「係留地」へ
その日の夜、販売員の詰め所で、私は葵さんに飛行船の話をしていた。ちょっと興奮気味に。
「なんでそんなエキサイトしてんのさ。子供か。ウケる」
「だって、まさか飛行船が飛んでるなんて」
一日の売上金を数える私の手は、完全に止まっている。
仕事を終えて戻って来た販売員が集まる詰め所は、15畳ほどの広さ。
中央に焦げ茶色の会議用テーブルが並べられ、販売員はそこでその日の売上金の計算や、発注書の作成などを行う。
「札幌の街中じゃ、時々見かける事があるよ。宣伝になるんだろうねぇ。今年ももうそんな季節かぁ」
葵さんの話だと、春から夏にかけての間に飛行船を見かける事があるらしい。札幌ではこの季節の風物詩のようなものだそうだ。
私は地元から札幌に引っ越して来て6年になるが、その間一度も飛行船を見た事はなかった。
たまたまなのか、私がいつも俯いてばかりの生活をしていたという事なのか。
「俺も知ってるよ、その飛行船」
声を掛けてきたのは、係長の山上さんと言う男性。山上係長は、私達から一番遠い端の席で缶コーヒーを飲んでいた。
「去年、うちの息子と一緒に車で飛行船を追いかけたよ。途中で見失って諦めたけどね」
「車で飛行船を追いかけたんですか!?」
係長の話にも、興奮気味に食らいついてしまう。
「藤森さん、飛行船好きなの?」
普段は物静かな私がいつになく大きな声を出している様子が面白いようで、係長は目を細める。
「小学生の頃に実家の前で初めて飛行船を見たんです。ずっともう一度見たいと思ってたけど、その事ももうすっかり忘れていて……」
「そんで今日、その時以来に飛行船を見た、って興奮してたんだよね」
葵さんがニヤニヤと笑う。
周囲の人達にとっては飛行船はお馴染みの存在であるらしい事と、熱量に差がある事に、何となく気恥ずかしくなって私は黙ってしまった。
「飛行船SS号、5月20日北海道上陸。現在の係留地は岩水海岸公園向かいの緑地……だって」
山上係長がスマホを見ながら言う。どうやら、ネットで情報を検索したらしい。
「いわみず……かいがん? それってどの辺でしたっけ」
「なに、春琉、そこ行ってみちゃうの?」
ニヤニヤと楽しそうに聞いてくる葵さんの声に、何だか、自分がひどく幼稚な行為をしているかのような気になってきてしまう。
隣町の岩水市までは、車で約45分。
私はあの後、売上金の提出と翌週の商品発注を済ませて、車を北へと飛ばし始めた。
係長から教えてもらった「岩水海岸公園」という所は、聞いた事があるが行った事はない。ただドライブは大好きなので、未知の場所へ向かう事には特別恐れや抵抗はない。
職場にある地図帳を広げて係長が教えてくれた道順と、実際の案内標識を頼りに、私は躊躇う事無くそこへと向かっていた。
売れ残りのツナサンドを頬張りながら、アクセルを踏む。辺りは少しずつ薄暗くなり始め、帰宅ラッシュの渋滞にも時々巻き込まれながら。
「係留地」という言葉も初めて聞いた。
飛行船は、地上に停めておく事を「係留」と言うのだそうだ。停泊、か何かだと思っていたのだけれど。
26年生きていても、知らない事は色々とある。
教わった道順を進むと、段々と街灯もなくなり、辺りはどんどん暗くなっていった。車通りもほとんどなくなる。
本当にこの行き方で合っているんだろうか……とほんの少しだけ不安を感じ始めたその時、闇の奥に突如光るものが現れた。
白く発光する楕円形の物体。昼間に見た飛行船が、真っ暗な地上でその存在を主張していた。
見つけた!
鼓動が、一瞬で速くなるのをはっきりと感じた。
21時まで開いているらしい岩水海岸公園の駐車場に車を停めて、向かい側の区画へと歩いた。
闇に浮かぶ白い飛行船は、ひたすら大きかった。
昼間ははっきりと確認できなかったが、船体には紺色の文字で「Smile Sky」と書かれていた。
Smile Skyというのは携帯電話の会社の名前だ。私が使用しているスマホもSmile Skyだ。これは完全にたまたまなのだけれど、何だかとても嬉しくなった。
どこまで近づいて良いのか、よくわからない。私はドキドキしている胸を左手で押さえながら、緑地の入口らしき場所の手前に立って、飛行船を眺めた。背の高い雑草が一部だけ刈り取られているので、おそらくここから入るのだろう。
自分以外には見学者はいないようだった。そよ風が優しく草を揺らす音だけが聞こえる。
暗くてあまりよく見えないが、飛行船は前方の先端だけが何かに繋ぎ留められているようだった。その部分を軸として、船体は地上から少し浮いた状態で、ふわふわと上下している。とても不思議な光景だと思った。
すっかり忘れてしまっていた、小学生の頃の記憶。また見たいと強く抱いていたはずの思いも、完全に消え去ってしまうほどに長い年月が流れたのだ。
願っていれば、いつかまた必ず会える――
そうだ。あの時、父はそう言っていた。
飛行船の下で、一瞬何かが光るのが見えた。暗くて全く気づかなかったが、人がいるようだ。その人はパイロットが乗るという箱型のコックピットらしき部分の隣に立ち、何かをしている様子だ。おそらく飛行船のスタッフだろう、と思った。
改めて辺りを見回すと、緑地を囲むように立つ雑草の向こう側に、トラックが2台停められている。Smile Skyと書かれているようだ。視界に入ってはいたが、そちらを気にしている心の余裕はなかった。
徐々に冷静さを取り戻し、つい勢いでここまで来てしまった事を思い返した。
飛行船が見られる。そう考えただけで行動せずにはいられなくなった自分自身に対して、私は正直驚いていた。
初めて飛行船を見た日から19年。
小さな胸に持て余す程強く抱いた願いも、はっきりと思い出した。
大丈夫だよ、必ず会える未来が来るから。
あの幼い日の自分に伝えに行ってあげたい、と思った。




