転職したら高校時代の後輩が上司になった件
井上愁斗、28歳。
もうすぐ30を迎えようかというこの時期に、俺は自身のスキルアップと給与アップの為に転職することにした。
大学を卒業してから早6年。今の会社にはすごくお世話になったし、大きな不満があるわけでもないけれど、俺の中で「別のことにチャレンジしてみたい!」という気持ちが大きくなっていたのもまた事実で。
年齢的にも、丁度良いだろうと思い、転職を決めたのだった。
新しく入社した不動産会社はインセンティブ制を導入していて、つまりは頑張れば頑張った分だけ評価される。しかもそれが給与という目に見える形で反映されるのだから、嫌でもやる気が出てくるわけで。
もちろん、大変なことだって沢山あるだろう。前職とは畑違いなわけだし、勉強だってしなくてはならない。
そして初出勤である今日、俺は早速頭を悩ませる事実に直面しているのだった。
「営業部主任の水無月奏音です。よろしくお願いします」
これから俺の直属の上司となる美女・水無月奏音。「初対面です」みたいなムーブを出しているが、実のところ俺は彼女をよく知っている。
遡ること、11年前。当時高校生だった俺は、水泳部に所属していた。
高校生活二度目の春を迎えた俺は、何の問題もなく進級する。そして二年生になるということは、自ずと後輩が入ってくるということで。
『新入部員の水無月奏音です! よろしくお願いします!』
新たに水泳部の一員となった数人の新入生。その内の1人が、水無月だったのだ。
性別こそ違えど、性格が似ていたからか、水無月は俺によく懐いてくれた。
『先輩、自主練に付き合って下さいよ』と、しょっちゅう俺の休日を返上してくれたものだ。
テスト期間も呼び出されて、その結果赤点を取ったこともあったっけ。そのくせ水無月はちゃっかり学年1位取っちゃってるし。
そんなかつての後輩が、今は上司として目の前にいる。何ともまぁ、複雑な気持ちだった。
「井上愁斗です。今日からお願いします」
挨拶しながら、こっそり水無月の反応を見る。……名乗ったけど、特に反応がないな。
もしかして、俺だと気づいていない? それとも、俺のことなんてとっくに忘れてしまっている? それはそれで、なんだか悲しいものだ。
年齢を重ねて、当時はクソ生意気だった水無月も立派な女性に成長している。
見た目は変わった。綺麗になった。それでも俺は、彼女を見間違えないというのに……。
……まぁ、成長していない部位(胸部)もあるみたいだけど。
「……絶壁水無月」
うっかり俺は、水無月の高校時代のあだ名を口にしてしまった。
……でも考えてみたら、水無月は俺=井上先輩だと思っていないわけだし、問題ないか、ハハハハハ。そんな風に楽観的に考えていると……
「何か言いました、井上先輩?」
不意に見せた高校生のような笑みと、「井上先輩」呼び。……あっ、これちゃんと俺のこと認識してるやつですね。
自分のことを覚えていてくれたというのに、素直に喜べない自分がいた。
◇
新しい職場には、なんと食堂が併設されている。
前職では、毎日コンビニ弁当だったからな。懐事情や栄養バランス的な観点で、要改善の項目だった。
対してここの食堂では、日替わり定食が一食300円という破格の値段である。これを活用しない手はない。
意気揚々と食堂へ向かう俺だったが、残念なことに座席はほとんど埋まっていた。
これだけお手軽価格で、しかも美味しいときた。そりゃあまぁ、みんな同じこと考えるよね。
空いている席を探していると、「井上さん!」と俺を呼ぶ声が聞こえる。
入社したての俺を呼ぶ人間なんて、1人しかいない。声の主は、案の定水無月だった。
「……主任、お疲れ様です」
「お疲れ様です! ……なんだか井上さんに敬語を使われると、むず痒いですね」
「それを言うなら、主任に「さん」付けされるのだって違和感ありまくりですよ」
「確かに。……それじゃあ昔みたいに、「井上先輩」って呼びますね。なので先輩も、敬語禁止で」
敬語禁止って……。確かに水無月に「ですます」口調で話すのはしっくりこないけど、彼女は主任で俺は新入社員。立場というものがある。
少なくとも仕事中は、上下関係をはっきりさせておくべきだろう。
「それはちょっと……」
「禁止で」
「……はい」
結局、水無月の圧に負けてしまった。
そういえば、高校時代もこうやって自主練に付き合わされていたんだっけなぁ。
自身の成長してなさに、俺は思わず遠い目をした。
水無月の隣の席がたまたま空いていたので、俺はそこに腰掛ける。
