォントで、見慣れない文言が並んだ。
「接触確認アラート」「一次評価」「搬送受け入れ先」「死亡時刻」。
駅の案内が、救急の定型句で埋まっていく。光が点滅するたび、どこかでAEDの起動音がする。僕がさきほど言えなかった「ショック適応」という語が、ここでは滑らかに行き場を得ている。僕は安堵した。安堵の色は、救えなかった母親の泣き声と同じ色をしている。
「降り直し」の文字が、じわじわと僕の目に滲む。涙ではない。フォントが吸い込まれていく。ガラスの向こうの白い指が、不意にこちらを指差した。僕の喉が鳴った。言葉は出ない。代わりに、鈴のような音が鳴る。駅のアナウンスの前に鳴る、あの二音。
ピンポン。
どこか遠くで、ホームレス男の咳が止まった。駅員がこちらを見て走ってくる。彼の靴の音が増幅される。僕は口を開いた。口の中に、薄い紙はもうない。代わりに、冷たい風が舌の下を撫でていく。
「乗るのは……」
出だしは滑らかだ。次の語がつかえる。しかし、案内板の上ではつかえない。光は正確に音を伴い、言葉が続く。
「乗るのは勝手、降りるのは勇気」
僕の声だ。だが僕の口は閉じている。僕の声はガラスの内側から出ている。僕はガラスに手を触れようとする。しかし指先は感触を掴めない。ガラスの表面で僕の指は剥がれたポスターの角のようにめくれて、そこに別の指が滑り込む。
十一枚目。買っていない。だが、誰かが買った。誰かは僕だ。僕ではない。売店員の顔がガラスの内側に滲む。売店員に目の色はない。眼窩は空で、空は光を通す。売店のレジの数字が、七で止まり続けているのが見える。七は上限、ではないらしい。上限を超えたものは数字ではなく、音になる。
言葉のいくつかが僕の舌から離れていく。「圧迫」「アドレナリン」「気道確保」。それらは列車の行き先表示みたいに、次々とスクロールして消えていく。消えたものはどこへ行くのか。案内板の中だ。ここへ来る。ここが倉庫だ。ここはホームだ。ここは胸郭だ。ここは僕だ。
駅員が踊り場に入ろうとして、足を止めた。見えない何かに肩をぶつけたのだろう。彼は目を瞬き、僕のことを見ずに、案内板を見た。そして一歩、二歩と下がった。彼には僕が見えない。僕の代わりに、案内板が彼に語りかける。
「終電は終了しました。お乗り換えは、こちら」
駅員は身震いし、踊り場の照明を消そうとした。だがスイッチはここにはない。スイッチは僕の舌の付け根にある。僕は首を振る。首は動かない。代わりに、案内板の光が振幅する。
ホームのベンチに、テーブルのように小道具が並んでいる。指輪、合鍵、職員証、メモ、無線端末、削除された写真に相当する空白、消えた連絡先の名札。半券の山。僕はそれらを数える。数えるという行為が、ここでは非常に容易い。数字は浮かんで、そのまま僕の喉元から出ていく。外界の空気は僕の声帯を通らず、ガラスの中だけを循環する。音は綺麗だ。音は冷たい。
階段を上がってくる足音がもう一つ。新しい客。酔っている。ためらいを押し流した足取り。改札の前で立ち止まり、シャッターの半分開いた売店に気づく。白い指が紙片を一枚押し出す。客は笑う。音が出ない。口の形だけで「冗談だろ」と言う。あまり冗談ではない。
僕は口を開く。口はガラスの裏側で開く。ピンポン。僕の声が出る。出た声は、ガラス面で拡散し、踊り場の空気を震わせる。
「次の人生ゆき、片道券。乗るのは勝手、降りるのは勇気」
それを言いながら、僕は自分の声がこれまで、どれほど患者や家族を安心させていたかを思い出す。安心は麻酔の一種だ。麻酔が切れると、痛みが素直にやってくる。僕は痛みを思い出そうとする。だが匂いがない世界での痛みは、盛り塩のように乾いている。舌に置いても、溶けない。
