薔薇色の月の下、君の牙に恋をした
ゲーセン帰り。家族が全員揃う日の夕飯に遅れるとうるさい妹の小言を避けるため、ちょっと近道をしようと思っただけだった。
高二にもなって家族団らんもないだろうと思わないでもないが、普段好きにさせてもらってる分、月数回くらい合わせろという妹の言い分もわからなくはない。
まだ六年生だが口が達者でしっかり者で、その実、小さいころから少し体が弱い妹に俺は弱いのだ。
シスコン? うるせえよ。
金曜の午後八時ちょっと前。
巨大な薔薇色の月に「おおっ、すげー」なんて言いつつ、自宅ほど近い石畳の道に入る。それはシャッター街になって久しい人気のない銀座通りだが、いつもなら焼鳥屋とかクリーニング屋がまだ空いている……そんな時間だ。
なのに今は街灯以外の明かりはなく、世界から切り離されたみたいな奇妙な感じがする。
いや、実際そうなのかもしれない。
ゆるくS字を描く石畳の道の向こうに、ゆらゆらと揺れるのは黒い影。今は何かに阻まれたかのように近づいてこないが、さっきまで俺はあいつらに追われていたのだ。
かなり走ったのに抜けられない、普段なら五分もかからず抜けられるはずの道。転んで肩で息をしながら顔を上げると、銀座通りと書かれたゲートの向こうに大通りが見えている。なのに今は気味が悪いほど静かで、走る車一台見えやしない。
平日の八時だぞ。さすがにありえないだろ。
「一体なんだっていうんだよ」
さっき俺をかばうように飛び出してきた女を右腕に抱え込んだまま、倒れこんだ体を起こす。
俺を襲って来た影には角のようなものが見えることに、その時初めて気づいた。
「マジかよ。節分にはまだはえーぞ」
さっきまで追いかけられてたんだから、鬼ごっこの鬼かもしれないけどな!
心の中で軽口を叩くが、本音を言えば、何が起きているのかさっぱり分からないこの状況があまりにも非現実すぎて、つい乾いた笑いが漏れる。それでもパニックにならずに済んでいるのは、自分の腕の中にこの見知らぬ女がいるからだ。
さっきまで一人で追いかけられていた恐怖に比べたら、誰かの体温が何よりもありがたく感じる。
「おいあんた。大丈夫か」
声をかけながら、腕の中にいるのがさっき、この道に入る前に見かけた女だったことに気づいた。
年はたぶん自分と同じくらいだろうか。
くるんとした黒髪のツインテール。頭部の左に乗っているのは、まるで帽子の意味をなさない小さなシルクハット。レースたっぷりの黒いワンピースのファッションはゴスロリというんだったか。
目を引く美少女なのは間違いないが、普段だったら、こんなヤベー恰好の女とは目を合わせない。
とはいえ、俺の呼びかけに「大丈夫」と言って立ち上がった彼女を見上げる。服の埃を払ったその女が、こちらに手を差し出しながら笑うのでドキッとした。
女の目の色が、彼女の後ろに見える薔薇色の月と同じ色だったのだのに驚いたのもあるけれど、それに飲み込まれそうな気持になったのだ。
(やっべ。めちゃくちゃ可愛い……)
しかも弧を描く柔らかそうな唇から牙のような歯がちらりと見えて、その小悪魔的な笑みに胸がさらに大きな音をたてた。
そのとき強い風が吹き抜け、彼女のスカートが一瞬彼女の身体にぴたりと張り付いた。その瞬間俺は雷に打たれたように、この少女が誰なのか分かってしまった。
「え……金子真理依⁈」
ほぼ声にならない声。
脳内に浮かぶのは、目の前の彼女とは全然印象の違う地味なクラスメイト。
いつも長い黒髪をきつく一つ結びにし、アレルギーが多いとかで絶対にマスクをはずさない。声は小さいし、昼飯も養護教諭のもとでないとダメとかでいつも保健室で食べているらしい、教室片隅系女子。
(嘘だろ……)
俺の声が聞こえたのか、真理依が呆れたように目をくるっと回した。
「なんで気づくかな」
「やっぱり金子真理依なのか。いったい何が起こってるんだ」
「ああ、それは私の見た目について? それともあいつ?」
くいっと親指で影を差すので「両方」と答えておく。驚きすぎると冷静になるのか、自分でもおかしくなるくらい平坦な声だ。
それに彼女は「だよね」と頷いて、小さく指笛を吹いた。
「説明してあげたいけど、まずは結界破られる前に片付けちゃうから待ってて」
「結界?」
影がこちらに来られないのは、真理依が結界なるものを張ったせいらしい。
次いで指笛に呼ばれたように一匹の蝙蝠が飛んでくるのが見え、ぎょっとして飛びのく。それがたまに校庭とかで見かけるものの倍ぐらいの大きさだったからだ。
しかもそれが真理依のそばまで来ると、ぼんっという感じで長身の男に変身する。
街灯の光のせいか銀色に見える長髪の、タキシードみたいな服を着た大人の男。しかもすっげーイケメンって、ますます非現実じみている。
さっき転んだ時に唇の端を切ったのか、かすかな鉄の味と痛みがなければ、完全に夢だと思い込んだかもしれない。
「マリー。彼は?」
ちらっと怪訝そうにこちらを見るイケメン。それに真理依、いやマリーは、ちょっと苦笑して肩をすくめた。
「クラスメイトの望月くん」
「それは見ればわかります」
「幽鬼が彼を食べようとしてたから助けようと思って」
不穏な単語にぎょっとする。
ただひたすら逃げていたけれど、やっぱりそういうこと?