噂のお得定食は、評判通りの美味しさだった。
昼食を取りながら、俺と水無月は近況報告に花を咲かせていた。
「しかし水無月が主任とは、世の中何が起こるかわからないよな。部下を指揮するお前の姿なんて、想像つかないよ」
「そりゃあ先輩の中での私って、まだピチピチの女子高生ですからね。あれから10年、私だって成長しているんです。今やアダルティな大人の女性なんですから」
「いや、自分で言うなよ」
とツッコんでみたものの、水無月が魅力的な女性であることは事実だ。
まぁ調子に乗らせたくないから、そんなこと口が裂けても言わないんだけど。
「恋愛の方はどうなんだ? もしかして、既に結婚しているとか?」
これだけ綺麗で、出世している女性だ。男など、頼まなくても寄ってくるだろう。
高校を卒業してから10年が経ち、その間の数多の出会いの中から人生のパートナーを見つけていてもおかしくない。
「恋愛はですね……成長していないというか、「変わってない」ですよ。あの頃と同じです」
あの頃というのは、もちろん部活一直線だった高校時代のことである。つまり特定の相手はまだいないようだ。
不自然な言い回しをしたことは、少し気になるけど。
◇
転職して数日、俺は水無月と一緒に、顧客へ販売する為の物件の下見にやって来てきていた。
間取りは広めの2DKで、2〜3人暮らしを対象としている。
日当たりも良いし、駅やスーパーにも近い。しかも角部屋ときた。
家賃は相場より高いけれど、なかなかの有料物件のように思える。
ひと通り内見を終わらせたところで、水無月がいきなりこんなことを言い出した。
「実はこの物件、曰く付きなんですよ」
「え、何? 普通に怖いんだけど。なんでそんな物件売れると思ってるの?」
しかし怖いとわかっていても、どんな曰くなのか気になるのが人間の性分だ。
「数ヶ月前の話なんですけどね、なんとここに住んでいたカップルが……めでたく結婚したんですよ」
「曰くでも何でもねーじゃねぇか! 普通におめでたい話だろ!」
てっきり入居者が自殺したとか、そんな話が出てくるのかと思ったら……。一瞬でもビクビクしていた自分が恥ずかしくなってくる。
「だから先輩もここで恋人と暮らせば、そのままゴールインできるかもしれないですよ」
「……かもしれないな。まぁその前に、恋人を作らなくちゃならないけど」
多分恋人を作ろうと頑張ってる間に、この物件をどこかのカップルに買われてしまうことだろう。
そもそも金輪際恋人ができないなんて恐ろしい未来だって、待っているかもしれない。
「……恋人を作るだけなら、そんなに難しくないと思うんですけど。お互いに」
「ん? 何か言ったか?」
「何でもありません!」
恥ずかしそうに、そっぽを向く水無月。
数秒後、何やら意を決したように「よし!」と呟くと、再度俺の方に向き直った。
「この物件、本当良いですよね。だけど一人暮らしには広すぎるし、家賃が少し高いんだよな〜」
「なんで唐突に物件の話? しかも自分が住む前提で?」
「あっ、そうだ。先輩、一緒に住んじゃいます?」
「人の話聞いて……って、え? 今なんて言った?」
聞き間違いじゃなければ、「一緒に住まないか?」と言われた気がする。
カップルが結婚したという前例のある、この物件に。
「部屋が広いならシェアすれば良いし、家賃が高いなら折半すれば良い。そう思いません?」
「それはそうだが……この部屋に住む前に恋人を作らなきゃならないって話を、さっきしたばかりだよな?」
「だから、「そういうこと」なんですよ」
「そういうこと」とはどういうことなのか? 皆まで言わなくてもわかる。
俺と水無月が恋人同士になれば良い。彼女はそう言っているのだ。
「好きな人は今もいないって、そう言っていたじゃないか」
「そんなこと言ってませんよ。私の気持ちは「変わってない」って言ったんです。今も昔も、私は井上先輩が好きなんですから」
高校時代、どうして俺ばかり自主練に誘ってくるのか? 疑問を抱かなかったと言えば、嘘になる。
単に馬が合うからだと、勝手に自己完結させてしまっていた。
水無月の想いに、向き合おうともせずに。
「俺、お前より稼ぎ少ないけど良いのか?」
「そんなの気にしませんよ。でも一つ条件というか、お願いがあります。……私、誰かと付き合うなんて初めての経験なんです。だからまた、自主練付き合って下さいね」
そう言ってはにかむ水無月の顔を見て、俺はなんだか青春時代に戻ったような気がするのだった。