冒険の終わり
何もなくなった係留地は、もう係留地ではなくて、ただの“岩水海岸公園向かいの緑地”だった。
見学客達も少しずつこの場所を後にする。私は、何となくまだ帰る事が出来ずに、芝生をがさがさと踏みながら宛てなくゆっくり歩いている。SHUNさんと一緒に。
「SHUNさんは、これからどうするんですか」
黒汐町で離陸を見た後と全く同じ言葉をかける。
「飛行船がもし道南の町に一泊するんだったら、追いかけたんですけどね。直で青森まで渡るんじゃそれも無理なんで……大人しく帰りますよ」
笑ってはいるが、寂しさを強く感じている事は痛いほどわかった。私も同じだから。
「はるさんは?」
「上司達にお土産を買って帰ります。ちょっとだけ高めの、何か良い物を」
「そうですか」
ついさっきまでマストが立ち、飛行船がいた辺りを眺める。何もない。風の音と、ほんのり漂う潮の香り。これがこの場所の本来の姿。
私が生きてきた26年という時の中の、たった2ヶ月間の出来事。SS号を知るまでの間に過ごしてきた長い日々よりも、それは遥かに遥かに濃くて、とても特別なものだったと感じる。
それなのに、もしかしたらそれらは全部夢だったのかなと思うくらい、ここにはもう何もない。強風の中で写真を撮った事も、黒汐町から先回りして出迎えた事も、夜の着陸も、SHUNさんとの時間も……まるで何事もなかったかのように、静かに時が流れて行く。
駐車場の入り口まで2人で歩き、私は立ち止まった。
「もうここで大丈夫ですよ。SHUNさん、本当に色々とありがとうございました」
SHUNさんは私を車まで送ってくれるつもりだったと思う。だが、私が走り去るまで見送ってもらうのは耐えられないと思った。こんな感情になる事に対して、強く戸惑っているもう1人の自分の存在を、はっきりと感じながら。
SHUNさんは、そうですか、と言いながら笑顔を見せたが、その後に続くであろう言葉を発さない。
「……そういえば、はるさんに僕の名前を言っていなかったですよね」
少しの間を置いた後、話題を探すようにして彼は言った。
「SHUNさんじゃないんですか?」
「いや、僕の本当の名前です。僕ははるさんの本名を知っているのに、なんかフェアじゃないかなって」
考えもしていなかったけれど確かに知らなかった、と思った。
「僕の本名は、道下俊哉と言います。普段からシュンと呼ばれているので、そのままハンドルネームにしてます」
「みちしたしゅんやさん。とっても素敵なお名前なんですね。なんか嬉しいです、知れて」
「はるさん」
優しく純粋な、少年の瞳で彼は私を見ていた。
「……いえ、すみません。何でもないです。来年、また必ず一緒にここで飛行船を見ましょう」
何かを言いかけてやめた事は気になったけれど、追求しない方が良いと思った。
「もちろんです。私もまたシュンさんと一緒に飛行船を見たいです」
「嬉しいです」
私がシュンさんと会ってから一番の笑顔だった。
「……それじゃあ、はるさん、また」
手を振り、自分の車がある方へと歩き出す。
シュンさんの後ろ姿が離れて行く様子を、何故か私は見ていられなくなって俯いた。
先週土曜日から今日まで、毎日彼と一緒だった。人生の中でのたった1週間という時間が、その何百倍にも感じるのは何故だろう。
シュンさん!
