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女性は三つの注意事項を指で折りながら、しばらく小さくなっていた。
「少しだけ考えてもよろしいですか?」
「どうぞ。しかし、パラレルライン後悔駅は、終電時間がございます。終電までにご決断ください」
そう言って駅長さんは、手を時刻表に掲げた。
真っ白でいったいいつに電車が停まるのかわからない時刻表だけれど、午後十一時のところだけ、真っ赤な文字で【終電】と印が付けられていた。
今が夕方の五時だから、まだまだ時間があるとはいえど、それで全然安心できないんだから困る。
彼女は困り果てた顔で、一旦駅長室を出た。
駅には小さなベンチ。その前に俺の面接先の売店。改札口の向こうはよくわからないけれど、あそこにパラレルラインの線路が通っているんだろう。
何度見てもここは、不可解な場所だった。
俺は駅長さんに「あの……」と声をかけた。駅長さんは穏やかな雰囲気のままだ。
「あの人に、なにか持っていってもいいですか?」
「面接はどうしますか?」
「うーんと……あの人が決断を下してからで、いいでしょうか?」
「どうぞ」
不思議な人だなと、俺はぼんやりと思った。駅長さんが言っていることは突飛過ぎるし、正直未だに全部を飲み込めてはいないんだけれど。でもこの人は本気でここに来ている人たちを突き放したりはしないように思えた。
俺は「ありがとうございます」と会釈してから、彼女を追いかけていった。
売店を覗くと、駅長さんが出したコーヒーよりも甘ったるい缶コーヒーを見つけた。俺はそれを自分のスマホで会計を済ませてから、ふたつ缶を持っていった。
「あの」
ベンチに座っている彼女に声をかけると、彼女は顔を上げてくれた。ずいぶんと途方に暮れた顔をしている。
その顔をよく知っているから、俺も隣に座って、缶コーヒーを差し出した。
「さっきのキャラメルとは合わないかもですが、よかったらどうぞ」
「……ありがとう」
彼女は缶コーヒーを手に持ち、駅を見る。
「どうするんですか? 電車、乗りますか?」
「……私のこと、馬鹿だと思う?」
突然聞かれて、俺は返事に困った。
さっきのことだよなあと思い至り、俺は自分の分の缶コーヒーのプルタブに力を入れて。言葉を探した。
「正直、よくわかりません」
「えっ?」
「世間一般では、そんな踏んだり蹴ったりな目に遭った場合、四の五の言わずにさっさと警察に行けとか、やり直せとか言うのかもしれませんが。俺はそれが正しいのかの自信がないです。だって……本当に全部嘘だったんでしょうか? 騙していた詐欺師さんの言葉が、じゃないです、あなたの気持ちが、です」
彼女は少し虚を突かれた顔をしたあと、缶コーヒーのプルタブに力を込めた。そして腰に手を当て、一気に飲み干した。喉に絡みつくほど甘いのに。
「ぷはぁ」と息を吐いてから、彼女はケラケラと笑った。
「君、けっこう面白いね?」
「俺よく人の気持ちがわからないって言われますけどねえ」
「うん、たしかに世間一般とはずれているかもね。少しだけ、駅長さんにも言わなかった話をしていい?」
「はい、どうぞ」
どうも俺は、昔から「ここだけの話」というものを聞かされる。
俺だったら話してもいいと思ったのか、それとも俺がどうでもいいから聞かせるのか、はたまた「彼だったらネットにも書き込まないし人にも触れ回らないだろう」と思われているのかはわからない。
人の感情のゴミ箱にされているというと、少しだけ悲しくもなるけれど。
人の感情の意見箱にされていると思ったら、あまり悪い気にはならない。
そういうのは、人がいいって言うらしいけれど、本当に人がいい人は、そういう扱いをされてもなにかしら思うところを持たないと思う。
彼女は少しだけ息を吐いてから、ようやく口を開いた。
「私、家族と早くに死に別れたの。それからは親戚の家を転々として。申し訳なさ過ぎて、奨学金獲って大学に進学決めたら、すぐに出て行った。だから家族をつくれっていう周りの気持ちも、申し訳なさ過ぎて断り切れなかったの」