「あいつ人食い鬼なわけ?」
だったら外に出したらまずいよな。
今はここから動いていないけど、伸びたり縮んだりするあれに、うちの妹なんてぱくりと飲まれてしまうかもしれない。
そんな光景が思い浮かんで、頭がかあっと熱くなった。
「きみは、あれが見えてるんですか?」
「あの黒い影? 見えてるに決まってるだろ」
何を言ってるんだと睨む俺に、タキシードの男は「ふむ」と顎を撫でた。キザな仕草が嫌味なくらい様になるし、その隣にいマリーのゴスロリ姿も相まって、ここが他の世界のように見えてくる。
熱くなっていた頭の芯が冷え始めると、まず頭を占めたのはどうしたら奴を消すことができるのかということだけだった。
マリーは片付けると言ってた。
でもどうやって?
忙しく考えるのに、結局何もできない自分が歯がゆい。
その時パリンと薄い氷が割れるような音がした。
結界が壊れた音だったのか、影がこちらに向かってくるのが見え、情けないことに瞬間的に身体がすくむ。
一体だった影が複数に分裂して襲ってきたのだ。
マリーとタキシードの男がそれぞれを相手にするが、隙あらばこちらに向かおうとする影に俺は石を投げるくらいしかできない。しかも影にはダメージがほぼないみたいなのだ。
「クソッ」
なんでこんなことになってるんだ。
だいたい俺、なんで女の子の後ろで震えてるんだよ。
目の前でマリーの傷が増えていくのに、タキシード男は影を二体同時に抑えてるせいで彼女を守れない。
その時また弾き飛ばされるようにこちらに飛んできたマリーを受け止めると、彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめん、ちょっと力が出なくて」
そう言った彼女に、タキシード男が「だから血を増やせと言ったでしょう」と叫んだ。
「血? 血がいるのか? だったら俺の血を飲めよ」
「はあ?」
なぜか当たり前みたいに(マリーは吸血鬼なのか)と思い込んだ俺が、咄嗟に襟もとをぐっと開くと、彼女は「吸血鬼じゃないわよ」と唇を尖らせた。
なんだこれ、可愛すぎるんだけど。
非常事態のはずなのに、胸の奥がギューッと痛む。
「じゃあ俺に出来ることはないのか?」
まともに戦えない。力にもなれない。ただ守られてるだけ?
「いいじゃないですかマリー。彼から血をもらいなさい」
再びタキシード男の声が聞こえ、ハッとする。マリーの顔を見ると、彼女は少しだけ顔をしかめ、「ごめんね」と囁いた。
「少し力をもらうわ」
そう言うと俺の両頬を手で挟み顔を近づける。
(えっ?)
