着陸
向かい側は、人の手で創り上げられた公園。こちら側は、きっと元々は手付かずだった雑草だらけの野原。つい先日まで私はここを知らなかった。今ではこの荒地が、自分にとって戻ってくるべき場所という気さえし始めている。
岩水海岸公園の係留地には、見学客らしい人は1人もいなかった。飛行船がいないのだから、それもそのはずだろう。
そういえば、と、あのSHUNというらしい男性の事を思い出す。あの人は今日は来ていないようだ。入り口から係留地全体を見渡してみる限りでは、どこにも姿は見当たらなかった。
飛行船の繋がれていない、あの大きな柱だけがポツンと立っているのが見える。何だか新鮮な光景だ。
この場所は海が近いので、少し潮の香りがしていた。これまでにここに来た時にも、無意識のうちにこの香りを感じていたような気がする。興奮でそれどころではなかったのだけれど。
飛行船も、他の見学者もいないこの広い場所で、1人何をするでもなく待ち続けるのはさすがにちょっと落ち着かない。
飛行船はいつ戻ってくるんですか、とスタッフさんに話しかけてみる勇気も出ない。もっと社交的な性格だったら。今の仕事も、そうなれるようにと始めたつもりだったけれど、実際の所うまくはいっていないと思う。
一度、車に戻る事にした。
車内でラジオを聴きながらしばらく待った。目も首もおかしくなりそうなくらい、頻繁に空をチェックしながら。
それでもまだ飛行船は戻って来ない。ただ今の時刻は17時53分です、とFMのパーソナリティが告げる。せいぜい16時、17時くらいには着陸するものなのかと思っていた。
あのまま公園の丘で眺めていれば良かったかな、ちょっと勿体なかったな。
そんな事を考えた直後、駐車場に「Smile Sky」のロゴが書かれた白いワゴン車が入ってきた。
スカイブルーのパーカーを着た人がたくさん降りてきて、ぞろぞろと係留地の敷地内に入って行く。ぱっと見、10人前後くらいはいると思う。
もしかすると、そろそろ飛行船が戻ってくるのかもしれない。
また速くなり始めた鼓動をはっきりと感じながら、私も彼らの後を追った。
いつの間にか、たくさんの見学客が集まっていた。
まだ明るいけれど、少しずつ日が傾いて来ている。
西側に連なる低い山の上に、小さな楕円形のシルエットが見えた。
戻ってきた!
スタッフの人達は、私達見学者のいる場所からだいぶ離れた所まで行き、整列しているかのように見えた。
吹き流しのようなもののついた棒を掲げている人が1人いる。風向きを確認しているのだろうか。あの柱のてっぺんにも、スタッフが1人スタンバイしている。命綱的なものか、腰の辺りを金具で柱に固定しているようだ。
ゆっくりと係留地に近づいてくる船影に、胸が高鳴る。徐々に大きく見えてくる。とても近い! あまりの迫力に圧倒され、思わず少しだけ後退りした。
周囲の人達も、食い入るように見つめていたり、カメラやスマホを構えているようだ。
私は、微動だにせずに飛行船を見つめ続けた。スマホを取り出す動作さえ勿体なく、画面越しではない世界で全てを見たいと思った。
ゆっくりと下りてくる飛行船を、10人前後のスタッフが手でキャッチする。動画で見た通りの光景が目の前に広がり、少しだけ鳥肌が立った気がした。
巨大な船はスタッフに囲まれ、その手で移動させられて行く。絶妙なコントロールで柱の上のスタッフに引き継がれ、先端部分が繋ぎ止められた。すごい技術だ。
その後もスタッフは何やら作業をしていたが、しばらくすると1人を残して、係留地を後にしていった。
私は、突っ立ったままその様子をひたすら眺め続けていた。相当怪しい雰囲気だったのではないかと思う。気が付くと、両足が棒のようになっている。変に力が入っていたようだ。あいたたた……と小さく呟きながら、芝生の上に腰を下ろした。
まだ見学客は何組かいて、飛行船の写真を撮ったり、スタッフさんと話をしたりしている。