その言葉に、俺は少し彼女を見た。
悲しみを抱えている人は、いつもなにかを見ているように見えて、実はどこも見ていない。遠くを見ているようでいて、実は自分の瞼の裏の記憶を繰り返し再生している。
それがもう二度と戻らない日常だったら、余計にだ。
彼女は続けて言った。
「だからあの人は最低だって、頭ではわかっている。実際に家もお金もなくなってしまったし、私にあるのは、もう体ひとつしかないんだけれど。でもあの人だけだった。私に申し訳ないと罪悪感を与える暇もなく、幸せにズプズプと浸らせてくれたのは」
それにはものすごくわかる、と俺はぼんやりと思った。
家庭円満で、小説やドラマで語られるような「普通」の生活を送っている人には、どん底の人生の痛みというものがわからない。
どん底になったら、毎日毎日、チクチクとした罪悪感で蝕まれるようになるのだ。
ただ生きているだけで、罪悪感が増す。どんどんその罪悪感に嫌気が差して、それから遠ざかろうとすると、だんだん周りに人がいなくなってくる。それがさすがに寂しくなってUターンするけれど、人と関わると、意味のない罪悪感が再び増えてくる。
人と付き合ったり離れたりを繰り返している人間にとって、罪悪感を覚えなくてもいい相手というのは、劇物なのだ。依存性の強い毒なのだ。だからこそ、彼女は結婚詐欺師に付け込まれてしまったのだろう。
彼女のずっと抱えている罪悪感に気付いたからこそ、彼女の懐に潜り込んで、徹底的に彼女に罪悪感を与えなかった。
それを取り上げられてしまったからこその彼女は現在、禁断症状に陥って苦しんでいるっていう寸法だ。
俺はしばらく考えた。
「その人がいない世界に行ったら、どうなりますか?」
俺の問いに、彼女は遠くを見たまま、頬杖を突いた。
ボロボロのひっつめ髪から漏れた毛が、夕方の風でちりちりと揺れる。
「誰と一緒にいても申し訳ないって気持ちが勝ってしまうから、あの人がいない世界だったら、きっともう恋なんてできないと思う。無理だってわかっているけれど、私が概念だったら、あの人ともっと長くいれたのになと残念に今でも思ってる」
きっとこれは依存であって恋じゃないと、健常者の人は皆咎めるだろう。
でも俺は彼女の恋をとてもじゃないけれど責めきれなかった。
どん底を生きた覚えのある人間は、生きているだけでずっと苦しいけれど、死んだらそれこそ罪悪感で圧迫されて苦しみながら死ぬのが目に見えているからこそ、楽に死ねるようになるまでは、苦しみながら生きるしかない。
「どうして最後まで私を騙してくれなかったんだろう。どうして私だけで満足してくれなかったんだろう。あの人のことが本当に憎くて憎くてしょうがなくって……どうしようもなく焦がれてるの」
彼女はそう言い切ってから、ようやく立ち上がった。
人の感情のごみ箱の役割を、無事に果たせたらしい。
「駅長さんに言ってくる。電車に乗ると」
「あ、あの。キャラメル。持ってってください」
彼女は一瞬だけ虚を突かれた顔をしたあと、ふっと笑った。
さっきまでの自嘲的な笑みから一点、目を見張るほど鮮やかな笑顔に変わる。
「ありがとう。電車に乗りながら食べるから」
そのままスタスタと駅長室へと歩いて行った。
俺はその光景を、しばらくベンチから見送っていた。
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『このたび、パラレルラインにご乗車ありがとうございます。お降りの際は、足下にお気を付けて、お忘れ物なきようお願いします』
駅長さんの流麗な声が聞こえる。
私ひとりしか乗客はいないのに、電車なんて本当に来るのかと思っていたけれど、本当にホームに電車が滑り込んできた時には、少しだけ驚いてしまった。
半見鉄道を走る電車によく似ているけれど、シルバーフレームに赤と青と黄色のライン。そして端に描かれている幾何学模様に、先頭車両の新幹線に似たラインは、大昔のSF映画に出てきそうなデザインだった。
子供時代にこの電車を見たら、間違いなく好きになっていただろうなと思い、私は軽く首を振った。