そう思った時には唇の端に柔らかい感触。
マリーが離れるとぺろりと舌を舐めた唇の端から、牙のような歯がチラッと見えた。
「ごちそうさま」
「い、今、キスした?」
「血を少し貰っただけですぅ」
「吸血鬼じゃないって言ったじゃん」
「だって吸血鬼じゃないもん」
能天気な会話を続けながら、さっきとは見違えるほど動きが早くなったマリーに、どんどん影が倒されていく。やがて一体になった影が倒れると、マリーが出した手鏡に吸い込まれていった。
「コンプリート!」
マリーの声を合図にしたように、突然車の音が聞こえ始める。
焼き鳥屋からいい匂いが漂い、クリーニング屋から年配の男性が大きな袋を持って出てくるのが見えた。
マリーは普段の地味な女子に。タキシード男はジャケットを羽織った普通の男になる。
よくわからないけれど、現実に戻れたのは分かった。
◆
その後マリーに詰め寄って聞いたことによると、幽鬼の正体は、普通の人の魂らしいことが分かった。
「あれはね、あるべき場所から離れてしまった魂なのよ」
「でも俺を食べようとしたんだろう?」
そう言うと、マリーは
「あー、まぁ」
と、言葉を濁す。
しつこく食い下がった結果、あの幽鬼は「俺」だと言われ混乱した。
「ようは、隣の世界の望月くんがこっちの世界に迷い込んで、自分の体を見つけたと思って追いかけて来た。そんな感じ?」
そんな感じ? って……。
軽い説明を補足してくれたタキシード男によると、次元を超えて叱った魂がそれを理解できずに彷徨うのが幽鬼の正体。運よく(悪く?)同じ体を見つけてぱくりと飲み込むと、両方の世界からその人物――――今回の場合は俺が、爆発して消えてしまうのだという。
こえぇぇぇ。
「え、じゃあさ、さっき俺にキスしたのは?」
「キスじゃないし」
唇尖らす顔も可愛いし、あれは俺にとっては限りなくキスだが、ここはあえて食い下がらないことにした。
「どっちでもいいから」
そう言って答えを待つと、マリーは気まずそうに上目遣いでこちらを見る。
(くっそ。やっぱり可愛いんだけど!)
ついマリーの唇に視線がいかないよう必死に耐えていると、ようやく彼女が口を開いた。
「えっとね……幽鬼をもとに返すのに血が必要なんだけど、あたし、貧血気味なのよ」
「うん」
「それで、あれと同じ人である望月くんの血を取り込んで、対処したって感じかな。うん、そう。同じ人がそこにいたってラッキーよね」
分かったような分からないような……。うん、分からん。
ただ、俺以外の他の幽鬼と同じ人物がいた場合、そいつにも同じことをしたのかと考えるとなぜか無性にムカッとし、そんな自分に首を傾げた。
結局話をまとめると、マリーは古来からなんらかの封印を守る一族らしい。でも時間も遅いということで、あとは追々聞いていくことにする。
「でも望月君。さっき、なんであたしって分かったの?」
普段の地味な姿に戻っていたマリーが首を傾げるから、俺はぐっと詰まる。
まさかウエストから腰のラインで分かったとか言えるはずがない。変態呼ばわりされるのがオチだ。
ついでに、同じ理由でタキシード男が保健室の養護教諭だと気づいたこともあって、マリーは俺の感がいいのだろうと納得したようだ。
そして週明けの昼休み。
彼女がいつも通り保健室で弁当を食べるのについてきた俺は、購買で買ってきたカレーパンの袋を開ける。
タキシード男、もとい養護教諭の先生はが、地味で人当たりのいい笑顔で茶を淹れてくれる。保健室に呼び出されたのは、一応俺の体調に変化がないか見たいということだったが、幸い何ともなかった。
(それにしてもこの冴えない年齢不詳の地味メガネの正体が、すっげえイケメンだなんて誰も気づかないよなぁ)
本音を言えば、ここに呼ばれたのを口実にマリーと飯を食いたかっただけなんだけど、先生にはもろバレだったらしい。こちらに向けられた生ぬるい笑みを無視してカレーパンをかじりながら、マリーの弁当をちらっと見た。
小さな弁当は幼稚園サイズに見えて、これじゃ貧血は治らねえだろうなと、おかんじみたことを考えてしまう。
「なに?」
「いや。早く食べれば? マスクとらないと食えないだろ」
なんでもない顔で促すと、マリーはちょっと顔をしかめつつもマスクを外し、嬉しそうに弁当を食べ始める。
牙のような歯がチラッと見え、やっぱりドキッとした俺は、マリーに血を吸われても構わなかったな、なんて思うのだ。
あの日薔薇色だった目の色は、今は普通の焦げ茶色。
だけどまたあの目を見たいと思っていることは、まだ内緒である。
ふと、望月のビジュアルは少女漫画と少年漫画ではガラッと変わるんだろうなと想像。
少女漫画だと、突如地味女にかまいだしたイケメン。
少年漫画だと、ごくごく普通の男子って感じになるのではないかと。
あなたの中で望月はどんな風に映ったでしょうか。