再会
何本かの蛍光灯が薄ぼんやりと光る倉庫の中で、私は個装になったパンを仕分けていた。
ポップな白文字で「手作りパンのラビット」と書かれた赤い番重に、慣れた手付きでパンを並べて行く。食パン、あんぱん、クリームパン、バターロールやクロワッサン。自分なりの定番の位置へと並べる。
もう一つの番重には、菓子パンや調理パン。パイ生地の上に熱したフルーツを乗せたものや、メープルシロップの練り込まれたしっとり系のパン、目玉焼きを乗せたトーストや、練乳を使った生地でハムやレタスをサンドしたもの等々……
今日も、色とりどりの手作りパン達が、赤い箱の中に列を成して行く。
「春琉、おはよう」
声をかけられ振り返ると、先輩の葵さんが立っていた。
石黒葵さん。私の新人時代の育成担当だった人だ。
「おはよう、葵さん」
葵さんも私の隣で、軽快な音を立てながら番重を広げ始める。
「春琉、今日ってドーリ周辺だっけ? もし困ったら連絡して。私、すぐ隣の円山だから」
ドーリというのは大通の事だ。札幌市民は、大通公園近辺の事をそんなふうに言ったりする。パンがもし売れないようだったら、自分も販売に協力するよという意味の話だ。
2年程前からこの仕事を始めた。手作りパンの移動販売。
と言っても自分達でパンを作っているわけではない。いくつかのパン屋と提携して、各店舗から仕入れた商品を車に乗せて売りに行く。
私達は販売員だ。マイカー持ち込みで、決められた時間に決められたルートを回って販売をするのが基本。飛び込み販売、新規開拓ももちろんOKだ。ルート外の時間は自由。休憩を取るなり、飛び込むなり、それぞれの販売員の都合や意思で動いて良い。
葵さんはこの道8年のベテランで、先日所長になったばかりだった。
私より2つ年上だし(私は26、葵さんは28)、大先輩だけれど、彼女からは「気ぃ遣わないでタメ口で喋って」と言われている。敬語を使うと怒られてしまうので、恐れ多くも、まるで友達かのように話させてもらっている。
私とは真逆の、活発で豪快な性格。だからこそなのか、彼女とはやたらと話が合う。少なくとも私はそう思っている。
「うん、ありがとう。助かる。今日1軒目早いから、そろそろ出るね」
「ほーい。気をつけなねー」
番重を抱えて倉庫を出る。販売用と別に、ストックを入れた深めの番重も3つ程、車に積み込む。
私の車はコンパクトカーというやつだ。あまり大きくはないけれど、後部座席をフラットに出来るので、全部で5つの番重も難なく積み込める。
エンジンをかけ、ゆっくりと車を発進させる。
今日も一日の始まりだ。
この仕事を始める前、私は小さなイベント企画会社の事務員をしていた。
私は元々、人と話す事があまり得意ではない。小さな頃から内気な性格で、学生時代は友達も少なかった。事務員をしていたのも、人との関わりが最低限で済むと思っていたからだ。
契約期間が満了となり退職してから、求人雑誌をめくっていて今の仕事を知った。
趣味はドライブと言うほど運転が大好きな事と、接客業を経験して少しでもこの性格を変えられたら……と思った事が、この仕事を選んだ理由だった。
移動販売と言っても、車のトランクを開け番重を並べてパンを販売をするような方法ではない。契約や許可を受けている、あくまでも「会社」が基本的な対象だ。私達販売員は、番重を抱えて会社の事務所など所定の場所へとお邪魔し、そこで働く人達にパンを販売する。所謂キッチンカー的なものとは全く違ったスタイルだ。
今日も私はいつもどおりに仕事をこなす。無難に、マニュアルどおりに。
「3点で、670円になります」
「お姉さん、相変わらず暗算早いねぇ」
常連の、初老の男性のお客様からそう言われて、私はアハハと不器用に笑う。
商品3つまでなら、電卓を使わなくても正確に素早く暗算が出来るまでにはなっていた。お釣りをお渡しし、ありがとうございましたと頭を下げる。
正午から1時間と言う枠で販売に入らせてもらっているこの企業さんは、今日のルートの中で一番売上額が大きい。休憩室の片隅で番重を広げて待っていると、代わるがわるお昼休みに入ってくる職員さんがパンを買いに来てくれる。
午後1時を回ると、客足はぱったりと止まる。タイミングを見て私も片づけを始め、室内にまばらに残っている人々に「ありがとうございました~」と一声かけ、退室する。
外に出ると、眩しい日差しが目に刺さった。
季節は春、5月下旬。先月までは、まだ肌寒さに身を縮めていたはずなのに。
自然光のほとんど届かない屋内でびっちり1時間過ごした後のこの解放感は、結構好きだ。私は視界に青の明るさを満たしたくて、軽くなった番重を片腕で抱えたまま空を見上げる。
その時、私は思わずハッと息を飲んだ。
ビルのひしめくこの都会の中で、ちょうど建物のない少し開けた部分。
その上空に、白くて大きな楕円形の物体が浮かんでいる。
あれは、飛行船だ……!
今の今まで完全に忘れ去っていた、小1のあの日の記憶が急激に蘇る。それは、長い長い眠りから目覚めたかのような、何とも言えない不思議な感覚だった。
すぐ隣の駐車場に停めた車に急いで番重を置きに向かい、歩道に戻ってもう一度空を見る。飛行船は確かにそこに浮かんでいた。見間違いではない。船体に何か書かれているが、こちらに斜め後ろ側を向けているので、よく見えない。
それなりに人通りのある午後過ぎの街の歩道で、私は人目を気にせず立ち尽くしていた。金縛りにでも遭ったかのように、微動だにせずに。
飛行船は段々と小さくなり、やがて進路を変えてどこかへと消えて行った。側面が見える頃には距離が遠くなっており、文字をはっきりと読む事は出来なかった。