楽しかった思い出なんて、もう戻ってくるものじゃないし。
平行世界に移動するのだって、今よりもマシな世界に行くためだし。
私はキャラメルの箱を持つと、それをカシャカシャと振る。今の私の荷物なんて、小銭しか入っていない財布とこれくらいしかない。
駅長さんの合図で、電車の入り口が開いた。本当に誰も乗っていない。長椅子にはふかふかとした布が敷かれ、壁面には広告がひとつも貼られていない。本当にSF映画の電車の内装みたいとぼんやりと思う。
私が電車に乗り込むと、売店の男の子は心配そうにこちらを見ていた。
彼がくれたキャラメルの箱をカシャカシャと振ると、男の子は少しだけほっとしたような顔をした。
『扉が閉まりますー、扉が閉まりますー。ご注意くださいー』
そのアナウンスと共に、ドアは締まった。そのままガタンと揺れることもなく、ツイーっと滑るように進みはじめた。
本当に彼のいない世界に行けるんだろうか。本当に歴史は変わるんだろうか。漠然とした不安と、少しのウキウキを胸に、私は電車の窓の向こうを眺めた。
気付けばすっかり日も暮れ、まばらに外灯が点滅している。
それをぼんやりと眺めていたら、だんだんおかしなことに気付いた。電車はたしかに前に前に進んでいるから、景色は反対側に進むはずなのに。景色はだんだん同じ方向にすごい勢いで進んでいくのだ。
「あ、あれ?」
このありえないはずの光景を、しばらくポカンと眺めていた中、アナウンスが響いた。先程の駅長さんの声だ。
『次はー「もしも」ー、次はー「もしも」ー、お降りの際は、忘れ物にご注意して……』
その穏やかな声は眠気を誘い、私はそのままガクン。と寝落ちてしまった。
「──お客さん、お客さん。起きてください。そろそろ駅を閉めますから」
「ん……んんんん?」
目が覚めたら、近所の駅の椅子の上で眠っていた。
駅員さんはこちらを心配そうに眺めて、私の体に触れないよう、必死で椅子を揺らしていたのだ。その駅員さんの着ている制服は、目がチカチカするような蛍光色ではなく、至って普通の制服だった。
時計を見ると、既に終電の時刻。私は慌てて「すみません!」と言って電車を出ようとして気が付いた。
お金が一銭もなくなったはずの私が、どうして財布にこんなにお金が入っているんだろう。
だんだん思い出してきたのは、今までの人生の出来事だった。
施設で育った私は、見るもの全てが敵だった。親がいないとわかれば侮蔑の顔か憐れみの顔を向けられ、いろんなものに制限がかかった。
施設を出て独立してからも、いろんなものに制限がかかった私は、ありとあらゆるセーフティーネットを調べて、サポートを受けながら登りつめた。
会社をつくって仕事をしていけば、ようやく私も普通の人になれたような気がした。さすがに社長を目にして、尊敬の顔を向けられることはあれども、侮蔑の目も憐れみの目も向けられることはなかった。
必死で働いていたおかげで、婚期を逃してしまったけれど、後悔はしていない……ううん。嘘。ときどき物足りなくなった。
私は駅を出て、家路に着く。
この世界ではどうやら私は、社会的には成功しても、恋をすることも結婚詐欺師に引っ掛かることもなかったらしい。そこそこ満足はしているけれど、ほんの少しだけ空虚な生活。
夢の世界では、私は結婚詐欺師のせいで、身も心もボロボロになってしまったし、最終的には彼のことを憎んでさえいたけれど、最後まで嫌いにはなりきれなかった。
彼はこの世界にはいないんだろうか。試しにスマホに連絡先がないかなと確認したけれど、どこにも彼の痕跡は残っていなかった。
この世界には、彼はいないんだろうか。少しだけ鼻の奥がツンとする。
あれは私の見た夢だったんだろうか。あれだけ憎く思った相手だったのに。そう思ったけれど、鞄の中でカシャンと音がすることに気付いて、私は「あっ」と声を上げた。
キャラメルの箱が入っていたのだ。夢の中で、私の話を最初から最後まで聞いてくれた子がくれた、キャラメルの箱。
私はそれをひと粒取り出すと、包みを開いて口に放り込んだ。
甘くて苦い、鼻の奥の痛さを思わせる味がした。