ぼくと彼(赤ⅱ)
祖母の寝室には、古い本棚があった。文庫本の背表紙はどれも色褪せていて、そのほとんどが翻訳文学だった。サリンジャー、カポーティ、フィッツジェラルド。ぼくは無意識のうちに『ナイン・ストーリーズ』を引き出し、ページをぱらぱらとめくった。
「祖母は、この部屋で毎晩本を読んでいた」とぼくは言った。「でも最近は、文字を追うのがつらくなったって言ってた」
彼は何も言わず、ジャケットの内ポケットからジム・モリソンの詩集を取り出し、一節を読み上げた。
> There are things known and things unknown and in between are the Doors.
「つまり、君と僕は扉のあいだにいるってことだ」と彼は言った。
「どちらの扉に?」とぼくは訊いた。
「それは、チーズケーキを食べてからでもいい話だろう」
ぼくらは台所に行き、チーズケーキを二つの皿に分けた。ナイフで切るときの手の動きが、妙に静謐で、時間の厚みを切っているような気がした。
「ところで、祖母はどこに行ったの?」とぼくは尋ねた。
「彼女はもうこの場所にはいない。でも完全にいなくなったわけでもない。彼女は今、森のどこかにいる。時間の外側で暮らしているんだ。そういう人も、たまにいる」
ぼくはそれを信じることにした。理由はなかったけれど、彼の言葉は、たまに祖母が話していた“夢の中でだけ行ける場所”と、不思議な形で重なっていた。
ケーキを食べ終えたころ、外の光は淡くなり始めていた。午後と夕方の境界線が、まるで鉛筆で引かれたスケッチのように曖昧だった。
「君はもう行くべきだ」と彼は言った。「この家に長くいると、戻れなくなる。現実の世界にね」
「君は?」
「僕は元から、戻る場所なんてないんだよ」
ぼくはうなずき、赤いパーカーのフードをかぶった。扉を開け、もう一度森へと足を踏み入れた。後ろを振り返ると、彼はレコードをかけていた。ビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』が、かすかに聴こえてきた。
森は静かだった。でも、その静けさの奥には、何かが確かに生きていた。
ぼくは歩きながら、次に祖母に会えるのは、やはり夢の中になるのかもしれないと思った。
もしくは、もっと別のかたちで。