新しい客は、紙片を一枚買った。ポケットにしまい、改札の前で気まぐれに踵を返す。帰ろうとする。だが、踵の元の位置は、もう切り離された島になっている。足は止まらず、彼はゆっくりと踊り場に吸い寄せられる。僕は彼の肩へ言葉を投げる。軽く、当てるだけ。彼は肩を竦める。恐怖が背骨を撫で上げる。恐怖はいつも、最初に肩に咬みつく。
僕は、新しい客に向けて路線図を表示する。「出世」「離婚」「告白」「自白」。文字は美しい。意味は粗い。どれも片道。どれもここ発。僕は軽く咳払いをする。咳は音にならない。代わりに鈴が鳴る。ピンポン。
売店員がシャッターを少しだけ上げた。白い指が紙片を補充する。その手には血はついていない。脂もない。爪がない。皮膚は薄い。薄い皮膚を透かして、無数の別の駅の蛍光灯が見える気がする。網の目のような地下の空間で、同じ指が同じ言葉を繰り返している。
ホームレス男が立ち上がった。彼は踊り場に近づき、ガラスに手をあてた。掌に汚れがついている。汚れがガラスに写る。僕は思わず手を伸ばす。ガラスのこちら側に手を伸ばす。僕の手は薄い。薄い手は、男の掌の熱を記憶することができない。男は唇を動かす。「もど…?」。彼は舌を噛んだ。血の匂いがするはずだが、しない。男の目が僕の目を見つける。彼は僕を見たのだろうか。彼は僕を見ない。彼は案内板を見ている。僕は案内板だ。
遠くで、救急の要請ベルが鳴る。電子音が、腹の深いところを叩く。僕の手が反射でポケットを探す。ポケットはない。僕の舌が「出場」と言おうとする。「しゅ…」。ここでも駄目だ。だが、案内板の上では、語が滑る。「出場」「現着」「帰署」。駅の構内放送と救急の無線コードが混ざり合い、夜の駅の壁面をきれいに洗う。
僕は理解する。ここは「生まれ直し」の駅ではない。ここは「降り直し」の案内所だ。僕たちが置いていった小道具は、ここで他人の乗り換えの目印に並べられる。失われた匂い、抜け落ちた音、剥がれた言葉は、案内板の光となって循環し、次の客の背中を押す。僕は手を伸ばす。伸ばした手は、ガラスに吸われて薄くなる。薄い手の中に、小さな紙片がある。墨でこう書かれている。
「当駅止まり」
僕は笑う。笑いは風になり、鈴になり、無音になる。売店員がこちらを見ないまま、淡々と補充を続ける。駅員が踊り場の入口に立ち尽くす。ホームレス男が掌をガラスに貼りつけたまま眠る。
夜明けの前、一番星のような始発のヘッドライトが遠くで瞬いた。空気が動く。僕の舌が重くなる。光は薄まる。だが案内は消えない。列車が来る。列車は止まる。扉は開く。誰もいない。静寂の中、ピンポンが短く鳴る。僕は口を開く。案内板が光る。
「本日もご利用ありがとうございます。乗り換えは、こちら」
言いながら、僕は最後に、匂いをひとつだけ思い出す。売店の棚に並ぶ、古い雑誌の紙の匂い。十代のころ、ホームで時間を潰しながら眺めていたページに染みついたインクの匂い。覚えているはずの匂いが、記憶のレベルでしかしない。鼻孔は空で、空は音で満ちる。音は僕で、僕は案内板だ。
始発の客が一人、階段を上がってくる。目の下に疲れの影をつけ、掌をポケットに突っ込んでいる。売店の白い指が紙片を押し出す。客は足を止める。僕は鈴を鳴らし、言葉を乗せる。
「次の人生ゆき、片道券」
乗るのは勝手。降りるのは勇気。ここには、乗り場しかない。降りる場所は、あなたが持ってくる。僕の中で、救急の要請ベルが鳴った気がした。どこかで誰かが、僕に向けて手を伸ばしている。僕は彼らに、丁寧に、正確に、道順を示す。
終電駅の朝は、白くて、静かだ。ホームに並ぶ小道具は、駅の備品みたいな顔をしている。指輪は輪っか、合鍵は金属、職員証はプラスチック、写真は無。名前は点滅。半券は紙。
僕は光を整え、鈴を一度鳴らし、次の客のために、言葉を用意する。ここが終点だ。ここが始発だ。ここが、僕だ。