先日の橋立さんと言い、飛行船のスタッフさんは随分とフレンドリーなのだなと思う。作業の手を止めてにこやかに、1人1人丁寧に対応している。
そういえば、橋立さんの姿は見当たらなかった気がする。今日は休日なのだろうか。
驚いた事に、とある家族連れが飛行船の操縦席に乗せてもらっていた。開け放たれたコックピットの扉の向こうから、子供の歓声が聞こえている。あんなサービスもしているなんて。
私も乗せて下さい! と、やっぱり私は言えそうにない。はしゃぐ家族を、遠くから羨ましく見つめるのみだった。
コックピットから降りてきた親子達を見て、私はその中の1人に見覚えがある事に気づく。
それは、山上係長だった。
「山上係長!」
思わず近づいて声をかける。おぉ、藤森さん! と、係長は嬉しそうな声を出した。
「やっぱり来てたんだね。俺も宣言どおり来てみたよ」
例の子だよ、と係長は奥さんらしき人に話す。主人がいつもお世話になっています、と、奥さんは丁寧にお辞儀をした。背が高くとても綺麗な人だ。こちらこそです、と慌てて私もお辞儀をする。
「息子が大喜びしてくれたよ。藤森さんのお陰だね」
息子さんは、係長の後ろに半分隠れるようにして私を見ていた。確か7歳と聞いている。私が初めて飛行船を見たのと同じ年齢。
「そんな事ないです。私の方が係長にここを教えてもらったんですから」
ついさっきの着陸の見学も、先日の写真撮影やスタッフさんとの関わりなども全て、係長がこの場所を教えてくれなければ出来なかった事だ。
「飛んでいたのを追いかけて来たんだけど、着陸する所は見られなかったよ。藤森さんは着陸も見てたの?」
「はい、初めて見ました」
「いいなぁ。今度は先回りして待ってなきゃな」
「私も時間がわからなくて、1時間半くらいずっと待ってました」
「1時間半も! すごいね」
係長は笑った。決していつものニヤニヤ顔ではなく、感心したというように。
また飛行船の方へ走り出そうとした息子さんを、奥さんが呼び止めている。ケイタ、そろそろ帰ろう、晩ご飯を食べに行くよ、と係長が声をかけている。
「藤森さんはまだ居るのかい?」
「はい、もう少しだけ」
「そうか、帰り道気を付けてね。それじゃあまた月曜日に」
お疲れ様でしたと挨拶を返し、家族を見送った。奥さんは軽く会釈をし、ケイタと呼ばれた息子さんは、バイバイ! と手を振ってくれた。
飛行船が着陸してから、既にもう1時間近くが経過している。そろそろ沈もうとしている太陽が、楕円形のシルエットをくっきりと浮かび上がらせていた。
少し寒くなってきている事と、空腹な事に気が付いた。もう、晩ご飯を食べに行こうと言うような時間になっていたのか。私もそろそろ帰ろう。名残惜しく感じながら、緑地の出口を目指した。
心躍った一日が、日没の係留地と共に私の背中の向こうへと遠ざかって行った。
数日後、動画投稿サイトにSHUNさんの新着動画が更新されていた。
飛行船SS号 6/4(土) 北海道・岩水海岸公園係留地
というタイトルだ。どうやら私はまた彼とニアミスしていたらしい。再生してみると、飛行船の着陸風景とその後の様子が収録されている。そして恐ろしい事に、小さくだが間抜けに突っ立つ私の姿が少し映り込んでしまっていた。
撮影されている地点からして、私がいた所からはかなり離れていた事がわかる。係留地の敷地は広大だ。とは言え、見学客の中にあの目立つ赤いウインドブレーカーを見た記憶はないので、違う服を着ていたのかもしれない。顔もさすがに覚えてはいないので、同じ場所にいた事に全く気付かなかった。
このSHUNさんという人は、行動パターンが私と同じという事だ。前回も今回も、土曜日の同じ時間に係留地へ行っている。
おそらくカレンダーどおりに休日が来る生活をしている人なのだろう。
土曜日に行くと撮られてしまうかもしれない……という思いと、一体どんな人なんだろう、という少しの好奇心。
スマホの画面に流れ続ける着陸後の飛行船を眺めながら、ふぅーっと長く息を吐いた。






