予想外の出来事
朝6時40分。
地方の営業所に配送するパンと、札幌営業所分のパンの仕分けをする担当の人達が、業務を終えて帰って行く時間。
彼らと入れ替わるようにして倉庫に向かうと、私の発注したパンが既に番重の中で綺麗に整列していた。
これは一体どういう事かと不思議に思っていると、おぉ、来たか! という声が後ろから聞こえた。
振り返ると、山上係長と葵さんが揃って倉庫に入って来るのが見えた。
「藤森さん、おはよう。今日のルート、俺が販売行ってくるから」
「え?」
係長はシャツの袖を捲り上げ、臨戦態勢という感じだ。
「いやぁ、昨日の夜、葵ちゃんから泣きつかれてね。そういう事ならって、一肌脱ぐ事にしたんだよ」
係長の言葉を聞いた葵さんは、はっはっはっ!と豪快に笑い出した。
「そうなのさ。ねぇ春琉、今日これから飛行船見送りに行って来な!」
満面の笑みで、急にとんでもない事を言い出した。
「はぁっ!? 何言って……」
「昨日さ、あの後私から係長にお願いしたの。だって春琉、死んだ魚みたいな目ぇしてたっしょ。こーんな」
「私そんな目……」
「してたしてた!」
と言ったのは葵さんではなく係長だった。
「藤森さんのお陰で、俺も息子にいい経験をさせてやる事が出来たからな。お礼と言ったらなんだけど、何も気にする事ないから、今日は行っておいで」
「そ、そんな。そんなわけには……」
「いーんだって。行かないと、私が係長に頼み込んでOKもらった意味もなくなるっしょや」
今度は葵さんが割り込み、私の背中を叩いた。
「私さ、ホントに嬉しかったんだよ。あのあんたが夢中になれるもの見つけて、積極的に動いてるの見て」
「私ってそんな消極的だったかな?……いや、でも、そっか、消極的か」
結局は自分でも認めてしまうのだけど。
「でも今はすごく積極的じゃん。ここまでやったんなら最後まで見届けて来て欲しいなって思ってるんだ、私が」
葵さんの言葉に、係長も隣で頷く。
「所長と係長がいいって言ってるんだから、いいんだよ。こんな事できるのも、ここが形上俺が取り仕切ってる営業所だからだ。社長が普段本社にいる職場で良かったね」
係長は親指を立ててニヤリとする。
「でも係長、今日、会議が……」
係長は白シャツを着ている。この服装をしている時は、取引先との会議や打ち合わせなどがある日。
「あぁ、一件だけね。たいした打ち合わせでもないから、夕方以降に時間をズラしてもらったんだ。先方も快くオッケーしてくれたから大丈夫だよ」
係長はニッコリと微笑んだ。
「ちなみにね、藤森さんの今日のルートって元々俺が販売員時代に回ってたルートなんだよ」
「え、そうなんですか?」
「新規で増えたとことか、注意事項さえ教えてもらえれば大丈夫。大体覚えてるしね。久々に懐かしのお客さん達に挨拶してくるかぁ~」
葵さんも山上係長もすごく強引だけれど。それ以上に、すごく優しい。
昨夜全開になってしまった涙腺がまた緩みそうになったけれど、何とか堪えた。
「……葵さん、係長。本当に、本当にどうもありがとうございます!!」
深々と頭を下げた。いいから早く行きなって! と促されるくらい、長く。
山上係長に今日のルート表を渡して、大急ぎで車を出した。
まさかこんな展開になるとは。葵さんと山上係長には感謝してもし切れない。2人には何か少し高めのお土産を買って帰ろう、と考える。
本州への移動フライトだから、きっと早い時間に離陸するはずだ。下手すれば、もう離陸してしまっているのかもしれない。
今の時刻は6時52分。
金曜日の私の販売ルートは、1軒目の訪問が7時40分と、全曜日の中でも断トツで早い時間だ。そのため今朝は、週の中でも一番早く職場に到着していた。そこはラッキーだった。
時々空を確認しつつ、通勤ラッシュの渋滞に巻き込まれながらも、岩水海岸公園を目指した。SNSで情報を確認しようかとも思ったけれど、そのために停車する時間が勿体ない。とにかく向かう事を優先した。
今の所、飛行船が飛んでいる様子はない。まだ間に合うのか、それとも、もう行ってしまった後なのか……
期待と不安の両方が、容赦なく胸を押し潰そうとしてくるのを感じる。
もどかし過ぎる渋滞を抜け、岩水海岸公園に辿り着いたのは、出発から約1時間後の7時50分。
飛行船はまだマストにくっついていた。それを見ただけで、また涙がじわりと溢れる。
間に合った。本当に良かった!
たくさんのクルーが飛行船を取り囲んで作業をしており、マストマンも待機している。
きっともうそろそろ、出発してしまう。
車から飛び降り、全力で走った。平日にも関わらず、見送りのお客さんが何組か来ているようだ。
敷地を入って右奥側、昨日も座って飛行船を眺めていた、いつものあの辺りに、SHUNさんの姿があった。
一瞬、私は彼に近づく事を躊躇した。けれど、そんな場合ではないとすぐに思い直す。
「SHUNさん!」
少し引きつったような私の声に、SHUNさんだけでなく近くにいた人までこっちを見たのがわかる。だが恥ずかしいと思う余裕もなかった。
「は、はるさん! ?」
SHUNさんは、来るはずのない私が突然現れた黒汐町のあの朝と、同じ顔をしていた。
その時、飛行船がマストから外された。
「後から説明します」
そう言って、私はSHUNさんの隣に立った。クルー達に運ばれて、ゆっくりと飛行船が遠ざかっていく。
私の元から、どこか遠くへ連れ去られてしまう……お願い、連れて行かないで。
どうしてもそんな気持ちになってしまう自分がいた。
「僕は7時半頃に離陸すると聞いてたんですけど、何かあって少し遅れが出たみたいです」
SHUNさんがそう教えてくれた。
「……良かった。間に合って。本当に、本当に良かった!」
思わず泣きそうになってしまう。遅れてくれて良かったと、心から思った。クルーの方々にはとても申し訳ない事だけれど。
ポジションに着いた飛行船は、少しの時間を置いたのち、一気にエンジン音を高めた。
エコーのように辺りに響き渡る轟音。地面を滑るようにスピードを上げ、私達の目の前を横切るようにして空へと向かう。日差しが眩しい。逆光で、丸く艶やかなシルエットになる飛行船。
私が到着してから飛び立つまで、5分もかかっていなかったと思う。
黒汐町で見た時のように、低空飛行でこちらへと近づく。よく見ると、パイロットが手を振っていた。操縦席のある左側の窓が開いていて、黒い手袋が左右に揺れているのがはっきりと見える。
係留地に集まった人々は全員、空を見上げ、笑顔で手を振っていた。どこからか小さな子供の歓声も聞こえた。SHUNさんも隣で両手を振っている。嬉しそうな顔。純粋に輝く目が本当に少年のようだと思った。
私も思いっきり手を振った。最初で最後になってしまった、“飛行船に手を振る”。ずっとやりたかった事がようやく出来た。全く予想外の、最終日に。
忘れてしまうくらい遥か遠い昔の願いが、叶って叶って、叶い過ぎて、すごい経験をしちゃったよ。お父さん――
心の中で話しかけると、頭の上を通り過ぎて行く大きな飛行船が、一瞬にして滲んだ。