……と、私は声をかける事が出来なかった。遠ざかる大きな背中に向かって、もう少しで呼んでしまいそうだったけれど。
私達には、約束がある。
この約束が守られない未来はない事を、私は確信していた。
飛行船は、本来の目的としては企業の宣伝なのだと思うけれど、そういった事よりも、もっと大切なものを乗せて大空を飛んでいるのだろう。
父と一緒に初めて見たあの日。今となっては、あれは父が未来の私にくれたプレゼントだったのかもしれないと感じる。後付けで、いくらでも良いように解釈する事は出来るけれど。
ただ、言葉で言い表す事の出来ないこの素敵な感情を、あの時もし父がいなかったら、今の私はきっと知らないままだったと思う。そしてそのお陰で、普通に生活していては絶対にする事の出来なかった経験がたくさん出来た。
今生きている現実の全てに感謝しよう、と改めて思う。大切な存在がいつ離れて行ってしまうかなんてわからない。
だから、いつだって「ありがとう」を言って、「ごめんなさい」を言って、思いをまっすぐに伝えられる自分でいたい。後悔しないために。
そんな思いを抱きながら、私はひと夏のささやかな冒険が終わった事を悟り、帰路についた。
「すごいね藤森さん。全ルート、売上かなり伸びてるよね」
夜の詰め所で、いつもの缶コーヒーを片手に山上係長が微笑んだ。
「親切なお客さんが多いからですよ」
私は発注書を書きながら、照れ笑いをした。
実際の所、ここ最近の私のルートは、週全体で見て売上が以前よりも1万5千円前後も上がっていた。単純計算で1日約3千円のアップだ。
何故かと言うと、これまで苦手だった飛び込み販売を進んでするようになったからだ。新規の販売先もいくつか増えた。お客様が別のお客様を連れて来てくれたり、紹介してくれたりと言った事も重なり、幸運が続いてくれている。
飛行船が北海道を離れてから、1か月ほどが経っていた。
「売れ行きの悪くなるこの時期なのにね。藤森さんは、なぜかアップしてる。すごいね、どうしちゃったの」
「そんな事ないですって。優しいお客さんと、夏の新商品のおかげです」
係長からそんなに褒められると、さすがに照れずにはいられない。
「春琉、最近なんかちょっと変わったよね。雰囲気がさ」
隣で売上金の計算をしていた葵さんが言う。
「別人とまでは言わないけど、前よりもずっと明るくなった気がするよ」
「そ、そうかな?」
これまでは、人と話す場面を前にすると、どうしても一瞬踏みとどまってしまうというのが常にあった。近頃の私は、人との触れ合いが楽しいと感じ始めている。
この仕事に就いた目的、自分なりに掲げていた目標に、2年かかってようやく手が届き始めた気がする。
まだまだ、これからだ。
この時の私は知らなかった事だけれど、飛行船は“見た人に幸運をもたらす船”なんて言われていたりするそうだ。2か月間、あれだけ飛行船を追いかけていた私は、少なからずその恩恵を受けていたのかもしれない。
例えそんな事を知らなかったとしても、私は間違いなくラッキーだ。日本にたった一機だけの飛行船が飛ぶこの時代に、小さな子供でもなく、自分の意思で自由に動く事が出来る大人として存在していられたのだから。でなければ、あんな経験は出来なかった。
カレンダーを確認しようとスマホを見ると、SNSの通知が届いている事に気付いた。久しぶりに見るシュンさんのアイコン。思わず、あっ、と声が出てしまう。
「何?」
葵さんが不思議そうな顔をする。いや別に、と適当に返事をしておいた。
シュンさんとはあれから特に話をしていない。SNSは時々見ていたので、近況は何となく知っていたというくらいだ。それを見る限りでは、特別変わった様子はなさそうだった。
仕事中だがどうしても気になってしまい、スケジュールを確認しているフリをしてこっそりメッセージを開いた。
「…………」
「……なぁにさニヤニヤして。怖っ」
葵さんはずっと私の顔を見ていたようだ。
――はるさん、お久しぶりです。お元気ですか?
僕は飛行船ロスでずっと放心状態みたいな感じでした笑
嫌でしたら断ってくれて全然良いんですが、もしよかったら、近々会いませんか。
はるさんと飛行船の話がしたいです――――
いつだって、思いをまっすぐに伝えられる自分でいたいと、きっとシュンさんも心に決めているのだと思う。後悔しないために。
だって彼は、私と同じだから。
(完)




